戦争を望む過激な自己について
メディアはロシアがウクライナに侵攻したと報じた。
空挺軍が空港を制圧するなどの刺激的なツイート(真偽はわかりかねる)を追ううち、私はどうしようもない事実を認めるに至る。
「私は、戦争の拡大と激化を望んでいる」
さて、私は本当に幼子が死に、美人が苦しむ戦争を支持するのか。
いや、しない。(断固たる語気で)
私は幼子(なんならもっと明け透けに幼女という)と美人が好きなので、彼女らが苦しむことを絶対に望まない。
私は戦争を望みながら戦争を拒否する。
これは文として成立してない。つまり、何かがおかしい。
望んでいる戦争と、拒否する戦争は同一の単語ではないのだ。
過激な私が望んでいるのは、幼女と美女が死ぬ地獄ではなく、戦争がもつ特性、戦争という創造性の在り方なのではないだろうか。
戦争の魅力的な側面を考えると
1. 受動的(巻き込まれる)かつ刺激的(非日常的)
2. 急激な展開
3. 倫理通念からの逸脱
などが挙げられるのではないだろうか。
1と2に関しては、観念的に構築が可能といえる。
3は、社会構造に対する不満を意味し、必ずしも殺人の肯定と礼賛ではない。
大半の「戦争を期待する人々」は、魔術的なアプローチ(観念上の構築と具現化)によって、戦争を拒否しながら、求める「戦争の特性をもつ創造」を楽しむことができるだろう。
ところで、軍人に憧れるとか軍服が格好いいとかはまた別の話だ。
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