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エコー・アンド・ザ・バニーメンのウイルの自伝(1)

2021年8月にバニーメンのウイルの自伝が出版されました。

時系列的に整理しました。ウイルが19歳から21歳までの2年間です。
まさにとんとん拍子でデビューしていくのです。
(まだドラムのピート・デ・フレイタスは加入前です。)
彼等の1枚目のアルバム、Crocodiles はウイルとマック
2人だけのセッションでほぼ枠組みが出来上がっています。

バンド設立まで
1977年の夏にリバプールのクラブ、エリックスに行き始める(19歳)
1978年の夏にマッカル(マック)と知り合い、2人でセッション開始
1978年11月初ライブ
1979年5月にPictures of my wall インディーズで発売
BBCラジオでもかかる
1979年8月にメジャーなレコード会社が接触してくる
BBCのジョン・ピールセッションに出演する


1977年6月10日 ウイル、エリックスを発見、
金曜日のXTCのイベントに一人で参加。
同じ学校だったポール・シンプソンとレス・パティンソンと会う。
レスはとてもかっこよく見えた。彼は後にバニーメンのベーシストになる。
レスは言いました、
「僕らと一緒にいたかったら、髪を切ってもらわないとね。」
(注:この時代は長髪から短髪への過渡期でした。)

1978年、ポール・シンプソンの友人としてジュリアン・コープが登場
活気がある人物。ジュリアンとレジデンツの話で盛り上がる。

ポールがギターと自分の着ていた黒いズボンを交換しようと言って来た、
それがスタートだった。コードの書いてある本を買った。
その後、黒いテレキャスターを新品の160ポンドで買った、
ドラムマシーンも31ポンドで買った。 (ウイルがギターを買います。)

1978年2月8日、ポールが家に来てセッションをした。
インダストリアル・ドメスティック(セッションバンド)の始まり。
プロレタリアの音楽としてフィットしていました。

1978年の始め、ポールとジュリアンの友人である、
イアン・マッカロクを知る。 (バニーメンのボーカルです。)
デビット・ボウイのファンで、Dukeと呼んでくれと言っていた。
ジュリアン・コープとバンドを一緒にやるらしい。
この時点では二人の会話はなかった。

1978年初夏、ウイルは引き続きギターを練習していた。
Shallow Madnessというバンドをジュリアン達が始めていたが、
結局ボーカルの予定だったマッカルは参加しなかったらしい。

1978年初夏
マッカルが一人でいたので声をかけた、
「誰かを待っているのかい?」
「音とヴィジョンのギフトを待っているんだ。」と彼は答える。
それはボウイの曲の歌詞だった。

マッカルが次の木曜日に自分の家にくることになった。
それは大したことではなかった。
それは、70年代後半の人生の退屈さを癒すための試みに過ぎない。
自分には音楽ビジネスについての主なプランはなかったし、
有名になるとか運をつかむとか、これらの概念は頭には無かった。
自分としては少なくとも、
単に何か面白い事、クリエイティブなことをしたいだけだった。

1978年6月、初夏、
毎週木曜日にマックとウイルはウイルの家でセッションを続ける。

ウイルの家の応接室で演奏したものは
すべてバング&オルセンのカセットレコーダーに録音していた。
アコースティックギターも買った。
マッカルと数か月演奏してきたが、二三の曲が出来ていたが、
彼が歌うのは聴いていなかった。
それで満足しており、インスト曲を演奏し、
コードを変化させることが楽しかった。

1978年の冬、木曜日のマッカルとのミーティングはうまく行っていた。
いくつかのよい音楽的なアイディアがあった、
楽曲の骨組みがあった。Happy Death Man はウイルの歌詞の曲だった。

1978年11月15日(土) バンド初ライブ@エリックス
バンド名はまだマッカルと相談していなかった。
バンド名、いつの間にかついてるし、信じられない。
マッカルとジュリアンの案なのか、自分でバンド名をつけられなかった。
歌詞は知らなかった。ライブは成功し、「伝説的だった」と言われた。

今や僕らはバンドである。部屋にいる全員が賛成しているように、
僕もこの名前を気に入っています。これはバニーメンの誕生です。

1979年
2回目のライブはロックアゲインストザレイシズムでの演奏。5曲あった
I bagsy yours(monkeys), Ashes to ashes(stars are stars), Happy death man, going up, Read it in books.

1979年5月5日、ZOOレコードから自主制作盤をリリース、
マックの誕生日だった。各メディアに送付した。
The Pictures of my wallは全ての音楽メディアで今週のシングルになった。
ジョン・ピールがラジオでかけてくれた。
嬉しくて、ある種の宗教的な恍惚感にひたっていた。

1979年8月2日、
レコード会社にスカウトされるきっかけとなった重要なライブ。
ロンドンのトッテナムコート通りの室内でのフェスティバル
ジョイ・ディビジョンがヘッドライナーだった。

サイヤーレコードの社員が来ていた。セイモア・スタイン
セイモアは歌に心を打たれ、マッカルのステージに目を奪われる。
またしても、僕らは適切な場所に適切な時期にいるのです。
サイヤー・レコードが契約したいと言ってきました。

サイヤーレコードが契約したいと言ってきた2週間後、
別のエキサイティングなミッションがあった。
ジョンピール・セッションの為のレコーディングだ。
一週間後の1979年8月22日に放送される予定だ。

(2021年MIXIに掲載したものです。)

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