02 老眼のこと #コラム

 私はそろそろ32歳になろうとしている。今はもうあまり流行っていない、目の手術を2008年に受けている。手術自体は成功していて、現在は裸眼でも両目は視力1.2ある。ビル看板の小さい文字が読めたり、遠くを歩く友人に気づくことができる。朝、目が覚めた時に部屋の隅々までにピントが合うし、お風呂に入る時に眼鏡をどこに置こうと悩むことはない。視力0.01以下の世界に生きていた私にとっては、その手術で世界が変わった。

 しかしどんなことにも、作用・副作用、メリット・デメリットがある。私は徹底的に調べてからことにあたる性分である。この手術を受けるにあたって、デメリットを徹底的に調べ上げ、理解しそれを受け入れていて今に至る。この手術は若くして老眼になることが決まっている。

 老眼というのは、主に45歳以上の人間に現る眼球の老化現象である。一般的に老眼は恥ずかしいとされているが、近くにピントが合わなくなるというだけで、何ら生活には支障がない。極端に目が悪く手元の文字さえもろくに読めない視力の人間からすれば、生活に支障を来たす状態を改善できるのならばデメリットがある手術だと聞かされていてもやってみたかった。仕事で長時間眼鏡をかけるのが辛いという事情もあった。小さい頃から目が悪かった私からすると老眼になることはほんの些細なことだが、ずっと目が良かった人からするとショッキングな出来事なのかもしれない。

 個人的な性嗜好が含まれる話題で大変恐縮なのだが、私は身体を矯正し、補助する器具全般を愛している。眼鏡、歯列矯正、杖、義手義足…。(余談だが職業訓練学校に通おうと思っていた時は義足装具士の面接を受けたのだが落選してしまった。)審美の点においては、下着、コルセット、ヒールが高い靴などコンプレックスを補い、個性を強調するアイテムが多々存在し、それらを身につけた身体は本当に美しいと感じる。

 矯正されなければならない身体というのは乱暴な言い方をすると好き嫌いが存在する。矯正不要な人々から見ればそれらは不自然ではあり、理解され辛いものである。矯正が必要な人々にとって、なくてはならない矯正器具というのは、自身の身体の一部である。言い回しとして「眼鏡は顔の一部」などと言うが実際その通りで、それ単体では単なる物体に過ぎないが、その人の身体にピタリと収まった時、それは初めて矯正器具として機能する。矯正が必要な人々にとって、矯正器具とはその先の人生から簡単には切り離しようもない存在であり、それは長い時間をかけてやがて個性として受け入れられる。街中や身近な人が必要に応じて眼鏡をかけたり外したりする一連の仕草を見ると収まるべきものに収まったような、言いようもない気持ちの良さを感じるのである。

 話が逸れてしまったが、私はすでに老眼が始まっている。手元が見えづらく、遠くはどこまでも見える。家の窓から、夕暮れの空を眺めていると青色がピンク色やオレンジ色にグラデーションしている様子を仔細に見ることができる。けれど、こうやって今文章を書いている時や、レストランでメニューを眺めている時には少しだけ、ほんの少しだけ困ってしまう。老眼鏡がなければ、手に持っているものがよく見えない。遠くの、手に届かないものは見えるのに、こんなに近くにあるものが私にとってはふわりと、空気に溶け込むように曖昧に見える。そんな時は鞄を手繰り寄せると、眼鏡ケースを取り出し、老眼鏡をピタリとかけるのであった。

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