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シリア-15- シリアへ

レバノンの首都はベイルートです。経済は落ち込み、通貨は暴落、インフラを整備する人材を確保することすら困難で、一日の半分が停電し、信号機は消えたまま運転手は互いに譲り合いながら運転をしている状況でした。

ベイルートに到着したその日、シリアから連絡がありました。今回、僕のガイドをしてくれるアブドゥル(48、仮名)です。

現在、シリアは大雑把に分けると、支配地域は三つに色分けされます。アサド政権、反体制派、クルド人です。さらにアサド政権にはロシアとイラン、反体制派にはトルコ、クルド人にはアメリカが後ろ盾となって支援をしているという構図でした。

僕が今回訪れるのはアサド政権の支配地域でした。これまで僕は5度にわたり、シリアを取材してきました。一部を除けば、大半が反体制派の支配地域からです。ただ、2022年となると、反体制派はシリア北西部のイドリブ県に閉じ込められ、トルコから支援を受ける別の反体制派と小競り合いをしており、国境は閉鎖され、密入国のルートも壁やフェンスで覆われていました。

となると、最もシリアに入りやすい手段としては、観光客としてアサド政権の支配地域に入り込むことでした。アサド政権が徐々に勢力を盛り返してきた2017年頃から、観光によるシリア訪問が許されるようになりました。アサド政権としては外貨の獲得と、シリアで勝利したことを誇示するため、また反体制派がテロリストであることを広めるため、宣伝活動(プロパガンダ)の一環として、観光に訪れる外国人を誘致していました。

僕が利用したのは、観光客としてシリアを訪問するツアーでした。団体と個人があり、僕は個人を選択しました。7泊8日で、2400ドルほどでした。食事とお土産以外は、全てツアー代金に含まれています。安いとみるか、高いとみるかは、人それぞれですが、僕はジャーナリストを辞めるつもりでいたので、最後に「もう一度シリアに訪れたい」という願望から、5000ドルでも6000ドルでもいいから、平気で出すつもりでいました。

話は戻りまして、レバノンに到着して早々、今回のツアーガイドのアブドゥルから連絡を受けました。

「朝10時に迎えに行くから、ホテルのロビーで待っててくれ」

数日後、指定された日、アブドゥルが告げた時刻から少し遅れて一人の運転手がホテルに現れました。僕は乗用車に乗り込むと、40分ほどしてレバノンとシリアとの国境に到着、シリア側でアブドゥルと落ち合いました。入国の審査はアブドゥルの指示に従うだけで、あっさりとスタンプが押されました。これほどスムーズに行えたのもアブドゥルが抜かりなく手筈を整えてくれたからでした。

国境近くにある錆びついた立て看板

さて、重複になりますが、外国人のシリアへの旅行が許されたのは2017年ころからです。一時期は個人での旅行も許可されていましたが、2018年、ドイツ人のジャーナリストが旅行者と偽って入国したことが発覚し、シリア政府はガイドを必ず付けるという条件付きで旅行者を受け入れるようになりました。つまり、ガイドがいわば、監視役を担っているわけです。

今回、僕をガイドしてくれるアブドゥルは、27年間、観光業に携わっているベテランでした。2011年から2017年まではシリアは激しい戦争状態にあり、彼は旅行ガイドを中断して、海外メディアの通訳兼ドライバーとして戦場ガイド、いわゆるフィクサーをして生計を立てていました。そして、戦争が小康状態に入ると、訪れる観光客はまだまだ少ないですが、長年続けてきた観光ガイドに戻ることに決めたそうです。 

シリアの国境から、車で40分ほど走ると、首都ダマスカスが見えてきます。2012年3月、初めてシリアに訪れとき、僕は観光ビザを取得して、ダマスカスに降り立ちました。それ以降、シリアに何度も訪れましたが、ダマスカスは最初の訪問の一回きりでした。なので、10年ぶりになります。

ダマスカス到着!

僕は車窓から流れる景色を見ながら、一言、「ダマスカス」と呟くと、アブドゥルは、右手にぼんやりと見える町を指さしました。

「あの町は長い間、テロリストに占拠されてたんだ。でも、2016年に政府軍が取り返したんだ」

「ダーリーヤ?」

僕は咄嗟に町の名前を口にしました。シリアを長年取材してきた者であれば、ダマスカス郊外に位置するダーリーヤは反体制派が政府軍と死闘を繰り広げた町として有名でした。なので、アブドゥルが指さした町が、もしかしたら「ダーリーヤ」じゃないかと勝手に想像して、思わず口にしました。

僕の言葉を聞いたアブドゥルは怪訝な顔をしました。そして、彼が口にした次の言葉に僕は背筋が凍りました。

「タケシ、お前、本当に観光客だよな。まさか、ジャーナリストじゃないだろうな。なんでダーリーヤなんて町の名前を知ってるんだ?」

まさか町の名前を口にしただけで、疑われるとは思っていませんでした。僕は過去にシリアを訪れていたことを伏せていました。仮に反体制派の側から取材をしていたことがバレたら、国外退去、最悪、逮捕される恐れがあったからです。なので観光客らしく振る舞わなければいけないと肝に銘じていました。

「あっ、いや、実は10年前にダマスカスで二ヶ月ほどアラビア語の勉強をしていたことがあって、それでね、そのときに仲良くなったシリア人がダーリーヤ出身だったんだ」

「10年前なら、シリアが戦争になる直前だな。どうしてそんな時期にダマスカスでアラビア語を勉強しようと思ったんだ」

「たまたまダマスカスに初心者向けの語学学校があって。それで申し込んだんだ。そのときはまさか戦争になるなんて思わなかった」

僕は焦りながらも、適当な嘘でごまかそうとしました。ハンドルを握るアブドゥルの横顔をちらちらと覗き込みました。こんな嘘くさい説明で、彼は納得してくれるのだろうか。

「そうか。だったら、もっと早くに言ってくれよ。疑って悪かった。アラビア語が少し話せるのも、ダマスカスで勉強してたからだったんだな」

僕はホッと胸を撫で下ろしました。まだ、シリアに入国して1時間ほどです。下手なことは言えないなと肝を冷やしました。

ダマスカスに入ると、どこに視線を移してもシリアの大統領、バッシャール・アサドの写真が目につきました。独裁国家にはありがちな光景ですが、それを除けば市内は多くの人で賑わっていました。僕が10年前に見た景色とさほど変わりません。でも、自由は大きく制限されていました。かつては許されていた場所が現在は立ち入り禁止になっているのです。

遠くからしか眺められないカシオン山

例えばダマスカスが一望できるカシオン山は観光客にとっては欠かせない絶景スポットの一つですが、軍の施設があるため立ち入り禁止。ダマスカス市内も戦闘が激しく行われた地区も立ち入り禁止。さらにガイドを常に同伴しなければ、街中を歩くことすら許されませんでした。とはいえ、僕はダマスカスに再び訪れることができた。それだけでも感動でした。

旧市街の狭い路地を行き交う人々、両脇にひしめく箱形のこじんまりとした商店、気さくに声をかけてくる若者たち、ただ歩いているだけなのに懐かしさを覚えて、自然と笑顔になりました。でも、銃声はやみましたが、戦争の後遺症が市民の生活を圧迫していました。

暴落して新札を発行したシリアポンド

シリアの通貨はシリア・ポンド(SP)です。10年前、一ドルを80SPで両替していましたが、現在は一ドルが3,300SPまで暴落していました。戦争が国内産業を破壊したのもありますが、最も経済に大きな打撃を与えたのは国際社会からの厳しい制裁でした。大統領を含めた政府高官の資産凍結、アサド政権と関わりがあるビジネスの停止、特に苦しいのはガスやガソリンなどの燃料の輸入が止められていることでした。

ダマスカスには数件のガソリンスタンドしか残されておらず、常に長蛇の列です。ときには数キロにまで及ぶそうですが、全ての車にガソリンが行き渡ることはありません。ブラックマーケットもありますが、質が悪い上に、正規の価格より二倍近い値段を売られています。アサド政権を支えるロシアは資源大国ですが、一切の援助はありません。イランが僅かに燃料をシリアに送り届けていますが、制裁をくぐり抜けられず、シリアにたどり着く前に追い返されることも頻繁です。

燃料の不足、高騰は、農業にも悪影響を与え、野菜、果物、米、小麦、全ての農作物が戦争前と比較して、二倍から三倍まで値がつりあがっていました。燃料も農業もかつてはシリアの主力な産業でしたが、今ではみる影もありません。

「物価は上がる一方だが、給料は下がり続けてる」

ダマスカスのレストランで、マッシュルームスープとチキンカプセ(鶏肉とスパイスで味付けした炊き込みご飯)を食べながら、アブドゥルはシリアの経済状況について語りました。

チキンカプセ

戦争前の給与は公務員が月200ドルから250ドルほどでした。それが、通貨が暴落し続け、現地通貨で給与を受け取る国民は大損し、ドル換算で月に40ドルから60ドルほどしか受け取っていないそうです。例えば、僕が今、このレストランで頼んでいる食事は、33,000SP(10ドル)ほどですが、一般のシリア人にとってはなかなか手が出せる金額ではありません。

「それでも、アサド大統領をみんなが支持してるのがシリアなんだよね。こんな経済状況だったら、日本なら暴動が起きてるよ」

僕の皮肉に、アブドゥルは苦笑いを浮かべていました。このレストランも、民衆蜂起の前は、市民が気軽に入れる人気店でしたが、現在は、上流階級か、私服を肥やす政権幹部か、僕のような外国人しか訪れる客はいないそうです。

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