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シリア-11- アレッポ

アレッポに女性スナイパーがいる。その記事を見かけたのは2013年1月下旬のことでした。英紙デイリー・テレグラフで紹介されたその女性は最前線で銃を握り締めていました。そんな女性もいるのかあ。そのときは、軽く受け流していました。

・自由シリア軍を非難する人たち
 
僕は2013年2月、アレッポに向かいました。2012年11月に帰国したばかりでしたが、またいつシリアに入国できるか分かりません。国境の情勢は不安定でした。

アレッポに到着すると、3か月前と比べて、さらに町は荒廃していました。相変わらず空からはミサイルや爆弾が降り注いでいました。樽爆弾と呼ばれる簡易型の殺人兵器も徐々に投下されつつありました。その威力は5,6階建ての建物を倒壊するだけでなく、爆弾に仕込まれた金属片が周囲に飛び散り、何もかも八つ裂きする非人道兵器でした。

空爆で崩壊したダル・シファ総合病院

僕は前回訪れたアレッポの病院を訪れました。当時は多くの負傷者が搬送され、医師や看護師がせわしなく動いていましたが、今は誰もいません。2か月ほど前に空爆され、40人以上の死者を出し、病院は廃墟となって、医師や看護師は場所が特定されないような地下に潜っていました。ガイドは「報道すれば場所がアサドにばれる可能性があるから、今はメディアには一切、病院の場所を公開していない」と言われました。

崩れ落ちた病院をあとにした僕は、町をふらふらと徘徊しました。日が落ちてきました。電気はありません。自家発電を備えた僅かな家屋や商店だけに灯がともります。治安も悪くなり、海外メディアを狙った強盗も出没していました。僕は急いで宿泊施設であるメディアセンターに向かいました。その帰り道です。崩壊した建物で両手を広げて泣き叫ぶ女性を見ました。

「自由シリア軍なんて出ていけ!おまえらは役立たずだ。何もできやしない。おまえらが来たから、私は家も家族も失った」

近くの住民に通訳をお願いしました。僕は驚きました。影でこっそりと自由シリア軍を批判する声は耳にしましたが、これほどあからさまに罵倒する光景を見たのは初めてでした。理由を聞けば、この場所に数日前、ダマスカスから飛来したミサイルが直撃して、70人以上が亡くなりました。彼女はその遺族だそうです。


自由シリア軍の怒りを口にする女性

自由シリア軍は当初は住民に歓迎されました。でも、町が破壊され、市民が殺害され、さらに銃が氾濫しているため、治安も悪化しました。自由シリア軍とは名ばかりの盗人が、銃で市民を脅して金品を巻き上げる、避難して空になった家屋やマンションに忍び込んで、家具や電化製品を持ち出したり、勝手に住み込んで寝泊りする。

僕は彼女の姿を見て、思わず自由シリア軍の兵士に声をかけてみました。彼女があんたらの悪口を言っているみたいだけど、どうなの?と。自由シリア軍は笑って言いました。

「あいつはマジュヌーン(狂っている)だから気にするな」

自由シリア軍は命がけでアサド政権と戦っているのも事実ですが、対空兵器がないために、空からの攻撃には無力でした。アサド政権はそれをいいことに、空爆を連日のように繰り返していました。爆弾の標的は無差別です。戦闘とは関係のない住宅街、市場、学校、病院に落ちます。たくさんの市民が犠牲になる中で、自由シリア軍にそれを防ぐ手立てはありませんでした。何のために戦っているのか。そう思う人々が徐々にアレッポでは増え、希望を絶望に変えることで勝利をもくろむアサド政権の戦略が成功しつつありました。

・ゲバラと呼ばれる女性スナイパー

メディアセンターで何となく時間を持て余しているとき、「暇なら、タケシ、ちょっと俺に付き合わないか?」とイタリア人のライターから声を掛けられました。話を聞くと、女性スナイパーにインタビューするのだと言います。あれっ、それって、前にどっかの記事で見かけたなあ。

政府軍と反政府軍との戦闘が激しいサラハディーン地区の一角で彼女は私たちを出迎えました。この地区はマジでヤバくて、何がヤバいかと言えば、銃弾が飛び交うために、移動する際は壁にへばりつかないといけないのです。そんな中、案内されたのは地下室の薄暗い一室でした。ここが自由シリア軍の事務所になっていて、彼女は流暢な英語でインタビューに答え始めました。

女性スナイパーとして活動するゲバラ

「ゲバラは愛称よ。キューバ革命のリーダーをシリアの革命となぞらえて、私は自分のことをそう呼んでるの」

戦闘により全ての住民が退去したこの地区で彼女は30人の自由シリア軍と寝食を共にしていました。ゲバラ(36)は英語の教師でした。2011年3月に反政府デモが湧きあがると、彼女は教師の職を辞して、デモに加わりました。

「これまで秘密警察の影に怯えて暮らしていた人々が一斉に立ち上がったの。チュニジアやエジプトの映像を見て、刺激を受けたのは確かだわ。でも、私たちはアサド父子の独裁政権に不満を抱えていたの」

彼女が言う不満とは、言論の自由でした。今でこそ、誰もが政権についての批判を口にしていますが、シリアでは政治の話はタブーとされていました。友人同士はもちろん、家族でさえも口をつぐむほど言論統制は徹底されていたのです。秘密警察はあらゆる場所で目を光らせていました。彼女はデモに加わると同時にビデオで撮影を始めました。その映像はネットを通じて配信され多くの人々が視聴するようになります。でも、状況は悪化の一途をたどり、治安部隊の発砲により、死傷者の数は増え続け、デモに参加していた人たちは強制逮捕の上、拷問にかけられました。

「国際社会は関心を示すだけで、直接手を差し伸べてくれることはなかった。停戦監視団という名目でアラブ連盟や国連は仲裁に乗りだしけど、何の効果もなかった」

2012年7月に首都ダマスカスで、翌月にはアレッポで自由シリア軍が一斉に武器を持って立ち上がりました。

「私には幼い子供が二人いたわ。7歳の息子と10歳の娘。でも去年、空爆で命を落した。私は子供たちの仇を討つことを決意したの」

彼女は自由シリア軍を率いる部隊長である夫に話を持ちかけました。自由シリア軍として政府軍と戦いたいと。

「女性が武器を持つことを快く思わない男性はいるわ。女性は女性らしく男性を影で支えていろと。でも夫は私の申し出に賛同してくれた」

家事や育児、その他にも自由シリア軍として戦う男性の身の回りの世話、病院に担ぎ込まれる負傷者の手当てなど男性では手が回らない仕事をこなすのが女性の主な役割とされています。女性が武器を手にすることは、イスラム教徒の国では稀です。

最後に、彼女が所属する部隊の名前を聞くと、「アル・ワアド」と答えました。アラビア語で「約束」を意味します。彼女はその意味について力強く語りました。

「私たちは革命が終わるまで戦い続けることを約束する。殉教した人々を忘れないことを約束する。そしてシリアに再び平和が訪れることを約束する」

・家族と訣別した女性スナイパー

瞳が大きく、鼻筋の通った端整な顔立ちをした女性の手にはスナイパーライフルが握られていました。ヌール・アル・ハッサーリー(22)は愛おしそうにその銃身をさすっています。

「私の父親はアサド政権の諜報部門で働いていたの。でもシリアで反政府デモが活発化すると、私は反体制派側の人間を支援するようになった」

父親はそんな娘の姿を見て、激怒しました。手をあげたこともあったそうです。

「父は反体制派側の人間をテロリストだと言ったの。彼らは多くの一般市民を殺害しているって。でも私は『政府軍こそがテロリストよ』と父に怒鳴ったわ」

女性は警戒されにくいため政府側の支配地域でスパイ活動を行うことがあります。彼女は幾度か政府軍の目をかいくぐり、政府系の施設に潜り込み情報収集をしていました。でも、諜報部門で働いている父親はそんな娘の不審な行動にすぐさま気が付きました。

「父親は私に暴力を振るうようになった。反体制派を支援するような娘は俺の娘じゃないって。そして最後には殺すとまで言い出したわ」

家族でインタビューに応じるハッサーリー

彼女は身の危険を感じて、これまで支援をしてきた自由シリア軍の部隊に身を寄せました。部隊名は「サウト・アル・ハック(真実の声)」。この部隊で彼女は銃の扱い方を覚え、部隊長と知り合い結婚、娘に恵まれます。それでも、彼女は主婦としてではなく、銃を握ることを望みました。彼女は半年間の基礎訓練を終えて、2012年12月からスナイパーとして自由シリア軍の部隊に加わることになりました。今の私を父親が見たら、必ず私を見つけ出して、殺すはずだと彼女は感じていました。

シリアの戦争は家族の絆も断ち切ります。政治的な理由から父と娘が殺しあう世界、僕にはなかなか想像がつきませんでした。

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