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犬とドライブ

「乗る?」と聞かれて「えっ」と言い淀んでしまった。言い淀んでしまった後にその空白が微妙な沈黙になってゆく様を眺めることしかできず、冴えない返事をしてしまったのが恥ずかしかった。

わたしのかわいがっている犬は運転ができるのでえらい。

よくドライブするんだよね、などという世間話を聞いて思わず「いいなあ〜!」と口をついて出た。

わたしは車の助手席に乗るのが好き。


つい先程友人と「異性の車に乗るのは勇気がいるよね」などという話をしたばかりだった。そんな話をえらそうにしたくせに、犬に二つ返事をするには後ろめたく、後ろめたさから微妙な沈黙を生み出してしまった。

「ねえ、さっきの話だけど本当に乗せてくれるの?」と聞いてみたところ犬はさも当たり前のように「うん」と答えた。

「やった〜」なんて、我ながらまぬけな返事をしたもののこれは今日の話なのか、はたまたいつか機会があったらなのか、などと悩んでいるわたしを置いて犬はすたすたと歩いていく。

「ほんとにいいの?」と聞くわたしに「いいよ」と犬はまた当たり前の顔をして、車に案内してくれた。


「友達と乗ってる時はスピード出せるんだけど」と言いながら犬の車はゆっくりと動き出した。別にスピード出しても怒らないよ、と言ったものの最速200キロ出る、と聞いて急にドキドキしてしまった。まだ死にたくない。

滑らかにすぎてゆく夜景、いつか別の人に乗せてもらった助手席を思い出しながら「明るいね」「きらきらだね」とか言っていたら犬は「東京出てきたばっかかよ」と笑っていた。


車を走らせた先、海沿いの冷たい風に吹かれながら煙草を吸う。座るには少し高いコンクリートの壁に犬が軽々と座る。隣においでよと言われたがうまく登れず手を貸してもらった。

寒いね、とか良いところだね、とかどうでもいいことを言いながらぽつぽつと降る雨みたいに沈黙を埋めていく。珍しく犬の手も冷えていて、風が髪の毛を攫っていく。風の強い夜だった。

寝静まった街で起きているのはわたしたちだけと錯覚するような夜。前にもあった、こうやってひとは記憶を上塗りして生きていくんだな、と思った。

犬はいつもしょうがないなあ、とでも言いたげにわたしを猫のように扱う。どうしようもない猫を助けてあげるようにわたしに手を差し伸べる。

だからわたしは、犬の前ではいつもどうしようもない猫として、甘んじてその手を取る。それが居心地が良かったし、わたしたちがわたしたちでいられる方法なのかもしれない。

犬はきっちりと家の前まで安全運転で送り届けてくれた。途中の路地裏で「なんか誘拐してるみたい」なんて笑いながらも。

帰りついても夜はまだ暗く、犬はこれから旅に出るそうだ。

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