車輪を回すのは誰?

✳️こちらの記事は、職場の上司同僚とのあーだこーだを、自分と家族の関係性を重ね合わせてグチグチと述べているイタイ自分語りとなっております。どうぞご容赦ください。 

 仕事上の些細な行き違いです。「所用で、明日、朝少し遅れます」と伝えました。おばちゃん係長は片手間で忙しそうだったけれど「はい、分かりました」と確かに返事されました。

 翌日、就業時間すぎた頃に1本の電話が。
「休みの連絡をもらってないけど、体調でも悪いの?」と。
 昨日伝えましたよ、と言うと「え!?聞いてない」とビックリ。「ごめーん、(聞いたかも知れないけど)忘れてた」。
 こちらのおばちゃん係長、うちのモンスターヘリコプターペアレントと重なるところがあります。

 まあ正直、電話がかかってきてあまりよい気はしませんでした。
 電話を切ってから、(忙しそうだったしなー。タイミングが悪かったかな)とか(伝え方がいけなかったかな)とか、ぐるぐると考えました。だけど、出勤後に言われることはなんとなく予想できました。伊達にモンスターヘリコプターに十数年絡まれてきておりません。
「次から、『あなたが』気をつけて」
 何言ってるか、意図不明でしょうが、まあどうぞ続きをご覧ください。

 果たして出勤すると、おばちゃん係長から「ごめんね」と。「なんの連絡もないのに、朝出勤してこないから、心配して電話しちゃった」と。「なんの連絡もないのに」の部分から、香ばしいですが、ウチのモラハラヘリコプターは、「謝る=負け」という信念の元、自分が悪かろうと謝罪などなかったので、謝罪があるだけマシと言えましょう。
 「昨日、帰り際に伝えましたが」と言うと、「(自分が)メモもしてないし、忘れることもあるし、だから、今度からわたしだけじゃなくて、みんなに大きな声で言っておいて」
 はあ、と言いました。はあ?じゃなかっただけ、大人の対応をした、と思いたいところです。
 続けて「わたし、こういうミス結構するから。係内のみんなの予定を入れるところに、ちゃんと書いといてもらうとか。ホント、ごめんね。よろしく!」
 係員の「研修」「出張」「遅刻早退」の「予定」を記載管理するエクセルはあります。そちらに予定を書いていなかったことを、責められているわけでも、叱られているわけでもない。
 ただ、「上司である自分がミスしてしまう」から、どうにかして「部下であるわたしに」改善の行動をとらせようとしている、ように受け取られてしまいました。

 ここで、取り上げたいのはおばちゃんの行動の是非ではありません。「はあ? わたし聞いてないし!」と開き直ることもなく、「ごめんね」と謝意を見せていただきました。行き違いなんてよくある話。わたしが「もやっ」としたのは、「わたしはミスするから、あなたが気を付けて」とミスの改善行動をこちらにゆだねられるような言動をされたことです。

 さあここでうざい過去の自分語りが始まりますよー。

 わたしの母は、モラハラヘリコプターペアレントにて、過干渉の放任主義、おねえちゃんに「貧乏くじ」役を押し付け、犬猫のしつけをするように「叩いて分からせる」教育を「あなたのためよ」と大義名分を掲げ、「あなたがちゃんとしないと、おかあさんの育て方が悪いと言われるのよ」と精神的圧搾を行ってきて、さんざんヒトをいじめておきながら、現在それら「都合の悪い」過去をまるっと忘れ去っておられる、厚顔無恥な剛の者であります。
 えーと、毎日手作りの料理を作ってくれました。おいしかったです。一応、いいところも書いておかないと。
 そんな母とおばちゃん係長に共通するものを感じ、不意なことでやりづらさや感情の昂ぶりを感じることがあります。それを整理する目的でこの記事を書いています。

 話が変わりますが、仕事の回し方のモデルとして、「PDCAサイクル」がよく取り上げられますよね。
 P(Plan)計画し、D(Do)やってみて、C(Check)検討して、A(Action)改善行動を行う。
 小さくは個人、大きくは会社全体にも適応できる汎用性の高いモデルです。
 たとえば「健康的にダイエットしたい!」場合、
 P:毎日歩く。出勤前に、バス停を一駅分!
 D:一週間やってみた。
 C:朝歩くと気持ちいい!だけど、出勤時間がギリギリになってしまう。早起きはしんどい。
 A:歩くのを出勤前ではなく、退勤後にしよう。
 みたいな感じでしょうか。適切な例かは自信がありませんが。

 今回、おばちゃんとの一件ですが、立場を変えて仮に「わたし」が「言われたことを忘れた」ミスを犯したとしましょう。
 自分なりにこうします。
 P:メモを取るようにする。
   手が空いていないときは、「今は手が空いていない」という意思表
   示をして、きちんと相手の話が聞ける状況を作る。
 このPをもとに、DCAを行う。それでも、自分の力だけではミスが防げないときに、「すみません、協力を仰げませんか」とお願いしてみる。
 まずは自分のできるところの改善を行い、それでも至らない部分を相手に助けともらう、という段階を踏むように心掛けます。(理想論ではありますが)

 しかし、今回のおばちゃんは「P」の時点で「部下に、予定管理表に記入させる」とか「部下に、自分だけでなく複数の人間に予定を伝えるよう促す」とか。
 最初のPが、「部下に○○させる」ときた。
 「わたしという人間は、ミスをしてしまうものだから、そのミスすることを前提に、部下に立ち振る舞ってもらおう」みたいなスタンスでしょうか。

 この姿勢に母を重ね、強烈に「もやっ」とする次第でございます。
 まず、自分のミスを改善するのに、他人を使う。使う、というと言葉が悪いでしょうか。他人に頼る。他人にゆだねる。
  今回の件も、暗に「あなたが、予定表にちゃんと入れておいてくれれば、わたしが忘れても問題なかったのに」と相手を責めています。そして相手本位で、相手にゆだねた行動改善を、さも「業務上の命令」のように、部下にやらせる。ご本人は悪意ないのでしょうし、ご自分なりに真剣に取り組んでおられるのでしょうが、こちら側からすると、「勘弁してくれ……」と言いたい。
 母との記憶を振り返ると、「あなたがちゃんとしないと、おかあさんが悪く言われるのよ」という発言を強烈に思い起こさせます。「子供は親の背を見て育つ」という言葉がありますが、子供にとっていいお手本になろうとする「努力の姿勢」すら、彼女の背中からは感じられませんでした。ただ、彼女なりに必死にガンバッテいたことは、子供心に感じました。だから、わたしは「おかあさんのためにガンバロウ」と奮起した部分もあったのです。残ったのは、「自分を顧みない悪い男に情愛を捧げ続けた女って、こんな気持ちになるのだろうか」という徒労感です。母離れするのに、苦労しました。やっと少しずつ、精神的に自立の一歩を踏み出しかけたところです。

 自他の境界線を犯される感覚。生活のすべてに他者の介助が必要な乳幼児ならいざ知らず、自我の芽生えた人間同士のやりとりでは、失礼どころか暴力にあたることではないでしょうか。子離れ、親離れ、という言葉がありますが、自他の別なくジャイアンのように自分のミスの改善をこちらにゆだねられると、非常に不快感を覚えます。

 また、おばちゃん(に投影した母)は、「わたし→部下」にやってもらう、というベクトルで物事考えてますけど、その視点の中に「わたし←部下」というベクトルは存在しません。
 どういうことかというと、「わたしがミスしたときは、部下に改善行動をさせて、わたしがミスしても大丈夫なようにする」
 「部下がミスしたときは、部下にそのミスを犯させないように、部下の行動を改善させる」
 こんな傲慢さを感じるのです。
 上司と部下でも息苦しいのに、親子で堂々やられた日には……。もうこれ、暴力認定していいですよね。

 長くなるので別の機会に書きたいと思いますが、「ペップトーク」という言葉がけのメソッドがあると最近知りました。カンタンに述べると、相手にプラスのやる気を引き出させる言葉がけのことです。
 その逆で「プッペトーク」なるものもある。相手にマイナスの印象を与え、そのやる気を損なわせる言葉がけのことです。
 わたしは、「プッペトーク」をたくさん受けてきたんだな、と気づきました。そして、自分という「存在」について、強烈なマイナス意識が刷り込まれてしまっている。自分の自分に対する言葉がけについても考えることがあったので、また書いてみようと思います。

 最後になりますが、わたしがこの記事を書いた目的は、「わたしのミスを防ぐために、あなたの行動を変えて」と言われた(ように感じた)ことに対する、境界線を踏み越えられたような「もやっ」とが、自分の過去に重なって整理したかったためであり、「わたし(上司・親)→あなた(部下・子)」というベクトルはあれど、その逆の視点が欠けていることに対する「もやっ」を整理したかったためである、ということです。特定の個人の方との間の些細なトラブルを必要以上に大きく取り上げ、問題にしたかったわけではありません。
 筆が未熟にてお見苦しい点もあるかと思いますが、どうぞ重ねてご容赦いただきますよう、お願い申し上げる次第でございます。 
 

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