「かまってちゃん」のラブコール

※こちらの記事は、職場の人間関係を通して気づいたことを、自分の過去と照らし合わせながら、あーだこーだ痛々しく自分語りしている自己満足感満載の記事でございます。どうぞご容赦願います。

 スポーツで、ひいきのチームとの一体感を感じること、ありますよね。
 読売ジャイアンツは関東、阪神タイガーズは関西、最近躍進が目覚ましいカープは広島にごひいきさんが多い。
 わたしはスポーツにまったく詳しくなく、野球もほとんど観ませんが、「万年Bクラス」と言われ歯がゆい時期を耐え忍んでいた広島東洋カープが、25年ぶりにリーグ優勝した試合、9回からテレビで見ました。試合は最終局面、あとはアウトを取るだけです。押さえの中崎投手の一投一投に目が離せなかった。最後のアウトを取った瞬間、「よしっ!」と拳を握りました。そして「ふーっ」と深呼吸しました。やっと息ができた。今でもよく覚えています。ずっとカープを追ってきたわけではない、試合も最終局面の切り取られた一部分しか見ていない。にもかかわらず、この記事を書いていても、思い出して目の奥が熱くなってくる。
 熱心なごひいきの方にとっては、念願の宿願がやっとかなった瞬間だったでしょう。

 とここまで書いてきましたが、今回の記事は「職場の人間関係から自分の家族との関係について思いいたることがあり、その気づきを書く」ことが目的でございます。
  以下、人間関係の愚痴だの、家族にイジメられた話だの延々とつづってまいりますので、どうぞご容赦ください。

 広島東洋カープのことを話題にしたのは、25年ぶり優勝のその瞬間に「一体感」を感じたことを述べたかったからです。
 当事者は中崎投手や、カープの選手の方々です。わたしのような者などは、最後のオイシイところだけちょっとかいつまんで感動した気になっている不届き者に過ぎません。
 だけど、感動した。「あと一球、あと一球」と手に汗握り、最後のアウトを取った瞬間、「ほーっ」とやっと息ができた。
 そんな、他者との「一体感」について、職場の人間関係の中で、気づいたことがあります。

 わたしは、「かまってほしい」オーラを出している人に対して、「相手しなければいけない」と強迫的に思っていること、またそうしなかった時に罪悪感を感じると、改めて気づきました。
 もともと、(ご本人は無意識であっても)「かまって」オーラを出している方には敏感で、「ハナにつく感じ」だと距離を取るようにしてきました。それが、現在「超オーバーリアクション」なハイパーわざとらしい「かまってちゃん」がわたしの周りをうろついており、いえいえすみません、同じ職場で近くにいらっしゃり、大変な精神的苦痛を覚えていたのでございます。
 それがふと今日、気づいたのです。
 ああ、わたしは「かまってちゃん」に一体化しようとしている。「かまってちゃん」に自分からかまおうとしている、と。野球の試合のクライマックスで手に汗握って、のめりこんでしまったように。

 NOTEでは今まで、さんざんわたしの母の悪口、もとい、機能不全家庭でねちねちイジメられた経緯を吐き出してまいりました。
 そう、自分の中でも母の存在が大きく、相対的にかすんでいたのですが、わたしには「かまってちゃん」な妹がいたのです。妹は何人かおりますが、すぐ下の、姉として一番最初に「めんどうをみなければならない」存在の妹です。
 妹、というと味気ないので、「プーちゃん」と呼びます。すぐにプーっとむくれるので、プーちゃん。そのまんま。
 プーちゃんは生来ガリガリで、ご飯もあまり食べませんでした。いまでも身長160㎝弱、体重は30㎏台です。拒食症とかではありません。ただ、幼少期からムツカシイ子で、わたしは幼稚園に入ったばかりのプーちゃんが、「幼稚園に行きたくない!」と泣きわめき、半狂乱の母に手を引かれていた記憶を鮮明に覚えています。
 プーちゃんが幼稚園に入りたて、わたしは年長さんの頃でした。プーちゃんを遊具に乗せて遊んでいたら、気分が悪くなってしまって、戻してしまったことがあります。わたしは、すごくワルイコトをしたと思いました。また、おねえちゃんだから、この子はわたしがめんどうを見てあげないと、とも思いました。
 母はプーちゃんのご機嫌を過剰に気にしていて、「プーちゃんを怒らせるな。頼むから仲良くしてくれ」と事あるごとに言っていました。つまり、プーちゃんとわたしがケンカになると、どちらに過失があっても、必ずプーちゃんが母によって勝っていました。

 ここ最近2年くらいの間にあった、プーちゃんとのエピソードを2つ述べます。過去の発散です。もうね、書きたいの、書かせてくださいお願いします。

 たまたまプーちゃんと同じタイミングで実家に帰省し、自宅に帰る日も同じでした。プーちゃんが「車で一緒に帰ろう」と言いました。当時、同じ市内に住んでおり、プーちゃんは実家の車を使わせてもらっていました。わたしはいつもは電車で帰るところを、その日は送ってもらうことにしました。実家を出る際、母から「お願いだからケンカしないでね」と釘を刺されました。
 プーちゃんはわたしの家のけっこう手前で突然、「わたしはいつも、次の交差点を北に曲がってる」と言い出しました。
 次の交差点を北に曲がって「いま走ってる道の一本北の道を10分直進」して、さらに北に曲がるとプーちゃんの家です。一方、わたしの自宅は、交差点を「そのまま10分直進し」、南に向かって徒歩10分ほどのところです。
 北に曲がって10分直進するのなら、10分直進してわたしを降ろしてから、北に曲がってくれればよいのではないでしょうか。どのみち同じ道に出ます。
 車には、プーちゃんのために、両親がわざわざ「カーナビ」を取り付けてやっていました。
 「いつもと違う道じゃ(帰り道が)分からない。ここで降りて」
 そのカーナビは何ぞやとかイロイロ思いましたが、母からの「ケンカするな」の言葉をたがえると、それはそれでメンドウクサイことになります。
 結局プーちゃんのいうその場で車を降り、真冬の12時、白い息を吐きながら、車で10分の距離――徒歩で1時間近くかかって帰りました。 
 さらにその上。
 母にその口で電話しました。母は、道中わたしとプーちゃんがケンカして、途中の山の中で車を降ろされでもしたのかと、ハラハラしたそうです。
「途中と言えば途中で降ろされて、いま歩いて帰ってる。一時間くらいかかる。ちょっとひどいよね」とわたしは言いました。
 母は「どうしてそんなヒドイこと言うの! プーちゃんはちゃんとそこまで送ってくれたんでしょ」とプーちゃんの肩を持ちました。
 これでも社会人になって、わたしの言い分はまだ聞いてもらえるようになった方です。というか、真夜中の道に若い女一人置き去りにするなんて、そのことの方を咎めるべきじゃないのか、と個人的には思います。
 わたしの感覚がおかしいのでしょうか。

 もうひとつ。
 プーちゃんと母とわたしと、ある日3人で車で出かけました。わたしが運転し、プーちゃんは後部座席に座っていました。
 わたしはそこに自分のカバンを置いていたのです。たまたまカバンのファスナーが開いていました。するとプーちゃんは、突然わたしになんの許可もなく、わたしのカバンをガサゴソと探り始めたのです。そして、「わあ、おねえちゃん、スマホ2台持ちなの」とか「スマホリング、かわいい~」とか言い出しました。
 わたしは「やめて」と言いました。少し強い言い方だったかもしれません。実際、頭に来ていました。プーちゃんはやがてしくしく泣きだしました。プーちゃんは、仕事で転勤になり、慣れない環境でストレスがたまっていたようでした。しかし、それにしても。
 後で母と二人になったとき、「プーちゃんのやりようはあんまりだ、常識がない」と言いました。しかし母は、プーちゃんが他人のカバンを勝手に物色したことを、まったく問題と思っていなかったようでした。
 「だって、ファスナーが開いていたんでしょ。だったら見られてもしょうがないじゃない」と。
 ファスナーを閉めていなかった方に落ち度がある、と言わんばかりの態度です。
「もし、他人のカバンのファスナーが開いていて、同じことをしたら泥棒してるのと同じことでしょう」と言いました。
 昔は、「妹を泥棒扱いするなんて! お前は人でなし、人でなしだ!」と、なぜか明後日の方向に母が切れて、わたしがこっぴどく怒られていたものでした。
 しかし母はうーん、と考えて、そうかもね、と言いました。
 ちなみにもし逆のことをわたしがプーちゃんにしたら(プーちゃんのカバンをわたしが勝手に探ったりしたら)、母は烈火のごとく怒り狂い、わたしをヒトデナシ呼ばわりしてこっぴどく痛めつけたと思います。

 と、ここまで書いて、思ったのですが。
 わたしは上のエピソードを書くまで、本当に、リアルタイムに書く前までは、プーちゃんのことを、まだどこか「かわいらしい」と思う気持ちが確かにありました。「守らなければ」「いとおしい存在だ」と。
 だけど、エピソードを書いてみて、なんておぞましい環境だったかと改めて胸糞が悪くなりました。
 本来は、「プーちゃん、いい加減にしなさい」と妹がしつけられるべきところを、「おねえちゃん、どうしてプーちゃんと仲良くできないのっっっ」とヒステリックに押さえつけられ、わたしはプーちゃんの「かまってちゃん」のいい餌食にされていたのだと、改めて分かりました。
 ああ、本当に気分が悪いです。なんてこと。実家を出たのは大英断、大正解でございました。

 で、そんな「かまってちゃん」に対し、ご機嫌を取れと強要される環境でして、わたしは他人のご機嫌と自分の境界線が、どうやら一緒くたになってしまっていたようです。
 職場にいるオーバーリアクションのサザエさんみたいな方が苦手と書きました。巻き込まれるような、ペースを乱されるような、イヤな感じだったのですが、どうやら自分の方が相手に「一体化」してしまっていたようです。
 そして今日、そのことに気付き、サザエさんの一挙一動を静かに観察してみました。すると、サザエさんの耳に障って障って仕方がなかった会話が、ふと「ごにょごにょ」と周囲の雑音と同じ感覚で聞くことができたのです。
 それは、一瞬の出来事だったけど、それまで無意識に「一体化」していた部分が「分化」した、決定的な瞬間でした。
 もうね、天に向かってガッツポーズしましたよ(心の中で)。
 そして思いいたったんです。自分の方が「かまってちゃん」のご機嫌を取らなければいけないと、気にしていたのだと。

 とても感覚的なことを書きます。
 「見えない部分」で一体化していた、という感じなんです。
 ふるまいや挙動は、「そっけない態度」を取っている。だけど、目には見えない五感や第六感?の部分で、相手を飲み込み、相手に呑みこまれ、まるごと一体化してしまっていた。
 それは、何度かNOTEで話題にしたおばちゃん係長に対してもそうでした。
 もちろん、そういう「一体化」を感じない人もいます。同じ「かまってちゃん」でも、男性に対しては「うっとーしぃな」と思うだけで、おばちゃんやサザエさんほどの一体化まではしていないと思います。
 また変なこと書きますけど、夢に家族が出てくるとき、だいたい母とプーちゃんがセットなんです。妹は他にもいるし、父もいる。だけど、夢に一緒に出てくるのは母とプーちゃん。
 夢は潜在意識の表面化とも言いますから、よほどわたしの無意識は彼女たちにとらわれているのでしょう。

 さて、それが明るみに出てしまいました。
 特に、今回の記事を書いて「プーちゃんをかまってあげなければ!」とまだどこか庇う対象として妹をとらえていたことが分かりました。
 他者の認識について「ごった煮状態」だという記事を書いたこともありますが、自分は他人の境界線について「ごった煮」の部分があるようです。
 なんとなく思うのは、いくら態度や言葉などの外面でそっけなくしていても、見えない部分の切り分けができていないと、「つながっている」ということなんだろうと思います。
 逆に、「見えない部分」が自他きちんと分化できたら、言葉や態度の表面上でいくら仲良くしていても、自分が「侵される」ような感覚はないのだと思います。
 自他の分化、というと今日ちょっと体感できただけで、まだまだ相手に呑まれてしまう部分は大きいですが、まったくの無自覚の無意識に呑まれていたときとは、雲泥の差があると確信しています。
 この気づきをもとに、現在のおばちゃんやサザエさんと適切な距離感で「分化」できるよう、気づきを深めて参ります。
 本日の自分語り、ここまで。いやー、にしてもプーちゃんえげつないわ。

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