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僕が撃たれるまでの話

写真 : インド軍とイスラム武装勢力との戦闘に巻き込まれた村人(2005年11月)

僕が被弾した内容については、これまで何度もお話させていただいているので、今回は撃たれる直前までのお話をさせていただけたらと思います。詳しくは僕の本を読んでいただけたら幸いです。撃たれるまでの過程を順を追って説明していきます。

・パキスタン地震

3度目のカシミールの訪問でした。パキスタンで発生した地震がインド側カシミールでも大きな被害を及ぼし、僕は発生から12日後の2005年10月20日にインドに飛びました。地震は2005年10月8日に起きました。Ⅿ7.6を記録する大規模な地震です。死者は8万人に達し、300万人以上が住む家を失いました。震源地はパキスタン北東部のカシミール地方です。

崩れた我が家の前で途方に暮れる被災者

州都スリナガルに到着すると、真っ先に友人の安否を確認しました。事前に連絡を取って、無事であることは知っていましたが、実際に現地で顔を合わせるとホッとしました。それからは、被災地に向かい、取材活動を始めました。発生間もないことから、現場は混乱していました。そのため、普段は決して立ち入ることが許されない地域にも足を運ぶことができました。

支援物資を求めて政府に抗議をする民衆

その一つとして挙げられるのが、カシミールをインド側とパキスタン側とで分断する実効支配ライン(line of control)の訪問です。インド政府は被災者支援の一環として、救援物資をパキスタン側カシミールに運搬するため実効支配ラインの一部を58年ぶりに開放したのでした。地震という不幸な出来事ではありますが、これをきっかけとして両国(インド・パキスタン)の関係が改善されるのではと世界は注視していました。

インドとパキスタンとを結ぶカシミールの国境地帯、実効支配ライン
それを結ぶ橋、アマン・セツ(平和の橋)は一部が崩れ落ちていた

注目が集まれば、メディアの需要も高まります。またインド側もパキスタンへの支援物資を行うことで、インド政府として株が上がります。そのため、支援の様子をメディアに公開するため、実効支配ラインまでのプレスツアーが企画されました。僕のような外国人のフリージャーナリストでもプレスカードが一枚あれば、参加が認められました。

・地震が起きても続く戦闘

カシミールをインドとパキスタンに分断している境目が実効支配ラインです。よほどのことがなければ、立ち入りは許されません。今回の訪問で、まさかそれが実現するとは思ってもいませんでした。ドキドキします。でも、実際に訪れると、そこには10メートルほどの川が流れているだけです。ジュラムと呼ばれるこの川が実効支配ラインでした。

こんなものか。少しガッカリしましたが、この境界線をめぐって、半世紀以上もインドとパキスタンは争っているのです。今回の地震がきっかけとなり、カシミールの戦争にも何かしら前向きな進展があればと僕は期待しました。しかし、地震が起きてもカシミール各地では戦闘が続いていました。

11月13日です。この日、僕は友人の妹の結婚式に招待されていました。友人は僕が世話になっているカシミールの通信社KPS(Kashmir Press Service)で編集長をしています。早朝、僕はKPSの仲間と共に結婚式会場に向かう準備をしていました。さて、向かおうか、そう思った矢先、国道が通行止めだという情報が入ってきました。友人の家に向かう方角です。

何が起きたのか。事情を聞くと、インド軍とイスラム武装勢力との戦闘で、何人かの村人が犠牲になったらしいのです。その他にも指名手配されていたヒズブル・ムジャヒディーン(イスラム武装組織)の地区司令官が殺害され、その抗議のために村人が国道を封鎖しているとのことです。

「戦闘は終わったの?」僕は一緒に結婚式に向かう仲間に聞くと、「終わったみたいだ」と返答しました。「だったら、非常線も解かれてるし、行ってみようよ」と僕は身を乗り出しました。結婚式なんてほっぽり出して、取材に行きたいという思いが沸々と湧いてきます。でも、誰も行きたがりません。だったらと、僕は一人で車をチャーターして現場に向かいました。

場所はスリナガルから30キロほど離れたのパタン地区です。40分ほど車を走らせると、道路の真ん中にタイヤと置石がありました。200メートルほど先に群衆が見えます。さらに警察官が催涙弾を何発も撃ち込んでいます。煙が目に染みて、涙がこぼれます。僕は一人です。心細いですが、それでも、プレスカードを掲げながら、その中に入っていきました。

村人の怒りは戦闘で巻き込まれた二人の学生に対するものでした。突如、昨夜、インド軍が何の通達もなく攻撃を始めました。逃げ遅れた22歳と19歳の若者が犠牲になりました。道路には二人の遺体が寝かされています。住民が僕に怒りをぶつけます。

「なぜ彼らが殺される必要があったのか。いったいインド軍はどれだけ罪のない人たちを殺せば気が済むのか。この事件をより多くの人たちに訴えたいんだ」

国道を封鎖しているのはそのためのようです。その国道から少し離れた広場にも大勢の人々が集まっています。村人に案内された先には、別の遺体が横たわっていました。今回の事件の発端となった、イスラム武装勢力の地区司令官の一人、グラム・ハッサン・カーンです。彼はこの地区出身で、インド軍と果敢に戦った英雄だと村では称賛されていました。

殺害されたイスラム武装勢力、グラム・ハッサン・カーンと彼の母親

彼の遺体はインド軍に一時的に回収され、今朝、村に放置されているのを住民が発見しました。死んだ人間に拷問を加えてから、村に投げ捨てるのがインド軍の手法です。イスラム武装勢力に加担したらどうなるか。その見せしめと脅しです。僕は彼の顔をチラッと見ました。直視できません。唇だけがかろうじて残されていますが、鼻から上のパーツはそぎ落とされて、ぐちゃぐちゃにされていました。

取材は長引き、葬儀にも参列すると、時計の針は16時を回っています。日が暮れかけていました。国道は少し前に封鎖が解けました。友人の結婚式は無理だなあと諦めかけたとき、携帯に着信がありました。「今から迎えに行くから、そこで待ってろ」と仲間の一人から連絡がありました。正直、疲れていたので、行きたいという気持ちは薄れていました。道の隅っこに腰掛けました。野良犬が一匹横切りました。昼間の喧騒が嘘のように静まり返っています。そういえば、取材に夢中になって、昼ご飯を食べていませんでした。結婚式ではたくさんおいしいものが食べられそうだと少しうれしく思いました。

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