(    )の中の思い出

※こちらの記事は、自分の思ったことを思ったように好き勝手に記載している、自己満足感満載の自分語り記事でございます。どうぞご容赦ください。

 小学校のプリント教材の穴埋めにロマンを感じていました。

 植物の育つ三要素は、(   )(   )(   )である。

 みたいな。カッコの中は、水、光、温度だったかな。間違ってるかもしれないので、鵜呑みにしないでね。そう、植物って、「土」どころか「空気」がなくても育つんですよ。オマケに、子孫の残し方が「無性生殖」と「有性生殖」を交互に繰り返したりする。シダ植物だったかな? 大学受験のときの予備校の教師に「植物って超異次元だから」と言われたのを、印象深く覚えています。

 この(   )の中に何が入るか。プリントが配られて、すごくワクワクするんです。どんな言葉が入るんだろう? どんな世界が繰り広げられるんだろう。
 で、授業が進んでその中身がわかる。すると、大概なーんだ、となります。そんなことか。意外とフツーだな。なんか期待外れ。
 
 そんな、(   )に対する期待とガッカリ感、大人になってもよく味わいます。
 「この価格でこの内容はいまだけ!」とか「門外不出のメソッドを選ばれた10人だけに伝えます」とか。
 「ピンときたらどうぞ」とか、「これを見たときがあなたのタイミングです」、みたいなのも、ちょくちょく目にしますね。

 クローズド商法、というそうです。平たくいうと、煽って買わせる。自分の場合、手に入ってしまえば、そんなもんか、となったこと、たくさんあります。
 わたしは「声」を出すことに興味があり、何回か単発のボイストレーニングを受けたことがあります。個人でボイストレーニングの講座をされている方の中には、すごい特別感と価格を打ち出して煽ってきたり、スピリチュアルとかオーラとかメンタルトレーニングとか、単なるボイスレーニングではない付加価値で独自性を出したりと、色々ありました。
 ボイストレーニングって、形ある商品と違って受講してみないと効果がわからないし、その効果も人それぞれに違う。だいたい、普段体をあまり動かさない人が、ストレッチして、発声してみれば、ビフォーアフターは「まったく変化しない」ことはまずないわけです。
 だけれども、「このメソッドを受けてみれば、今までにない切り口で自分の声がよくなるかも知れない」とか、あーだこーだ期待して、結局「こんなもんか」となる。ずいぶん長い間、自分の体から自分の声を出すことについて、ヒトマカセにノウハウを得ようとしてきました。
 そう、売り手は購買意欲をあおる一方で、買い手も「これを手に入れたら、わたしのニーズは満たされて完璧になるかもしれない」という欲目がある。どっちもどっち、ということでしょうか。そもそも資本主義は「売ってナンボ」ですからね。誇大広告は規制の対象ですが、売り上げのために買い手の購買意欲を刺激するのは、むしろ正攻法であります。

 「完全」を求める脳の働き。ツァイガルニク効果というそうです。
 読みかけの本、「イイトコロ」で中断すると、続きが早く読みたくなる。また、一部が不自然に欠けた図形「C」。欠けた部分を補完して「O」と捕らえる。そんな脳の特性があります。
 わたしたちの脳は、「完全」な状態を欲して、「不完全な情報」に飛びつくのかも知れません。
 また、(    )の中身をワクワク期待し、期待外れだった。だけど、次の(     )の中身をまたワクワク楽しみにする。わたしたちの(     )の探求は、終わりがなくキリがないのかも知れません。

 わたしは、ここ2年ほどフェルデンクライスを実践し、最近になって呼吸が今までより深くできるようになってきました。そうすると、声の出し方が、今までとは違ってきました。小手先のノウハウではなく、体の使い方そのものから、自分の求める「よい声」に近づけたのです。
 そもそも、フェルデンクライスを始めたきっかけは、自分の右肩が痛くて仕方がなかったのを少しでもラクにしたいというものでした。事務仕事で長時間座ってパソコンをするものですから、肩も腰も痛くて仕方がなかったのです。だけど、フェルデンクライスで体の使い方を見直すことで、そういった痛みも改善したし、声の出し方まで変わってきた。

 声の出し方の変化は、(     )の不完全さを探求した結果ではなく、別の目的で始めたことから副次的に発生した「オマケ」です。どちらかというと「棚からボタモチ」的な成果です。
 「このノウハウを手に入れると、わたしの声の出し方はより完全に近くなるかもしれない」という脳の期待は、ある意味完全に裏切られ、思ってもみないところから、成果を得たわけですね。
 求めた結果、期待通りの成果は得られず、無為の偶然で欲しかったものが手に入る。それこそが、(     )の探求の醍醐味なのかも知れません。

 20年程前は、メジャーアーティストの新曲もラジオやテレビで聞くか、CDを買うかしか、耳にしたり手に入れる術はありませんでした。
 わたしの家は、JPOPのCDを買ってもらえず、テレビも見せてもらえず、小学生の頃クラスの話題についていけなくて、とても恥ずかしかったのを覚えています。唯一日曜日の昼間、ラジオから流れるオリコンチャート上位の歌を必死に覚えました。
 それがインターネットが発達し、いまやCDはアイドルの握手交換券のオマケ、動画サイトを開けば古今東西の名曲が、いつでも何度でも視聴できます。小学生の頃、わたしが求めた(     )は、こんな形で実現してしまいました。
 それは、もう次いつ聴けるか分からない「あの曲」に必死にくらいついた記憶から考えると、ありえないほどの幸運であると同時に、もうあんな風に誰かの曲を必死に追いかけることはないのだろうと思います。
 ワクワク、焦がれるような純粋な気持ちで(     )の中身を追いかけることができていた、それ自体が幸福なことだったのかもしれないと、そんな風に思ったりします。

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