俺の色に染まりな

※こちらの記事は、自分の気づきを備忘録的に自己満足的に記載しております。なんのこっちゃ要素満載です。どうぞご容赦ください。

 先日、ふと大きな気づきがあり、前述の記事を勢いに任せてでしたためました。職場にて、特定の方に対し「相手に呑まれてしまう」ような感覚がある。で、その人が近くに来た時にハミングして自分の体の振動を感じるようにしたら、「自分がここに存在する」という感覚が得られましたよ、という体験話です。

 振動とか響きとかバイブレーションとか。発信することって、その方固有の「バイブレーション」を世界に向けて表明していること、なのかもしれないと思いました。今回はそれを記事にしたいと思います。需要?なにそれ。

 わたしは、機能不全家庭でゴリゴリと精神的に圧搾され、「自分の意見を言わないように」してきました。学校でもいじめられてきました。「その世間のなかで醸成された「常識」に障りのない程度を見極め、できるだけ対象を震わせないように(振動させないように)当たり障りのない発信をする」ような感覚で今まで生きてきました。

 本来、人は自分が発信、相手が発信、波動が響き合って自他を知っていく側面があるのではないかと考えます。それが恋愛や友情の醍醐味のひとつではないでしょうか。自分は、その「発信」をしてこなかった。他の発信を受けることも極力行ってこなかった。相手に気持ちよく発信してもらい、それをただ受容する。そんな(勝手に)一方的なスタンスを取っているため、誰といても疲れますし、一人が一番ラクです。もちろん、動物のサガで人肌が恋しいこともありますが、ニンゲンといることの気疲れに比べたら、――相手の波動をただ受信に徹するしんどさを考えたら、どうということではありません。

相手「この前○○のラーメン食べたよ。おいしかった」

わたし「へーおいしかったんだ。一回食べたことあるよ。好きなの?」

相手「うん、あの濃厚な感じが好き。それでねー」

 本音を申し上げれば、「一回食べたこと」ということについて、わたしだって、思う存分語りたい。しかし、相手に気持ちよくしゃべってもらうことは、思いやりの一種だし処世術のひとつでもあります。波風立てる必要もないし。だけど、わたしの小さなフラストレーションはたまっていきます。「あなたの発言のその部分について、考察したい」とか。「そこであなたはそう考えるのですね。しかし一方わたしはこう考えます」とか。

 やだぁ、めんどくさい、と率直に思います。ええ、自分でも。だから、他人との雑談では礼儀として、お相手の言い分をフンフン聞いています。自分の意見や嗜好は極力言わないようにしてる。人って、大概話したいですものですものね。それにしても「聞く」って疲れます。カウンセリングがご職業の方、尊敬する。

 もしも相手と波動が響きあうやりとりをするのであれば、

相手「この前○○のラーメン食べたよ。おいしかった」

わたし「あそこのはちょっと味が濃かったな」

相手「えー、あの濃厚な感じがいいのにー」

わたし「でも麺の太さは好きだよ」

 みたいな。自分の意見も伝えながら、相手の意見も立てながら、自他という人間が別々の存在であることが、お互いに無理なく共存できたら理想的だなと思います。ラーメンを例にしましたが、人生観や宗教観、国家観などの思想についても、同じように理想と現実をお互いに許容できる関係性ができたらいいですよね。

 わたしは、母親と精神的に一体化しがちな幼少期に、ガツガツ過干渉とされ、「あなたがちゃんとしないと、おかあさんの育て方が悪いと言われる」と善意無自覚に脅され、自分の意見と母親の意見が違ってそれを言おうものなら「あなたは母親に逆らうのか。育ててもらっておきながら、お前は母親のいうことを聞けないのか」などと、よく言われました。さらに悪いことに、母の認知とわたしの認知では、大部分において、わたしの認知の方が視野が広かった。おかあさんは、思い込みが激しく動物的で、「自分の頭で考えたこと」がすべて、という人でした。わたしは、母親の未熟で狭い認知に一方的に迎合しなければならなかった。迎合はしんどい、かといってハイハイと流してスルーすることも、相手への思いやりに欠いているようで、できませんでした。ハイハイご勝手にどうぞ、とはもう相手に期待していない時のオトナの対応ですから。わたしは母と健全に分かり合いたかったし、母と健全に響き合いたかった。「今日のご飯、ちょっと味が薄かったよ」「お前はご飯を作っておいてもらって、そんなことをいうのか」ではなく、「あら、薄かった?塩かける?」といったやりとりがしたかった。しかし当時のわたしに許されたのは、「呑まれる」か「無になるか」でした。「おかあさん、今日もご飯おいしいよ。いつもありがとう」。……といっても、こんな言葉が返ってくることもザラでしたが。「フン!手伝いもせずに、上げ膳据え膳で。どうせおかあさんのことは、お手伝いさんか何かだと思ってるんでしょう」。……それは、「お手伝いさん」の職にある方に対しての暴言ですがな。などと言おうものなら(笑)。自尊感情の低い親は、本当に子供にとってよい影響を与えないと思います。

 今でも、自他の境界線がジャイアンのような方(存在感が大きく、舞台で他者相手に魅せているような感覚で、コミュニケーションをとるタイプの人)とはすこぶる相性が悪く、息をひそめてやり過ごすか、撤退するかの二択で悶々とします。相手に失礼のない表面上のやりとりをしながら、冷静に「ハイハイご勝手にどうぞ」ができるようになっていきたいな、と思います。

 で、ここからやっと本題なのですが。

 「無になる」ことは、当然相手の波動に呑まれやすいことであります。

 無になる、譲る、迎合する。それは、誰かの色に「染まりやすい」状態、「染まっていく」状態であり、主客を取り換えれば、「自分の色に染めたい」立場の人がいる、ということであります。

 社会主義国家の「総裁」と「国民」。機能不全家庭での「親」と「子」。社会的弱者の皮を被って、巧妙に相手を操作することもある。わたしは部下という立場の方にパワハラをうけたことがあります。「あなた、○○さんに渡した資料、間違いだらけで作業が進まなかったって聞いたわよ」と上司に注意されました。しかしその資料はわたしが渡したものではなく、先輩が用意し渡したものでした。しかし、わたしが部下にイヤガラセをしたことになっていました。おそらく「わたしにひどい仕打ちをうけた」ことを訴えたかったために、あることないことを言ったのでしょう。わたしは「ひどい仕打ち」はしておりません。仲もよくないですけどね、彼女の仕事上のミスを黙ってフォローはしていました。上司は「弱い立場の者が言ってきているのだから真実に違いない」とわたしの言い分を聞く耳をもってもらえませんでした。もう相手の方を同じヒトとも思えません。ご無体な話ですね。

 で、自分の色に「染めたい」人がいる、という話です。

 かつての母親は、「子供に親の言うことを聞かさなければならない」と思っていたように拝察します。上の立場にいるものが下の立場にいるものに、「言うことを聞かせなければならない」、それが上に立つ者の責任だと思っている。

 そのときにこちらが「無になって」いると、「言うことを聞かせやすい人間だ」と、「くみしやすい人間だ」と相手に認識されてしまう。そして、仮にわたしが上司や親の思った通りに「言うことを聞かない」と、「そんな人だと思わなかった」とか「期待外れだ、がっかりした」などと、詮無い言葉が悪意なくぶつけられるわけです。

 長い間、「わたしはおかあさんの言う通りにできない」とか「期待に応えられない人間なんだ」と、自尊感情を損なってきました。しかし、本当の問題は「言うことを聞かせなければならない」と思っているおかあさんの視野の狭さであり、相手と自分が「違う」人間だと認められないおかあさんの未熟さでありました。当時のわたしは、おかあさんと自分が「違う」人間だとなれば、おかあさんはわたしの育児を放り出されてしまうのではないか、という恐怖していました。そう、扶養されていた立場だったので母に面と向かって「あなたとわたしは違う人間です」とは言えなかった。母の未熟さを子供なりに慮っていたのです。また、母と自分が「違う」人間であることに罪悪感、負い目を感じていました。しかし、事実として、わたしと母は違う人間である、ただそれだけのことに過ぎませんでした。ただそれだけのことに気付くのに、たくさんの時間がかかってしまいました。当事者、というのは、もうそれだけで視野が狭くなってしまうものですね。

 「俺の言うことを聞かせたい」「俺色に染まれ」人間がいることは変わりません。自尊感情の低い人間にとっては、「相手に言うことを聞かせること」や「自分の考えやり方に染めること」(「わたしってこんなキャラなの。受け入れて💛」とかもそうでしょうか……)、それ自体がその人の自尊感情を満たす手段になってもいるのでしょう。であれば、なおさら「言うことを聞かせやすい」人間をかぎ分ける嗅覚には優れていると思われます。相手も必死で獲物を探しています。今のわたしにできるのは、「無になって相手の嗅覚から逃れる努力をする」ことではなく、自分の振動を感じて(世界に発信して)、「ハイハイソウデスネ」ができるように、やり方を変えていくことです。

 ここで思索してきたことのまとめになりますが、わたしが今まで行ってきた「無になり相手の波動に触れないようにやりすごす」こと、それ自体をすぐに変えることはできないと思います。だけど、苦手な方のそばでハミングして、自分の体の振動を感じた体験のように、そして今まさにNOTEに書いて投稿している行為のように、わたしが「隠してきた」「見せないようにしてきた」わたし自身の考え、立場を「公開する」こと。まだ他人に対してそれをぶつけるまではハードルが高いです。とりあえずいまは、頭の中にとどまっていた思考を、自分固有の「波動」として、世界に対して発信すること、自分の意見を言う練習の段階でございます。それはわたしにとって、当初思っていた以上に価値があることだし、発信した先から、新たな気づき、新たな気づきがある。本当はそれを他者とのコミュニケーションで自然に培っていけたら理想的なのでしょうが、わたしにとっては「書く」こと「思索する」こと、その行為によって、なされることのようでございます。

 とりあえず、相手の「言うこと聞かせる」に迎合しない、そして「あなたがそんなひとだと思わなかった、がっかりした」に母親との関係で昇華しきれなかったやり場のない思いを同化させない、切り離すことを、ひとまずの自分の課題としたいと存じます。本日の自分語り、ここまで。

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