フルタイム勤務で高収入だった私がライターを始めた理由

これは自己紹介の2回目の記事になります。フルタイム勤務のワーキングマザーだった私が、ライターを始めるまでの自分語りです。突然の変化を迎えている方に届いたらいいなと思います。

1.フルタイムの日々

大学を卒業してから、ずっと某製薬企業で働いていました。ある製品の専用工場で、衛生、防虫、検査、教育、文書と、なんでも担当していました。

新しいプロジェクトを動かし軌道に乗せることが多く、それが好きでした。なんでも、あの人に聞けばわかるという人であり、そのことに誇りがありました。

女性で、しかも子どもが3人いて、メインの仕事をするというのは、職場として初めてのパターン。先輩の男性社員には、「女は家にいるべきだ」と直接言う人もいました。

突然のトラブルで残業になることもあり、夫にも子どもにも、ずいぶん無理をさせていました。夫は、部署は違いますが同じ会社だったので、私の仕事が、どうなっているのかわかる立場の人。そうでなければ続かなかったと思います。

それに、薬の仕事は、間違いが許されず、念には念を入れて、もうひとつ念を入れるような仕事で、常にストレスにさらされる生活でした。


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2.早期退職

ある日、ホールに正社員全員が集められ、希望退職者の募集があることを知らされました。

そのころは、50歳を過ぎており、スキル伝承がメインの仕事で、自分で何かをすると「若い人に伝えないと」と言われる感じでした。少しずつ窮屈になり、「退職金が、もっと多ければ辞めるのに」と思う日々でした。

なので、話を聞いたとたんに早期退職の意志が固めました。

2.再就職

ちょうど子どもの大学進学の時期と母の入院介護状態が重なったので、それらが落ち着くまでは、しばらく自宅で失業中の主婦でした。

その時の希望退職には、再就職のあっせんが1年間ついていて、担当の方からは、できるだけ早く次をみつけるほうが良いと言われていました。それでも、母が、母の希望通り退院し、介護保険を使って、デイケアと家事、夕食補助を受けて一人暮らしをスタートさせるまでは待ってもらいました。

職探しを始めるか始めないかで、以前よりも大きな製薬会社の募集がありました。希望職種とは少し違ったのですが、面接に行きました。職務経歴を確認され、募集していなかった私の希望の職種で採用されることになりました。条件も、思ってもないくらい良いものでした。

希望の職種は募集がほとんど出ないと言われていたのと、こんな良い就職口には、もう出会えないというリクルートの担当者の言葉で就職を決めました。

3ヵ月先くらいに決まればいいかと、就職先を探し始めたのですが、できるだけ早く来てくれと言われて、最終面接の1週間後、就職先を探し始めて1ヵ月後には、また働き始めました。

3.発病

まだ慣れていなかったせいか、就職して2日目に職場で背中を強く打ちました。その時は、痛いとも言えず我慢しました。

そして、2週間後から、ひどい肩こりを覚えるようになりました。ひさしぶりに座り仕事になったせいかと思っていたのですが、少しずつ少しずつ痛さがひどくなってきました。

就職したばかりだったのに、何度も休まなければいけなくなりました。ブロック注射をしても、一瞬しか痛みは去らず、整体も効きませんでした。

あまり痛いので、脊椎がどうにかなっているのかと疑っていましたが、その頃かかっていた医師たちには、「脊椎な訳がない」「もし、脊椎炎だったら、もう死んでますよ」などと言われていました。

それでも、どんどん痛くなってきて、何かするためには座薬の鎮痛剤を入れて、その仕事をしなければならなくなっていました。

その頃、義母が亡くなり、親戚が集まったのですが、義叔母が、私の様子を、とても心配し、開業したばかりの脊椎の専門医を紹介してくれました。

義母の通夜の前に、夫に連れられて1時間半かけて診察に向かいました。

診断名は、化膿性脊椎炎。脊椎の椎間板から背骨にかけて、ずいぶんと溶けている状態でした。その医師の紹介で即入院となり、できるだけ安静にすることになりました。入院したのは、私がもともと再就職したいと思っていた次の日でした。


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4.入院

入院期間は3ヶ月とも6ヶ月とも言われ、その間、1日に3回点滴をする治療をおこなう予定でした。

それとは別に、脊椎に、直接太い針をさして、骨を溶かしている原因の菌を培養するという検査もおこないました。この検査は、部分麻酔で1回。全身麻酔で2回行ったのですが、菌は検出されず、化膿性脊椎炎でないかもしれないということになりました。

その後、骨シンチ、MRI、超音波、心エコー、レントゲン、CT、眼科の検査と、病院中の医師が思いつく限りの病気を想定して検査をしました。MRIは3回、レントゲン、CTは何度取ったかわかりません。

今でも,ちゃんとした病名はついていません。

そうしているうちに、上半身のコルセットがやってきました。コルセットをしておけば、動いてもいいということで、少し楽になりました。


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5.退院、その後

結局、私の骨は溶けているけれど、原因はわかりませんでした。コルセットをして、自然治癒を目指すことになり、1ヶ月で自宅療養になりました。

しかし、3ヶ月後、コルセットをしても骨が溶け続けているということで、背中にボルトを入れました。

ボルトを入れたところは、半年後には、つながりました。けれども、2年たった今でも、その下の骨が、海に洗われる岩のようには溶けているということで、治療が続いています。

途中で、コロナ騒動がおきてしまいました。私は感染に弱いので出勤できず、退職となりました。


6.現在の治療

現在は、現在までの治療の反応から判断して、リウマチ科での受診を続けています。

モノクロナ―ル抗体製剤という薬を2週間ごとに注射して経過を見ていますが、発症したころからすると、嘘のように、のんびりした気持ちです。


それでも、ずっと立っていたり、背もたれのない椅子に座ったりすると、横になるほど、つらい時もあります。

7.ライターの仕事を知る

今の治療の問題は、コストがかかることです。

いつも保険の最大金額になり、5万円ほど支払います。

私の病気は、難病に近いようなのですが、難病の名前はなにかといえば、あてはまりません。なので難病申請はできず、保険からいくらかは戻ってきますが、痛い出費です。

私は、薬剤師の免許を持っていて、職安の方には薬剤師で仕事をする方が収入を望めると言われます。

でも、薬剤師の求人は立ち仕事が多いので、今の体では不安が残ります。

お金のことを、どうにかしたいということで、図書館で借りた本をたくさん読んでいて、出会ったのが、ライターの仕事です。

家でできること、自分のペースで進めることができ、しんどくなったら横になればいいことが魅力でした。薬代だけでもどうにかなれば、ありがたいなと思っています。

いま、ライターの仕事を毎日しています。

文章を書くことを生業にしている方々と、コミュニケーションを取れることが、ありがたいです。

私は、小さいころから物を書くのが好きなほうでしたが、全然違う道を歩いてきたと思っていました。

今、こんなふうに文章を、仕事にしようと思うなんて、不思議な導きだと思っています。


もうひとつ、不思議なのが母のことです。

私は実母とうまくいかず、ずいぶん傷つけられて、苦しんで過ごしてきていたのですが、私が、最初の退職をしてすぐに、母が入院し、介護保険のお世話になり始めました。

私はひとりっこなので、母の介護は、いよいよ、来るものが来たかという感じでした。できるかどうか不安で寝れないほどでした。

母が介護を必要とする形で一人暮らしをするようになってすぐに、私が発病入院。介護は業者と母の妹に任せてしまいました。

私が背中にボルトを入れて退院した次の日に母が再入院。コロナで入院中の母に会えなくなり、ほとんど会わないまま亡くなりました。

私の背中の骨がつながっているのがわかったのは、母の四十九日の次の週でした。

私は、母の下の世話をせずに送りました。手を引いたのも1度か2度だったと思います。ずいぶん前から、いざ介護となった時、私は母の世話ができるかと悩んでいた私ですが、不思議なものです。

手荒なやりかたでしたが、私の人生はガタガタと音を立ててシフトチェンジしました。今の私のほうが、前よりも、ずっと私らしいように思います。


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