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東アジアの人たちと、日本の絆

┃台湾の高砂族と、日本の絆


十年ほど前、フェイスブックで昭和天皇と台湾の高砂族について書いた事があります。
1923年、まだ日本だった台湾をご訪問された昭和天皇に対し
お迎えした日本の将軍が、原住民のアミ族を
「蛮族です」
と紹介したそうです。
すると昭和天皇はお怒りになられました。
「朕の国民を蛮族呼ばわりするとは何事か!」と。
…その後、
舞踊や芸術にちなんだ言葉である「高砂」をとって
先住民族の総称は「高砂族」と言われるようになりました。
大東亜戦争末期には志願してきた高砂族を
「高砂義勇隊」として部隊編成し、フィリピン・ニューギニア戦線などで日本兵と共に闘いました。
画像(下)で腰に装備しているのは先祖伝来の蕃刀です。

高砂義勇隊

高砂義勇兵は大東亜戦争では過酷なニューギニアのジャングルに送られ、前線で戦う日本軍の物資を運ぶための「担送要員」として活躍しました。
この任務には朝鮮人軍属もいたのですが、彼ら朝鮮人は途中で食糧を食べてしまい、いつも目的地の日本兵には半分も届かなかったそうです。
しかし、この台湾の高砂族は違いました。
(以下、丸谷元人氏のお話)
ある時、前線部隊に向けて食糧を背中に背負い輸送していた一人の高砂族の青年が、ジャングルの道ばたで「餓死」しているのが発見されました。
その餓死した高砂義勇兵の背中には
大量の食糧が背負われていたそうです。
その食糧に高砂義勇兵は一切手をつけていなかった
というのです。
このことは、「ここまで命令と任務に忠実たり得るのか」と、日本軍将兵らは感嘆したそうです。

この高砂族は、日本統治時代に日本の教育をどんどんと吸収した結果、自らを「日本人」として認識するようになり、
日本に対する信頼や忠誠心は、場合によっては日本兵以上のものがあった。

白人の植民地支配『愚民化』…とは対照的な日本の教育

┃連合軍による処刑を覚悟で、現地人は日本兵を助けた →その後処刑、又は数十年投獄

●アイタペの戦い
当時は過酷な環境下で、人肉食も起きてしまう程の凄まじい飢餓地獄でした。
地元のパプアニューギニアの住民達は、その日本兵の姿を見て、日本軍の敗北を悟りながらも、タロ芋等を大量に日本兵に食べさせてくれました。
その結果、
日本人、一万二千人が生き残る事ができました。
東部ニューギニアだけで16~18万人の日本兵が餓死や病死で亡くなっていた頃のことでした。

そして戦後、
この日本兵を助けてくれたパプアニューギニアの人たちはどうなったか?
オーストラリア軍によって「日本軍に協力した」という事で
反逆罪で処刑されたり、何十年も投獄されたのでした。

繰り返しになりますが
「日本は負けるだろう」と分かっていながら、『助けた』のです。
それは即ち後に、連合軍から罰せられる覚悟を必要とした行為でした。

戦後、現地に行った丸谷元人氏が
「何故、命を懸けてまで日本兵を助けたの?」
と現地の人たちに尋ねたところ、こう答えたそうです。

「戦争が始まる迄、我々はずっと、占領していた白人に、
奴隷の様に扱われていた。
しかし、日本の兵隊は、白人とは違った。
日本軍は『一緒に白人を追い出そう!
そして独立しよう!
その為に、我々はココ迄来たのだ』

と勇気づけてくれた。
彼ら日本兵は、我々と同じ物を食べ、
同じ小屋に寝泊まりしてくれた。そして
とても子供達を可愛がってくれた。
真に人間扱いしてくれたのは、日本が初めてだった。
私達は、そのことが嬉しかった。
だから、そんな日本人の兵隊が死にかけているのを、
僕たちは放っておく事は出来なかった』

日本兵は、この方達のお陰で、戦後祖国に帰還でき
その後、彼らから生まれた子孫達を含めると
数十万の日本人が、
このパプアニューギニアの、命を懸け献身的に尽くしてくれた方達のお陰で、命を繋いでゆけています。
今現在もパプアニューギニア人達は、日本兵の話を伝え聞いており、とても親日だそうです。