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思うこと。

世論が大きな声で埋め尽くされる時ほど
様々な視点でものを考えなくちゃと思う

多種多様な意見について
自分の考えと違うと切り捨てずに
一旦受け止めて、考えてみること
なぜこの人はこう感じるのか?考えるのか?
この情報は信頼できるものか否か?

そうすることでまた自分自身の想いも明確になるし
自分はどう感じるのか?なぜそう思うのか?を
深く考えるきっかけにもなる

流されず
染まらず
何かを否定する前に
非難する前に
決めつける前に

悲しみや憤り自責の念や率直な疑問など
自分の中に生まれてくる想いがあるなら
まずは自分の中で
それを十分に味わい尽くした方がいいと思う
蓋をしたり無視したり、
想いを吟味しないまま人の言葉に乗って語ったり
人の意見で昇華したつもりでいると
想いは固まり腐敗して、自分の心を蝕んでしまう

自分の中のことは自分でしか対処出来ないから
見つめるのは他者でなく自分の心だと思うから


羽生くんの一報について
ファンを含め様々な人々の反応に、
私は少なからず危惧の様な思いを抱いている

敵味方のようなものの見方をされる人が多いことに
心地よくないと判断されたものを切り捨てていく傾向に

芸能界に生きる人と
一般の人とでは
見え方が違うだろう

様々な視点の情報を得ている人と
一方向からの情報しか知らない人とでは
見え方が違うだろう

ファンである人と
そうでない人とでは
見え方が違うだろう

この方向から見たらこんな見え方になるんだと
冷静に受け止めることは、とても大事だと思う

自分の視点が絶対的に正しいのだと
信じ込みすぎては自ら世界を狭めることになる

ましてや当人たちしか本当のことは知り得ない
外野は憶測でしか語れない

理由に疑問を感じる人
悲しみを受け取る人
もっと良い解決策はないかと考える人
自分に非があると感じる人
繊細な人だと受け取る人
自己保身だと受け取る人
相手への思いやりを感じる人
相手を守れていないと思う人

色々な受け止め方があっていいんだと思う
だってみんな生きて来た環境も経験も年齢も性別も違うのだから

ただ気に入らない考えの人に怒りをぶつけたり、
こうあるべきと扇動したり牽制したりするのは
違うと思う

危害を加える様な危険なものについては
対象の当人が法に則って粛々と対処する
感情的に周りが騒ぎ立てるものではないと思う

人に影響を与えられる立場の人が
声高に強い言葉で扇動するかのように一方向の意見を叫ぶ時ほど
冷静に、その言葉を吟味する必要があると思う

この方向でいけば誰がどんな思いをするのか?
得をするか?損をするか?喜ぶか?悲しむか?
この出来事の影に隠れているものはないか?
騒ぐことで結果的にどんな現実になっているか?
など、そのことだけに集中するんじゃなく、
俯瞰して周りも同時に見る意識を持つこと

ここ数年の世の中を見ていて
これがいかに大事か身をもって知った

忌憚ない意見と
危険な部類のものとの見極めを出来る
中道な心の感覚を忘れずにいたい

表現する者にとって、
様々な視点を知ることが出来るのは
素晴らしいことだと私は考えている

たとえそれが作品の感想ではなく、
自分の人生における出来事に対してであっても

特にファンが伝える率直な気持ちは
表現者にとってとてもありがたいものだと思う

様々な立場の人の想いを知ることのできる機会
自分一人の頭の中じゃ知ることのできないもの

表現をする者にとってそれは宝に変わるものだ
ううん、表現する者だけじゃない
人として生きていくのに宝になるものだと思う

相手の意見が自分と違うことが許せないなら
許せないと怒りを相手にぶつけるよりも
なぜ自分はこの様に怒りを感じるのだろう?と
自分自身に問うてみる方が
ずっとずっと実りあるものになると思う

理解し合えないと判断したなら、
言うべきことは伝えて
争うのではなくそっと離れていく

怒りや悲しみの感情に浸り続けると
自分自身も相手も苦しくなるだけだと思うから

自分の心を見つめていれば
どんな風に想いが生まれてきたのか気付けるし
人にも慮ることが出来るようになると思うから

私自身が様々な失敗を経て
意識する様になったことたち
出来てることは少なくても、
意識が向くだけでも違うから
自戒も込めて思うことを書いた



羽生くんがプロ転向してから、私は羽生くんの目の印象や笑顔に違和感を感じ始めた。あのキラキラした印象が消えてきている事に。透き通る湖の底の様な透明感で覗き込みたくなる様な目だったのが、どこか暗く怯える印象を感じる様になって来た事に。しかし、そう感じながらもそれを言葉に起こすことは控えていた。語ったとしても優しい柔らかい言葉で包んで書いていた。人からどう思われるかが怖かったのもある。読んだ人が傷ついてしまわないか心配だったのもある。自分自身がそう思いたくなかったのも大きい。でも最近の羽生くんを見ていると、羽生くんを見続け応援するものとして、自分が感じたことをジャッジするのはやめて大切にするためにも書いておかなければと言う気持ちを強く感じ始めたため、こうして今書いている。

自分の発する言葉は自分の耳にも届くからマイナスなことを言わない様にと気をつけていた羽生くんが、僕なんか、と言い出した事に、余程のプレッシャーがあるのじゃないかと心配になった。何度も何度もその言葉を使う羽生くんについて考えた思いをこのnoteにもいつくか書いたのを覚えている。

今年春頃から更に違和感を感じる時が増え、GIFTが成功しても、ノッテが成功しても、先の見えない不安をずっと語っている羽生くん、仕事を詰め込まないといられない羽生くんから、私は羽生くんの心の悲鳴を聴いているような気持ちになっていた。SOSを出されているみたいな心の声。

AERAの、ファンの方に聞きたい事は?という質問に対し、期待に応えられてますか?という回答をされたのを見て、まるで、羽生くんが他人軸に自分を委ねている様に感じられて危機感を持った。
この感じている気持ちをなんと言葉にしたらいいか考えていた矢先にこの報告が届いた。

休むことなくずっとずっと突き進み続けている羽生くん。自分の心に耳澄ます時間を持たないと、いつか倒れてしまう、いつか大変な事になってしまうと感じる。
表現者としてアウトプットするばかりで進み続けていたら、いつか心が壊れてしまうよ。。

選手時代から五輪連覇や記録更新など凄いことをガンガンしてきた羽生くんだから、単独公演とかもう羽生結弦なら当たり前くらいに感じてしまうけど、とんでもないことをし続けている事に、周りも本人も実感として気付いてない気がする。

そこにプライベートでも大変革があった。
結婚離婚どちらの報告の文面にも、羽生くんの心のバランスの危うさを私は感じた。

私は、「羽生くん。一旦休憩しよう。」って言いたい。

最近の羽生くんのインタビューや番組みてて思う。羽生くんは競技者としての自分の想いはよく理解されていたけど、表現者としての自分の想いや望みや立場や才能などについて、まだよく自身で理解されてないのではないか?と。
立ち止まることは失うことじゃない。
立ち止まらないと見えないものもある。
疲れ切ってしまうと考える力も落ちるし心の視野も狭くなってしまう。
心が弱っている時は魔がさしやすいし、表面上の優しさを本物の優しさと勘違いしたり、下心や悪意にも気付きにくくなる。
様々な意見を受け止め宝に変える力も出なくなってしまう。

自然が好きと話してた羽生くん。
スケート練習することは辞められないのなら、仕事関係なく自然いっぱいのところで好きにスケートするのとかどうかな。
自然に出来たスケートリンクで滑ってる映像を挙げているスケーターさんたち、沢山いる。
雄大な山々を背に、空がくっきりと映り込む一面の氷。あんな素敵な場所で心のままに滑ってみるのも素敵だよなぁと思ったよ。

スケートからも離れるのなら、行って見たいところに行ってみるのもいいよね。
伊勢神宮をまたあげてくれていたのを見てとても嬉しかった。
伊勢神宮も緑豊富だし三重は海も山も近い。熊野古道もある。自分で薪割りして、その薪焚べて五右衛門風呂入れる民泊もあるよ。

羽生くんにとってこれ羽生結弦じゃないって思う自分も、三重の田舎旅とかして出会う人々はきっと分けて考えたりしないと思う。羽生くんは羽生くんだと歓迎してくれると思う。

色んな人と触れ合って、色んな価値観に触れて、色んな経験をして、ただ生きることを楽しんで、色んなことを感じて欲しいなと思った。

羽生くんの人生が豊かである様にと、心から願っているよ。







最後まで読んでくれてありがとう。
おやすみなさい☆彡

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