「負けヒロイン」をみて幸せに笑える理由/『負けヒロインが多すぎる』感想
『負けヒロインが多すぎる』というアニメを見ている。抜群に面白い。でも何がそんなに面白いのか、説明することは難しい。きっと何も考えずに楽しむのが正解だ。でもあえて小難しく考えたい。なぜ「負けヒロイン」をみて、私たちはこんなにも幸せに笑うことができるのか。
#ネタバレは殆どないと思う
●恋愛の負けの特殊性
スポーツの勝負は「得点を競う」ことが多い。それが球技でも、芸術点を競う競技でも、数字で勝負が決まる。そこには「客観的基準」が必要だ。どういうプロセスでどちらが勝ったのか、誰から見ても明らかである必要がある。わたしたちは「勝負」に対して、そういう説明可能性を求めている。
しかし恋愛の勝敗は違う。それは寧ろ主観で決める方が良い。もし、客観的にきめる(つまりスペックで決める)人がいたら、その人は軽蔑されるだろう。恋愛の勝敗は「数字に還元されない何か」で決まるべきなのだ。プロセスが明らかになりすぎないこと。説明不可能性。それが重要になる。恋愛での勝敗は、誰かの「主観的で、かつ自分でもよくわからない理由」によって決せられるものだ。もちろん「容姿の美醜」はある程度の客観性がある。しかし美醜だけが基準ではない。八奈見も檸檬も「客観的な容姿の美醜」によって負けたわけではない。客観的に説明できない基準できまること、それ自体が恋愛の勝敗にとって重要なのだ。
●説明できないものを説明する「残念なやつ」という属性
「負け」を「説明可能な負け」と「説明不可能な負け」に分けるなら、恋愛の負けは「説明不可能な負け」であるべきだ。にもかかわらず恋愛には「負け組」と言うものが存在する。戦う前から「負け組」は負けそうなのだ。私たちは恋愛が「説明不可能」であることを願いながら、ある程度の「説明可能な負け属性」を共有している。「そうそう、八奈見って確かに負けるタイプだよね。」「可愛いんだけど、負けるよね。」そういう感覚を私たちは共有している。それを言葉にするなら「残念なやつ」ということになる。
「残念」と言う言葉は全くダメな時には使わない。「可愛いのに残念」とか、一見望みがありそうなのに、それを補うだけのダメなところがあるときに使う言葉だ。そしてダメなところは努力不足が原因なのではなく、その人の根本的なところに根差していて、きっと今後も「そこは変わらない」だろうという場合だ。そのダメ属性が「気遣いや思慮深さ」といった虚飾を超えて滲みだしてしまっている。それが「残念なやつ」の本質だろう。
●「残念な奴の賛歌」としての笑い
人はみな「内なる欲望」とそれを覆い隠す「虚飾」を持っている。「内なる欲望」とは「みっともない自分」だ。それを見せないように虚飾とともに生きている。でも「虚飾」は自分を苦しめるものでもある。私たちは、みっともない自分を露出したい「あこがれ」を抱えて生きている。「残念なやつ」は、それが出来てしまっている。私たちはどこかで「残念なやつ」に対して、ある種のあこがれを抱いている。「残念なやつ」は「恋愛で負ける」という代償を支払わされる。その負けっぷりを「たまらなく愛しい」と感じるのは、そこにあり得たかもしれない「隠さない自分」を重ねてしまうからだろう。だからわたしたちは「負けヒロイン」のみっともないところを笑う自分自身に対して、嫌気を感じない。そこには愛があることを確信できる。それが「負けヒロイン」というものをみて、こんなにも幸せに笑うことができる理由なのだろう。