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福生

 相模原でのコンサートを終え、帰路は国道16号線を選んだ。ちょっと遠回りだが、慣れ親しんでいるので、標識を確認する事はほとんど無く運転出来る。仕事の後でのんびり帰るには、うってつけだ。それに、かなりの空腹を感じていたので、久しぶりに八王子の長浜ラーメンに寄りたかった、という事もある。

 カーラジオをつける。最近はもっぱらAMで思いのほか聴き入る事が多かったのだが、この時間面白い番組は無く、おまけに工事渋滞に引っかかる。少し動いたと思ったら、また工事。やはり、往路と同じ鎌倉街道経由が無難だったか、と少し後悔するが、八王子バイパスあたりでそれなりに流れ出し、長浜ラーメンに到着。

 さして美味と言う訳では無い、と言っては店に失礼だが、ここの濃い味は時々食べたくなる。一杯500円。長浜、と言う名称が付いているが、麺が福岡のそれに何となく近いだけで、スープはかけ離れている。所謂、豚骨魚介系なのか。見た目としては和歌山のものに近くもある。一口すする。あれっ、また魚介系の味が濃くなり、ジャンク度が上がったか。だが、あっという間に食べ終わり、替玉を注文しようとしたら、替玉サービスはもう終了との事。腹は半分程しか満たされなかったが、店を後にした。

 滝山城址あたりからはスムースに流れた。拝島橋を渡り、裏道を抜け、武蔵野橋を超え、右手に横田基地を望む。

 この辺りでは、交通量はかなり少なく後続の車も見当たらない。思わず速度を落とし、のんびり車を滑らせた。

 恥ずかしい言い方だが、この道は私の青春の道なのだ。20数年前幾度となくここを走っていた事を思い出す。イタリア料理のニコラはまだ平屋の店だったし、Three SistersやFelioなんて楽器屋もあった。その近くの陶器店はまだ看板はある。ノリタケが安く売っていたんだよな。古くさいドライブインはさすがにコンビニエンスストアに変わっていた。

 なんて事を思うが、今でも年に二回くらいはこのあたりに来ている。一昨年、家内と16号沿いのウノクイントに食事に来たが、20数年前と同じく、量が多く、結局折り詰めて持ち帰ったのだ。

 横田基地滑走路の誘導灯は消えている。瑞穂町に入り、車は側道へ。当時はこの側道が16号だった。左手のガソリンスタンドは今でもある。私は信号をまっすぐ通り過ぎたが、そのスタンドの角を左に入り、八高線の踏切を超え、週十メートルで中華料理店、そして教会、その隣に私たちが住んでいた旧米軍ハウスがあった。

 
 20数年前、私は現在の家内の李早とこの瑞穂町で暮らしていた。彼女はまだ学生で、私も大学を卒業して一年あまりぶらぶらしている時期だった。アルバイトはしていたが、責任は薄く、バンドの練習に精を出していた、と言える時期だ。当時よくやっていたバンドは週二回ほとんどと言っていい程リハーサルをし、月二回は必ずライヴがあった。そして時折他のバンドでも弾いていたが、音楽は金にならなかった。

 住宅地図を作成するアルバイトをしていた。家を一軒一軒まわり世帯主の名前を確認する仕事だ。車を持っていたので(地元の先輩から貰ったHONDAライフ360)重宝され、よく多摩地区の山中にいった。五日市、檜原、高尾、相模原、この辺りの地理に詳しいのもこの頃の経験に基づく。

 中でも檜原はよく憶えている。このアルバイトを始めて1年は経ちかなり慣れた頃だった。檜原村内、車で走れる道はそう多く無いが、幸い軽自動車だった所為もあり、若さ故の無謀か、馬力は非力だが、狭い林道もそこそこ登って行った。そして、待避所で車を降り、尾根づたいに山道を歩く。郵便配達のバイクとすれ違い、自分の行き先が間違いでなかった事をようやく確認。そして20〜30分歩くと山奥に部落があるのだ。そして、そこを一軒また一軒訪ね、世帯主を確認する。時折、お茶なんぞ振る舞われ、その家の縁側で山の景色に一息つく。十数軒に満たないのとある部落の確認だけで半日終わる事も少なくなかった。

 檜原での仕事は、半分は任されていたので、春から晩夏に掛け、4〜5ヶ月は費やした記憶がある。その半分とは、ほとんどが北側だ。南側は有料道路に繋がり奥多摩に抜けられるが、北側は山奥で行き止まりになる。途中、奥多摩に抜ける林道もあるが、当時はオフロード仕様必須の道だった。

 但し、檜原北側は小学校を過ぎると、道が抜けられない所為か、ぐんと交通量が減る。神戸岩という名跡もあるが、夏だと言うのに人はいない。その先、随分行くと少し開けて来る。当時、廃校になったばかりの小学校は手つかずでそのままだったし、設備のしっかりしていそうなサナトリウムもあった。そして、それらの奥、山を入って行くと部落があった。

 20代前半の悶々としていた時期、そんな厭世的に思えた場所(といっては住んでいる方に失礼だが)に惹かれた。季節や気候の変化でしか変わらない山の形を見ていたかった。

 で、車で一時間かけて福生に帰る。帰路には時折貸しレコード店に寄る。ティアーズ・フォー・フィアーズやトーキング・ヘッヅやモノクローム・セットなんか借りていた。当時の新譜のリチャード・トンプソン『Hand Of Kindness』やロバート・ワイアットの『1982〜1984』は彼女が吉祥寺に出た際に買って来てもらった。この二枚は本当に良く聴いた。

 そして福生。今でも、福生は特別な街である。無論、横田基地の存在が大きい。都心からは随分離れている分、独自の空気がある。私たちがいた瑞穂町は福生の町中に比べれば、静かなところだったが、公共交通の便の悪さの割には、住居も住人も多い。。当時はコンビニエンスストアも今程多く無く、深夜に福生の繁華街のコンビニエンスに行っていたが、いつでもそこの状況はこんな感じだ。店前の駐車場には、やたらに車高が低い車が数台、もちろんエンジンはかかっていて、結構な音量で音楽が鳴っている。その車にふさわしい輩が屯している。店に入ると、やたらガタイのよい黒人が3〜4人で買物。そして、夜中だと言うのに、塾帰りの小学生なのか、が数人で座って漫画を読んでいる。そこに、「おい、香典袋あるか」と、明らかに◯◯組のお兄さんって感じで目つきが鋭い奴が飛び込んで来る。それら全てに対応しているのは、中年のパートの小太りオバサンである。黒人米兵には片言の英語で、小学生にはやんわり注意し、表のシャコタン野郎たちも、どういう訳か追い返し、チンピラとは世間話までしているのだ。

 さて、ようやく酒の話である。が、実はこの頃私は全くと言っていい程酒を飲んでいなかった。毎夜、レコードを聴き、彼女と語らい、コーヒーやミルクを飲んでいたのだ。冬は旧米軍ハウスの立て付けの所為か、すきま風があり、寝床に入ってからも寒さを感じ、キッチンで牛乳を温める事もあった。

 酒に対しては以前に多少トラウマめいた経験があった。大学のジャズ研の新歓コンパでしこたま飲まされたのだ。もちろん未成年だ。かなりの勢いで飲まされ、ダウンし、その場で寝た。お開き時に起こされ、吐いたらしい。記憶は無い。起きたら翌日の午後だった。同級生宅に担ぎこまれた。起きた時分に家主は授業で留守。鍵は部室に、という書き置きがあった。南武線の線路脇近くのその部屋を出、駅に向かう途中、遮断した踏切で電車を通過するのを待った。当時の南武線は旧総武線の黄色い車両で、それが目の前を通り過ぎた時、物凄く虚しく遣る瀬無くなった。もう二度と酒を飲むまいと思った。

 それくらい酒に縁遠かったのだが、檜原でのアルバイトのとある夏の帰宅中に猛烈に喉が乾き、何故か、350mlのビールを一本買って帰った。特別にビールが飲みたかった訳では無く、ただ、甘いものは口にしたく無かったのだ。

 家に帰り、すぐさまタブを上げた。プシュ、と言う感覚は明らかに清涼飲料水と違う。ごくごく飲んだ。旨い。酒は悪く無いな、とその時初めて思った。それ以降、時折ビールは少しだが口にする様になった。

 その年の夏、正確には1985年8月12日だ。大きな出来事があったので調べるのも容易なのだ。その日、私は例によって山から下り、夕方帰宅した。彼女はお盆の帰省で実家に帰っていたので、今宵は一人だ。さて、夕飯をどうするか、と再び外に出た。先述のウノクイントやニコラはお気に入りだったが、一人で行く様な店ではなかった。東福生駅の近くになかなか良い蕎麦屋もあったのだが、折角なので福生駅の西口方面まで足を伸ばした。

 その当時でさえ、古くさいと思わせる外見の豚カツ屋を見つけた。扉を開けた。一直線のカウンターだけだった。腰を下ろし、すぐさま定食を注文しようと思ったが、ビールを一本注文した。ビールをコップに注ぎ、飲む。そして、何を食おうか、メニューを再考する。思えばこの時初めて一人でカウンターで飲んだのだ。それまではほとんど食らうだけだったのだが、そのとき初めてその空間で和み、何でも無いゆったりとした時間の経過を経験した様な気がする。そう言う事にふさわしいカウンターだったのはよく憶えている。

 入り口と平行のカウンター。正面では揚げ音が心地よく聞こえる。そして、自分の左肩上の後方から、AMラジオの音が聞こえる。良く飲食店で見られる部屋隅上のテレビ、まさしく、そういうテレビ台の上なのだが、この店ではそこに小さなトランジスタラジオがあるのだ。もちろん台の面積に比べかなり小さく、アンテナもしっかりのばされている。そして、その音は揚げ音にかき消される事無く、聴きとれる範囲で店内に響いている。

 臨時ニュースが入って来た。旅客機が墜落したようだ。ただならぬニュースにその場にいた全員が耳を奪われたようだった。ただ、その時点ではどこで消息を絶ったのかは解らなかった。

 カツやキャベツをつまみ、ビールをちびちび飲んだことと思う。ラジオでは随時そのニュースが折りに付け繰り返されるが詳しい事は解らなかった。ビールを飲み終えた後は、おそらく残った豚カツを白米とみそ汁のおかずにしたのだろう。

 家に戻って、テレビをつけてみたが、すぐさまに墜落場所は解らなかった、と記憶する。翌朝、彼女から連絡があった。墜落現場は彼女の実家から50kmあまりの群馬県の山中で、昨夜の深夜は消防や救急のサイレンが街中で鳴りっぱなしだったらしい。その後、テレビのニュースで事の詳細も知る。横田基地への不時着も視野にあった事も知る。

 多分その日は、アルバイトに出かけなかった気がする。

 その後、2年経たずして、私たちのハウスは取り壊された。家主がその敷地にマンションを建てたのだ。そして、ほぼ同時に隣の教会も無くなった。


 それから、暫くして、と言うか大分月日が経って、瑞穂町のホールを使って幾つか録音をした。その際に件の豚カツ屋に一度だけ行った。相変わらず、ラジオが鳴っていた。豚カツは然程旨くは無かった。

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