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映画の中の「多様性」をどう評価するか

最近は欧米の新しい映画を見たときに「あ、多様性に配慮してこういう描写になってるのか」と感じることが増えてきた。

俳優やスタッフの人種や性別をこれまでより多様に、テーマも「多様性」、という構えで映画が作られる新しい流れは、それ自体はいい。んだけど、それがなんというか「型だけ」になってしまい、中身がまるで薄い映画・ドラマが出てきている。

そうした映画を見ると、逆に作品の「多様性」を支える柱が崩れてしまっている感じを受けることがある。

なぜ「多様性」を描く映画の一部に、「多様性」を支えるものの崩れ、を感じることがあるのか。

1 「多様性」を扱う映画にも色々あること

ぼくは例えば、エマ・ワトソンが主演したディズニーの『美女と野獣』や、X-MENシリーズの『ローガン』、Netflixのフランス映画『軽い男じゃないのよ』等、新しい流れに乗りつつ、内容的にも「多様性」をうまく描く映画が出てきていることは、率直によいことだと思う。

けれどもその一方で、「型」だけが「多様な」、会社や周囲に言われて作りました、みたいな映画が出てきて、両者がいっしょくたになって持ち上げられたりすることに何か危うさを感じている。

また、そういう新たなタイプの映画・ドラマの出現に伴い、これまでぼくから見れば「多様性」を描いてきた映画の作り手や作品がバッサリ切り捨てられる光景を見かけることが増えた。イーストウッド、アルモドバル、ジョージ・ミラー等。

映画に限らず、表現は、自分の中の「少数派 」(問題意識)の主張に耳を傾け、そこを出発点にして取り組むものだと思う。だから、ある映画が扱う「多様性」が、どこかしら作り手の内部の要素から出発していないと、何か本末転倒の印象を受けるのだと思う。

「型」だけの映画の危うさは、そういう作り手の内部の要素がないがしろにされている点、一種の別の「外部のもの」に支えられていることからやってくる感覚だと思う。

2 出発点の重要性

まあ、それとは別次元の話として、これまで映画界は色々不平等な状況だったのだから、男女の給与を平等にしたり、俳優の人種・性別の割合を揃える、といった基礎部分のスタンダードを更新する必要性があるのはフツーに分かる。

とはいえ、その新たなスタンダードに乗っ取った映画ならそれだけで「多様な」すぐれた映画になるわけではもちろんなく、現在からすれば「型」は「多様」ではない過去の映画たちが、作り手の内部の要素から出発して、「多様性」のテーマをより深い形で掘り下げてきた歴史があることを軽視してはいけないと思う。

例えば、アルモドバルが、カーチェイスしながら車窓から乗り出して銃をぶっ放す中年女性(『神経衰弱ぎりぎりの女たち』)といった登場人物をスペインで描いてきたことは、今ならばなんともない描写だけど、スペインのそれ以前の女性差別の凄まじさを思えば、色々困難があっただろう、と思える。

以前は、「多様性」のテーマを描く監督といえば、ガス・ヴァン・サントやアルモドバルのようなゲイであるとか、ジョージ・ミラーみたいな変わり者とか、それなりに問題意識を持つ個人が作っていたのに対して、最近はそれほど問題意識がないのに「多様性」流行ってるから会社に言われて作りました、みたいな受け身の人が増えている感じがして、かなり違和感を覚える。

あと観客の側も、例えばケン・ローチやグザヴィエ・ドランについて、「貧困」や「多様性」を描くからいい人だ、みたいな評価をすることがあり、ズレを感じる。彼らはただの「いい人」ではなく、自分の中の「少数派」、自分の内部の問題意識としっかり顔をつき合わせたからこそ、そうした社会派的なテーマを掘り下げることができるんだよ、と言いたい。

そうやって過去の様々な作り手たちが個人の内部を出発点にし、少しずつ、映画という表現の枠を広げてきたんだ、という視点を持つこと。

新たなスタンダードに乗っ取りながら、これまでのすぐれた作品から謙虚に学ぶとこは学んで、ちゃんと自分の中から出発して掘り下げたものを作る、というのが、とりあえずベストだと思う。


おわりに「多様性の種」を持っておくこと


整理すると、
・映画製作の中にある不平等を是正することは賛成。
・「多様性」をテーマにした映画が作られるのも賛成。
・「型」だけが「多様」な映画が評価されるのは反対。
・作り手の描く「多様性」を「型」だけで批評(評価にせよ批判にせよ)するのは反対。
・新しい流れに乗りつつすぐれた映画が出てくることは大賛成。

もっとマトモな映画批評がないといけない、とひしひしと感じる。

自分の内部にある「多様性の種」を、外部からやってくる「でき上がりの多様性」と簡単に取り替えないことが大事、なのかな。

おわり。

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