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悲劇の親日家 朴鉄柱氏

(数年前、アメーバブログで削除された記事を再度投稿します。)動画(これも削除)の文字おこしです。
アメリカは戦後、日本の周辺諸国を反日に仕立て上げ日本を特亜三国を通して叩いてきました。
その様な中でも反日思想に染まらなかったある韓国人のお話です。

┃反日韓国が抹殺した韓国人・朴鉄柱氏 

(大正十一年(一九二二)、釜山生まれ 平成二年一月逝去・六十八歳、昭和二十九年五月「日本文化研究所」を設立)

大東亜戦争下に日本の皇典講究所を卒業。下関の住吉神社に奉職。戦後韓国に帰国。李承晩大統領の反日政権下にあって苦汁を嘗めさせられる。(日本の学校を出た者は、「民族反逆者裁判条例」に引っ掛かり追放)

朝鮮動乱を経て、昭和29年5月に「日本文化研究所」を設立。
研究主題は
一、日本上代文化の研究
二、帰化文化の研究
三、日本の信仰、道徳等精神文化の研究

同じころの我が国が、敗戦により自国文化の否定、罵倒する言論がまかり通っていたのとは対照的です。

その後「日本と韓国」(韓国と日本ではない)という著書を南朝鮮で出版しましたが、「反共法」に引っ掛かり、朴氏は裁判にかけられ、三年半の刑が言い渡されました。

著書は全て没収・焼却されました。この著書は三分の二が日本への言及であり、日韓の恒久的安定が説かれていました。

出獄後KCIAからの査察を受け、何回か投獄の憂目を見ましたが、それでも初一念を曲げず「日本文化研究所」は名称を「韓日文化研究協会」と改め、細々と続けていました。

資金なく、生活は文字通り赤貧洗うがごとき状態でした。

名越二荒之助氏が昭和四十二年に学生達と訪韓し「韓日文化研究協会」を尋ねた時に荒廃して目も当てられぬくらいの研究協会の建物を指さしながら
「これで松下村塾なみになりました」
とカラカラと笑いました。

┃名越二荒之助「朴鉄柱大人を偲ぶ」より
朴氏は吉田松蔭のような生き方をもって、日韓永遠の架け橋たらんとしていたのです。
私たちが来るというので、朴氏の弟子数人も集まっていました。
朴先生と弟子たちの目は爛々と輝き、底知れぬ迫力を感じました。
対座していると、反日砂漠の中でオアシスに出会ったような安らぎを覚えました。
朴会長は我々の訪問を待ちかねたように、語り始めました。それは堰を切った急流のように溢れ出て、とどまることを知らず、三時間がアッという間に過ぎました。

「韓国から日本をながめていると、日本が〝心〟という字に見える。
北海 道、本州、四国、九州と〝心〟という字に並んでいるではないか。

日本はすばらしい。

万世一系の御皇室(御をつけらる)を戴き、歴史に断絶がない。日本固有の神道が、現在に至るまで相続されており、全体が調和された形でできている。
〝八紘為宇〟という考え方は、日本の大らかさの現れであって、これは積極的に世界に知らせる必要がある。

それに較べて韓国の歴史は、悲惨であって断層が深く、涙なくして見ることはできない。暗い場所から見れば、明るい所は余計にはっきりと解る。韓国は日本文化の豊かさの中から学ぶことによって、内面的支柱を確立するよう努力したい。」

「韓国の檀君神話といっても、あれは高麗時代、モンゴルの支配下に置かれた時、一然上人が民族精神を振起するためにまとめたもので、高麗神話の性格が強い。
ほかに新羅や百済や駕洛にも神話がある。
韓国は、日本のように統一した一つの 神話にはなっていない。

日本神話は、ギリシャやユダヤの神話に較べて明るく、ロマンの香りが高く親しみやすい。
それに日本神話は檀君神話より四百年も前にまとめられた。
私が日本神話に内面的親しみを感ずるのは、日韓は同祖だと信ずるからである。
それは民族学的な立場からも立証できる。韓国は古来から祖先信 仰と自然崇敬の念が強く、山神霊廟があり、それらをまつるために、『鳥居』や『しめなわ』『ヒモロギ』を使ってきた。それに日韓両国には、「白衣」の思想が あった(これらは中国にはない)。

日本の神職は、神に近ずく時には白衣を着る。韓国民も霊廟に参拝する時には白衣を着るし、目上の人に会う時にも白衣を着るのが礼儀となっている。まず自らの身を浄める訳である。」

朴鉄柱氏(右)

「第二次大戦後の日韓関係は、李承晩政権の影響もあって、共産主義以上に日本を憎む傾向があった。
そのため日韓の氷山の一角を誇大に強調して、隠された部分を見落していた。
お互いの精神的歴史的豊かさを掘り起す努力をしようではないか。
そのために日本は自信をとり戻して、おおらかに民族形成の原点に立ち返ってほしい。」

「現在の日本人の自信喪失は敗戦に帰因しているが、
そもそも大東亜戦争は決して日本から仕掛けたものではなかった。
平和的外交交渉によって事態を打開しようと最後までとり組んだ。

それまでの日本はアジアのホープであり、誇り高き民族であった。
最後はハル・ノートをつきつけられ、それを呑むことは屈辱を意味した。
〝事態ここに至る。座して死を待つよりは、戦って死すべし〟
というのが、 開戦時の心境であった。

それは日本の武士道の発露であった。
日本の武士道は、西欧の植民地勢力に捨身の一撃を与えた。それは大東亜戦争だけでなく、日露戦争もそうであった。
日露戦争と大東亜戦争-この二つの捨身の戦争が歴史を転換し、アジア諸民族の独立をもたらした。
この意義はいくら強調しても強調し過ぎることはない。」

「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗けたのはむしろイギリスを始めとする植民地を持った欧米諸国であった。
彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝ったか敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決る、というのはクラウゼウィツの戦争論である。

日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。
日本こそ勝ったのであり、
日本の戦争こそ、〝聖なる戦争〟であった。

ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが、こんなものはすぐ回復できたではないか。
二百数十万の戦死者はたしかに帰ってこないが、
しかし 彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇の対象となるのである。」

その後、朴氏は肺がんに犯された体に鞭打って、亡くなる一年前の平成元年一月に先帝陛下の御大喪の際に来日したそうで、朴氏から兄と慕われた中村武彦氏の文章より朴氏のお人柄を偲べます。

<平成元年一月、先帝陛下の崩御の直後に重い足を引きずって彼は東京にやってきた。
先ず二重橋の砂利の上にひざまづいて、長い間頭を上げなかった。
御大喪の日には、雨の中を早朝から皇居前の堵列(とれつ)に加わり、お見送り申し上げた。
名も無き一韓国人が、瀕死の身を以て氷雨に濡れながら、泣いて先帝陛下にお別れしたその悲しい真心を、
御神霊は必ずや御嘉納になったであろう。>

大喪の礼 1989年(平成元年)2月24日

この様な朝鮮人がいた事を決して忘れてはならないが、今の朝鮮は日本統治時代が良かったと言ったご老人が殴り殺され、その行為を賞賛する奴までいるような国となっています。
以上。

朴鉄柱氏の書

親日派の韓国人は朴鉄柱氏だけではありません。
アメリカの情報戦により日本の周辺諸国を反日思想に仕立てた為、新日派の声は抑えられているだけです。