「ごった煮」を咀嚼する

※こちらの記事は、人間関係の悩みを自分の過去の経験と照らし合わせてあーだこーだと好き勝手に分析し整理し語る、自己満足のイタイ自分語りを致しております。どうぞご容赦ください。

「なんで、この前言ったのに、またミスするの」
 先日職場で目撃した、おばちゃん係長と先輩職員の会話です。
 よくミスする先輩で、まー悪びれない。中身が生粋のクレヨンしんちゃんのような剛の者です。「ほっほーい、オラそんなこと聞いてないゾー」えーと、確かアラフィフだったかな。
 先輩ご自身が少々難アリの人で、さてどの係長がアレの世話をするか、で年度替わりの配置換えの時期は戦々恐々とする……らしい。この先輩のことは、また別の機会にゆっくりと述べたいと思います。
 今回話題に取り上げたいのは、おばちゃん係長の言動です。わたしが自分と母との関係性を重ね、それを整理したいという自己満足の目的のためにこちらの記事を書いています。

 さて以下、つらつらと過去の愚痴が始まります。いつもごめんなさい。石を投げないで。

 おばちゃん(もしくは母)がよく口にする「どうしてこの前言ったのにできないの」。
 子供の頃は、よく怒られていました。「ごめんなさいってこの間あやまったでしょ!どうして同じことするの!」
 子供なりに一生懸命に気をつけるのです。だけど「できない」こともあるし、意識を不意にしたときに「やっとしまう」こともある。ワザとかどうかなんて、向こうは斟酌してくれません。「ああやった、またやった、いい加減にしろ、煩わせるな」です。
 この母の指摘があまりにしんどくて、いつしか自分のなかに「自分を監視する目」を作り、徹底的に気を付ける、だけど気を付けてそれでも「こらっ!」と食らった時は、もうしょうがない、と必死に自分を守ろうともしました。徒労であった。精神的な地雷原で、「生きるため」「自分を守るため」に身に付けたことが、まー実社会で誤作動を起こすことこの上なし。いまは、ひとつひとつそれに気づいていくところから、取り組んでいるところでございます。

 で、ふと気づいたのですが、おばちゃん(または母)の言う「どうしてこの前言ったのに、またミスするの」。
 これは、相手の認識の中で、このような前提があると思われます。

 「自分が言う」→「相手ができる」

 これ、ちょっと暴論じゃね?と思うわけです。
 具体的に仕事でありがちなエピソードに当てはめてみますと、

 上司「うまくやっといて」
 部下「分かりました」
  →そして仕事が(おばちゃんの思う通りに)うまくいく。

 通常、意思伝達において、自分の伝えたいことが相手に伝わるのには、いくつかの変数が関与します。
 自分が言いたいことを明確にし伝える能力、相手がそれをくみ取る能力、くみ取ったことを実際の業務に生かす習熟度、すべて個人差がある。
 それを、おばちゃんは一緒くたにして、「上司が改善行動を促す→部下は改善行動をとる」と。「全部のことが一度には直らないと思うけど」などと枕詞を置きながら、10のミスが5に減ればオッケーなのか、2に減ればオッケーなのか、その基準もあいまいで提示しません。「言われたら、『ふつう』『このくらい』ミスが減るでしょ」という、ヨクワカラナイ世界でミスの増減を断罪されます。

 そもそも、こういうタイプの方は(と母との関係を思いながら書いています)、「自分が言いたいこと」というのもあやふやままな状態で、あやふやなままとりあえず「相手に言っている」ことが往々にしてあります。
 だから、伝達を受ける側も「?」状態です。実際に物事が走り出してきて、問題が起きる、またはうまく回らない。そうなってみて「だからこう言ったでしょ」と後付けでドヤ顔指導が入ります。

 以前に書いた記事で話題にしましたが、このおばちゃんは、ご自分のミスしたことを「部下の行動を改めさせることによって」、改善しようとしたこともありました。
 自分と他人との境界があいまい、自分が言ったことが相手もできるという前提、いくつかのエピソードから、どうやらこの人たち、「分化する」という行為がうまくできない人種なのではないかな、と思いいたったのです。

 分化とは、生物用語ですね。精子と卵子が結合してできた「受精卵」から、個々の細胞が「分化」して、人間ができるわけです。脳も尿管も足の皮膚も、もともとは一つの受精卵、その意味では「一緒くた」ですね。受精卵の成長が進むと、「この部分が頭」「この部分は足」と、どの細胞がどの器官になるか、決まってきます。生物の授業で予定運命図というのを習いました。当時はなんのこっちゃでしたね。イモリを弄ぶのはよくない(笑)。いや、偉大な研究です。どんな発想したらあんなん思いつくの。

 おばちゃんや母は、他者との「分化」という機能がどこか欠け落ちているように感じるのです。
 「おねえちゃんがちゃんとできないと、おかあさんが笑われるのよ」とか、「どうして前言ったことができないの!」とか。
 「おねえちゃんがちゃんとできる」ことと「母親の評価」がいっしょくたになっている。子供心に、非常にストレスでありました。自分のふるまいが、他者の有り様、評価に影響を与えてしまうものか、と。
 また「前言ったこと」と「(いま)できないこと」も混同されています。
 彼女たちの認識の中では、複数の独立した要素が、さも一連の、一心同体の出来事として「ごった煮」状態なのでしょう。
 認識のごった煮を、ごった煮のまま、平気で他者にぶつける。立場が上の者なら、立場が下の者に投げてゆだねてしまう。これが、わたしがおばちゃんや母に感じていたやりづらさの、一つの大きな要因だったのではないか、と思いいたったのです。

 ここに気付いてみると、わたしができることは、「相手に対して線を引く」ことです。だって、相手が線を引くまでの認識に至っていないのですから。
 しかしわたしは、母と子というゆがんだ愛着から自分自身が脱しきれず、おばちゃん係長のように自他や認識のごった煮状態の他人に対しても、線を引けずにいました。というか、線を引くことに罪悪感を感じてきました。
 おかあさんをわたしが分かってあげなきゃ、寄り添ってあげなきゃ。あとは、小学校で「お前は(勉強ができるから)みんなをバカにしているんだろ」と言われたことも大きかったのかも。
 違う、わたしはバカにしていない。できるだけ相手に寄り添って、できるだけ相手の話を聞いて、相手の立場に立ってくみ取ろう、と心掛けてきました。他人のごった煮状態を取きほぐし、整理するような会話を、心がけ行ってきたつもりです。
 それは、相手によっては「あなたと話していると考え事がすっきりする」と言われることでもありました。しかし、母のような人には「あなたが何を言っているのか、おかあさんには分からない」とごった煮はごった煮のまま、わたしに残ったのは無力感と徒労感、そして人間に対する恐怖心でした。
 たぶん相手にも分かるんですよね。ああ、この子はごった煮をぶつけてもちゃんと(?)受け取るタイプの子だって。相手からすると、やりやすいんだと思います。そういう嗅覚は持っている。
 そんな嗅覚の前にわたしは線を引けずに、「不快感を表情を表わしてみたり」「元気をなくしてみたり」……相手のごった煮を「引き受けた」上で、「ごった煮をぶつけないで」という不快感を態度で表していました。
 しかし、本来すべきは相手の「ごった煮」自体を、こちらが線を引いて、引き受けないことです。
 冒頭のクレヨンしんちゃん先輩が「ほっほーい、オラよく分かんないゾー」とやっていた、アレです。おばちゃんは、頭の中にある未分化のごった煮をそのまま相手に伝えてるわけですから、本来「オラよく分かんないゾー」が正当な反応であるわけです。
 分からないことを「分かる努力をする」のは、他者を理解する上で、必要なことでしょう。
 しかし残念ながら、わたしの母は、それを相手への「甘え」に転化する人だった。おかあさんはいつか分かってくれる、という希望は、ただの希望でしかなかった。
 わたしがこれから行っていくのは、相手はいつか分かってくれるかもしれない、という希望をもって「相手の言いたいこと」を察することではなく、「わたしはあなたの言うことが分からない」という線引きです。そもそも、相手の絡まった認識の糸を解きほぐそうという態度そのものが、わたしの傲慢だったのかもしれない、とも思います。新たな気づきの一歩として、取り組んでみようかな、と思っています。 

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