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対話と名づけられたモノローグ

佐藤優香 Dialogue

あくまで私見だが、街に出ていわゆる「スナップ写真」を撮るということは、自分が見たもの、感じ取ったものに対して、「カメラを操作してシャッターボタンを押す」という身体的動作に直結させることだ。
見たものに対して何かを思い出すとか、ある感情になるということを切り捨てなければ反応できない。視界の中、または視界の外の音や匂い、肌感覚から、なにか「引っ掛かるもの」に対して、機械に触れる人差し指で反応する。
いつもそうできるとは限らないし、できたからといってその写真が必ずしも良いとは限らないけれど。
そういうわけで、撮影に出た時は迷うことが多い。ここを曲がればどこへ行くとか、あそこへ行くにはこの駅で降りるといったことを考えていなくて、目の前の「引っ掛かり」のためだけにこっちへ行き、ここを曲がりして、知らない駅で降りたり、乗る予定のない電車に乗ってしまうこともよくある事だ。
暫くして気がつく。「ここはどこだ?」「どこへ行くつもりだったか?」
そうしているうちに、自分がどこからも切り離された、浮遊した存在のように感じるようになる。ただ、そんな状態をそのまま眺めていると、否定でも肯定でもない、ただ目の前の物事を受け入れ通り過ぎていくような瞑想的な状態になる。

Dialogueで語られるモノローグは、彼女の過去、現在、未来のいずれにも隔たりがあり、属していない。過去の苦しみが語られてはいても、底から抜け出ている現在がある。外の風に吹かれる今に親しみを感じるものはないが、かと言って忌避するものでもなく、むしろ輝いて見える。その煌めきの中に身を置いて彷徨っているうちに、自分もその光の一部になれたと感じる。
光の中では茫洋とした疑問が立ち上がる。みんなここからどこへ向かっていて、どこへ行くのか?

彼女のモノローグがどの時間にも属さないように、彼女は彼女自身からも距離を置こうとしている。語る言葉は口から出た途端に失速し、消えていく。もう一人の自分の視線と共に、他者に向けた笑みが切り裂かれる。

冒頭に私の個人的な体験を書いたのは、この作品を覆う心理的なトーン、「どこにも属せないアウトサイダー感」が、私がスナップを撮ろうとしている時に感じる、「どこからも切り離された感覚」に似ていると思ったからだ。
作品のトーンは暗さを感じさせない。鎮静的で、違和感や疑問が生じつつも、あるがままを受け入れようとする穏やかさに包まれている。
最後のカットは彼女の幼い頃だろうか。撮影しているのは父親なのだろう。カメラは彼女をぴったりと追って、離さない。ここには絶対的な愛と受容があるように思う。
飛躍しているかもしれないが、この作品が語る寄る辺なさを穏やかに包んでいるのは、この視線があるからではないかと思う。


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