「線」とは一体何なのか?(東京心覚ふわっと感想記事)
東京心覚のふわっとネタバレありです。
東京心覚で強調された「線」という概念
心覚ではたびたび、「線」の概念が強調された。
結界の境界線。名前を書くときに用いる線。あちらとこちら側を分ける線。
中でも「線を書くことで名前が生まれ、それによって水心子は水心子となりえる」というシーンは非常に印象的だった。そこに人がいなくなると、自分たちはただの鉄となり、鉄という概念すらなくなると。
少し飛躍するが、私がこのシーンで思い出したのは、「私たち人間と同じような意識を有する動物はいるのか?」という問いかけの話だった。
私たちの意識を形作るものは「言語」である
上記の問いかけに対して答えるためにはまず、「私たちの意識は何で構成されているのか」という話になる。
哲学的な話をするとしたら同一性とか主体性の話になるのだが、とりあえず生物学的観点から見ると、「感情+思考」だと考えると分かりやすい。
感情は他の生物にもある。しかし、ひとの思考は少し特殊なものである。「言語」を有するからだ。
では、そもそも言語とは何なのか?
これも単純に定義できる話ではないが、ひとつの分かりやすい考え方として、言語とは「世界の線引き」である。
例えば「犬」という言葉は、それまでざっと「動物」とまとめられていたものに対して、「ここからここまでを犬と呼びます」と定義することによって、犬という概念を与えるものである。
だからひとの思考は特殊なものだ。世界のあっちこっちに、「ここからここまで」という線引きがなされている。他の生き物がグラデーションの抽象画的世界を生きている中で、私たちだけが輪郭線のはっきりとした色分けされた世界で生きているのだ。
線とはすなわち言葉と名前である
今回東京心覚で表現された「線」の話も、そのまま「言葉」や「名前」と解釈できるのではないかと思う。
特に刀剣男士にとって名前は重要だ。長曽祢虎徹は、長曽祢虎徹を名乗ることによって源清麿という存在から分離し、その存在を保っている。水心子くんも、「自分と他者を区切る境界線が必要なのかもしれない」と言っている。
今回表現された「線」は、やはり「名前」の話ではないのか?
(そう思ってもう一度心覚を見たいのだが配信が終わってしまった……)
ここまで読んで下さってありがとうございました。またもう一度配信見れたら何か追記するかもしれないです。
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