(追記)調査結果報告書の件

 読んだ。本当に前回の記事の答え合わせでしかなかった。Twitter(現・X)でも散々言われているが、やはりテレビ局・ドラマ制作側は「原作」を「自分たちの都合のいいように改変して使う素材」としか思っていないことが良く分かった。そしてその根底にあるのは「漫画コンテンツに対する見下し」だ。

 一般の方や専門家の方が「番組で使わせてくれ、金は出せない」と失礼な態度で言われて提供や出演を断ったというつぶやきは枚挙に暇が無いが、すべては業界人のそれ以外に対する見下しに他ならない。報告書の中で何度も出て来た「難しい人」という表現がすべてを物語っている。オタクが背中丸めて引きこもって書いたものを使ってやってんだから文句言うなと?

 芦原先生が制作側に送った文書を読むと、原作者として当然の「作品を大切に扱って欲しい」という思いと「漫画とドラマは表現が違うから多少の改変は仕方がない」と譲歩されている気遣いが同居している様がよく見て取れる。表現者として違いを理解して「ドラマにはドラマのやり方があり、そこは尊重すべきだ」と氏が敬意を持って取り組んでいたことが文章の端々に表れていると感じる。

 それだけに制作側の「原作」に対する敬意・誠意の無さに呆れかえった。ドラマは1秒たりとも見ていないが、エピソードの順番を入れ替えた記述には「は?」と声が出た。他人様から預かったものを引きちぎってバラバラにした挙句適当にくっつけて「元に戻したからいいでしょ?」と言っているようなものだ。創作者にとって作品は我が子のようなものとよく言われるが、制作側がやったことは、他人様の子の手足を引きちぎったに等しい。報告書全体を見ても「ウチは悪くない」と言い訳じみた内容になっており、氏が心血を注いで作り上げた作品を粗雑に扱われ、どれほど傷ついたか、想像するだけで胸が痛くなる。

 そもそも、報告書の中でも数十ページ以上に渡って原作者と制作側との「改変しないで」「ここがおかしい」のやり取りがあること自体がおかしいのだ。連載が終了して原作者本人が「今ちょうど時間があるのでいくらでも付き合いますよ!」と言ったのならともかく「セクシー田中さん」は連載中の作品だった。原作を借りている立場ならば、大元の原作に集中してもらえるよう、エピソードの切り貼りや改変などせず、原作をそのままドラマ化すべきなのだ。最終的にOKを貰ってから撮影を始めればいい。

 38ページの原作サイドとのトラブルもそうだ。配信許諾が取れないのなら、そもそも配信すべきではないのだ。やはり根底にあるのは「漫画作品および漫画家への見下し」だ。「何も変えて欲しくない」という氏の(原作者として当然の)こだわりを「自分たちの都合で無視していいもの」と思っていなければ、こんなことは起こらなかったはずだ。

 細かいところを指摘すると「父親のリストラはドラマとしては重すぎるのではないか」は空いた口が塞がらなかった。重すぎると感じるならそもそも「セクシー田中さん」を原作に選ばなければ良かったのだ。「セクシー田中さん」は様々な男女が悩みを抱えながらも関わり合うことで成長し新たな一歩を踏み出す、繊細かつ重厚な人間ドラマなのだから。そもそもリストラ程度が重いとは、ドラマはどれだけ薄っぺらなコンテンツなのだ? 子供向けの作品ならともかく、会社員の女性が主人公の大人の物語でリストラが重いとは噴飯ものだ。ドラマ「相棒」シリーズだと犯人の語る犯行動機ではリストラなど日常茶飯事だし、もっとエグい背景がいくらでも登場する。自分たちが薄っぺらだからと言って、ドラマ全体、ましてや芦原先生の作品まで薄っぺらにするなと言いたい。かわいい制服なんて心底どうでもいい。

「私だって全てお任せして「ああなるほどそうくるのか!面白い!」と思える脚本が読めるなら、それが一番楽だし嬉しいです。」

 結局、制作側は原作者を唸らせる脚本を書けなかった。それに尽きる。原作を借りている立場でありながら自分の力不足で連載中の漫画家の手を煩わせておいて「私のアイデア! クレジットに名前載せろ!」 どうやったらここまで面の皮の千枚張りが出来るのか。不思議でならない。

 「【別紙 3】有識者の方々からいただいたコメント」を読むと、やはり局が漫画作品を都合のいい素材としか思っていないことがよく分かる。里中満智子先生および東村アキコ先生の訴えを、すべての業界人は伏して読むべきだ。大切なのは原作であって「我が局が先んじて」でも「旬の俳優を使いたい」でもない。今回の事件はテレビ業界側の傲慢が生んだ悲劇だ。その傲慢さを改める気が無いなら、自分たちのオリジナル脚本でドラマを作ればいい。それが出来ないなら、漫画もドラマも関係ない、人として最低限の敬意を持って仕事をして欲しい。

 こんなことは一度だって起きてはならなかったのだから。

(ドラマのことばっかり言ってるが、漫画派としてはアニメの勝手な改変も同様に辟易している)

 小学館側の報告書も読んだ。こちらは作品の細かい部分がどのように改変されたのか、ドラマを1秒も見ていない自分でもよく理解できる内容だった。

 「ハリージ衣装でドラムソロを踊ることは、ベリーダンスの歴史的、文化的背景としてあり得ない」

 特に気になった箇所。芦原先生はただ作品の題材としてベリーダンスを利用したのではない。しっかりベリーダンスの歴史、文化的背景を学び「ベリーダンスとはこんなにも素晴らしいものなのだと伝えたい」という意思を持って作品を描かれていたことが分かる。
 様々な男女がそれぞれの性別が持つ生きづらさを抱えながらも新たな一歩を踏み出す。それはベリーダンスのステップのように見る者の心を動かす輝かしいものである。登場人物たちの成長とリンクするような画面の描き方は読むたびに新鮮な感動を与えてくれる。
 自分の適当な取材や知識で描いた作品が原因でベリーダンスが誤解されてしまったら申し訳ない。芦原先生の創作者・仕事人としてのプライドやポリシーがこの発言に表れている。氏のような考えを、脚本家をはじめとしたドラマ制作側が少しでも持っていたら、結果は変わっていたかもしれない。

 そして、やはり小学館側が芦原先生を「難しい作家」扱いしている点は度し難い。そこは「自分の作品に誇りを持って仕事をしている作家」と言うべきだった。小学館のクロスメディア事業局と「セクシー田中さん」の担当編集者との意思疎通がしっかり取れていたら、芦原先生がベリーダンスをただ作品のスパイスとして利用しているのではなく、しっかり歴史や文化的背景も取材したうえで作品に活かしていることが理解できたはずだ。そして氏の志をしっかり受け止めていれば、日本テレビ側にももっと氏の負担にならないようなアプローチが出来たのではないか。
 小学館の編集者は昔から評判が悪い。雷句誠先生やヒガアロハ先生、新條まゆ先生の事例で漫画好きから厳しい目を向けられていたが、ついに一人の非常に才能のある漫画家の命が失われてしまう事態を招いたのだ。

 上手くまとめられない。本当に、ただただ残念だ。

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