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遺される者の思い

 志村けんさんが、新型コロナで亡くなられた。自分は日常生活に追われ、新聞、テレビに触れる時間がほとんどない。だから、志村さんの訃報で初めて知ったことがある。

 ひとつは、入院中は親族でも面会できないこと。もうひとつは、遺体と対面できず遺骨となって帰ってくること。

 入院中に面会できないことは、本人、親族ともにもどかしさや辛さがあるだろう。

 特に深刻な状況となれば、親族はどこにいても気が気でないだろうし、できれば側にいてやりたい、と思う。

 無事に退院できればもしくは退院できることがわかっていれば、一時の我慢ですむ。しかし、必ずしもそうなるとは限らないとき、側にいることさえできないのは、表現できない心境だろう。

 また、最期に立ち会えないというのも、言葉ではみえないダメージが親族を襲う。

 感謝の気持ちや愛情や今まで伝えられなかった様々なものをかかえ、寂しくないように、頑張ったね本当に頑張ったよお疲れさま、自分たちは大丈夫だから安心して、と心の中で最後に伝えたい。安らかな顔をみて、色々あったけど最期は苦しまず後悔せずに逝ってくれたと思う。

 火葬されるまで遺された者で語り合い、骨を見、拾いながら改めて遺されたことを感じる。家に帰ってきたよ、と声を掛け、骨箱をみてまた実感し、終わったなぁ、明日からまた進んで行こうと思う。

 遺された者のエゴかもしれないが、しかし生き続けなければならない者には、これら一連の事柄は必要な儀式なのだと思う。

 しかし、新型コロナでは亡くなってもなお面会できないという。最後に顔を見ることもできず、骨に会うこともできず、遺族にとっては辛いの一言では済まない、ずっと心に残り続ける感情が残るだろう。

 自分は25歳になる前に父をガンで亡くした。連絡を受けて病院に着いたのは、息を引き取ったあとだった。まだ温かかったが、死に目に会えなかったことは今でも心の中で引きずっている。

 志村さんの訃報は、たくさん人が悲しんでいる。自分は大丈夫でも、症状がないだけで誰かにうつし、持ち帰った誰かの大事なおじいちゃん、おばあちゃんにうつしてしまうかもしれない。自分が誰かの大切なお別れの機会を奪ってしまうかもしれない。

 そういう事を想像した。

ありがとうございます^_^