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自由と絶対先天的な法則(論理外の神)

「観念構築体としての物理的宇宙」はSethの術語だ。

 個人的経験はすべて「思考」「観念」によってかたちづくられ、「感情」が現実化のエネルギーとなる。感情の「短弱(不継続・非強力)」によって物理的に具現しないことはあっても、十分な観念さえあれば、その経験は「夢宇宙」=「確率的偶然性の世界」=「蓋然性の世界」のうちに確かにあらわれる。

 その意味において、私たちは観念と感情をコントロールすることによって、「想像し得る範囲の」あらゆることを個人的な経験のうちに表出させることが可能といえる。(とSethは云う)

 しかし、これはただちに私たちが完全な自由であることを意味しない。何故ならば、想像が不可能である事象を観念的に構築することは不可能だからだ。

 例えば、「歩く」という行為を、観念的に構築して、感情によって具現させることは可能だ。しかし「歩くを反転させた」行為を私たちは想像できない。

 歩くという行為は肉体に特有のものである。歩くことは、肉体があって発明された事象であり、肉体に由来するものであるが、肉体に由来しない「反転的歩行」は発明されていないもので、もしこれを可能にしたいのならば、肉体をもちいて発明せねばならない。しかし発明とは観念上の発見であるから、想像しなければならない。肉体的行為に「反転」の概念は存在しない。よって想像し得ない……。虚数の物理的物差しがないように、存在しない概念を肉体に強制させることは、できない。観念上、反転的歩行を成立させる肉体概念を生み出すことはできる可能性がある。しかし、そのような肉体はもはやはじめにいった「肉体」ではない……。

 このように、私たちには確実に(たとえ願望が全て叶うと認めても)不可能なものごとが存在する。

 論理的には、その通りと納得するだろう。

 だが、その論理とは、「論理的」を規定するものは、何か。

 私たちにはいくつか「絶対先天的」な特質が存在する。例えば、「存在すること」「思考すること」等。私たちは「反転的存在する」ものでも、「反転的思考をする」ものでもなかった。思考形態に関しては、それ以前の観念の結果といえないこともない。そうであっても、同じ問いを繰り返すだけだし、そもそも「存在すること」に関してはどうしようもないのだ。

 この「論理を規定するものでもある」絶対先天的な法則を神と名付けてみる。

 私たちは絶対先天的な法則を共有し、そこから逃れることはできない。つまり、この法則は私たちの内側にある。

 これが

「大霊はあなた方の内部に存在しています」

A・W・オースティン. 霊的叡智の宝庫 シルバーバーチの教え(新版・上) (Kindle の位置No.999). Missionary Circle for Spiritualism. Kindle 版.

の意味だろう。(大霊=神)

 私たちが絶対的な自由の獲得或いは「神=法則」を理解するためには、放棄できない絶対先天的特質を何らかの形で克服し、外部から神を眺めるしかない。


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 神とは何かということに、最近私は興味がある。

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