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「終わり」と見えざる手について

有川滋男
"It has already been ended before you can see the end"
を観て、宙に浮いたままどこにも着地出来ないような不思議な違和感を感じ、これはなんだろうかと思い考えてみた。

シーンの構成要素を挙げてみる。
①民家の窓 蜂の巣が出来始めている
②トンネルのような穴から外を眺めている 水面・鳥・クラゲ・海・樹木・亀・散った桜の花びらが重ね合って景色を作る
③階段に置かれたサボテン
④加速する月、太陽と雲、火の粉、水面
⑤壁にかかった写真フレーム

①を原点とし、ここから始まりここに帰結する。
この窓は逆さまである。そして手が窓を開け閉めするが、この手には実体がない。それについては後述する。
窓を開けると蜂の巣がある。まさに今大きくなろうとする巣に、見る側としては物語を期待するが、後ほどあっさりと持ち去られる。
この窓枠はフレームに見立てることが出来る。開ければ外の世界を切り取り、蜂の巣が持ち去られた後では閉じてスクリーンとして機能する。

②トンネルのような、開いた先に外の景色が見えるが、上述したような自然界のイメージが重ね合わされ、補完し合って視覚的な予定調和を撹拌する。このトンネルが作る窓がフレームとなってフレームの中のフレームに現れるイメージが不思議な距離感を与える。この①②のフレームは⑤との繋がりを連想させる。

③でサボテンに当たる光は、スキャン走査線である。固定されたイメージとしてキャプチャされ、⑤の壁に掛けられる。

④で時間は加速し、進められる。①の蜂の巣から蜂が消え、手が蜂の巣を持ち去る。⑤の壁にサボテンと共に掛けられることから、この手による操作も実体からイメージへの変換=キャプチャと見ていいのではないか。
⑤壁に掛けられた2枚のスチルのフレームは黒い。死を連想する。実際にサボテンと蜂の巣はこの黒いフレームの中で消滅する。

①、②におけるフレーム(窓枠、トンネル開口部)の中で展開されるイメージは自然の中の有機的なイメージである。動き、重ねられ、光に充ちている、生のイメージである。対してキャプチャされ、⑤で壁に掛けられたサボテンと蜂の巣は、停止し、少ない光で照らされた終わりのイメージである。
この生→死への変換は手を介して行われるが、この手には色がない。①でも胴体を意識させないような浮遊した存在である。この手を、「フレームを介して行われる変換」という機能そのものを具現化したものと考えてみる。変換は窓を開けることから始まり、写真を壁に掛けることで終了する。この操作自体が「終わり」を意味するのではないか。
この「手」はただの機能なので、本当は見ることは出来ない。ラストシーンで窓が閉まる時、手は見えない。

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