笙野頼子「返信を、待っていた」の問題点

今さらながらようやく笙野頼子「返信を、待っていた」を読んだ。

以前スペインにいるとき、ツイッターで、群像に掲載されたこの作品の抜粋を目にし、そこに新宿の飲食店ベルクについて中傷、デマが書かれているらしいことを知り、ぼく自身それに関してツイートしたことがあった。だから、帰国したら自分の目で確かめなければ、と思っていた。

1 作品にふれる前に

新宿ベルクは、ホットドッグなどが美味しく、何度も通ってきた店だ。昨年の秋ごろ、店長がある客とツイッター上で言い争いになったのを見かけた。

匿名のアカウントを使っていたその客が女性であることが後から分かったが、どういうわけか、彼女は店長が女性ばかり狙って返信している、という女性差別デマを作り出し、ネット上の多くのフェミニズム系の人たちがそのデマの拡散に乗ってしまった。

言うまでもなく、これは根拠のない言いがかりで、ベルクは、店長や店員たちがこれまでも女性や他のマイノリティの客に特に配慮してきた店である。また、店長がツイートで、よく東浩紀など有名な男性の物書きに「絡み」にいくのなどは、以前から見慣れた光景だ。というか、東浩紀にあんな絡み方をする「図太い」人は、なかなかいないよな、とぼくなどは感心してしまう部分すらあった。

さて、その後、こうした店へのデマを拡散する人たちを批判する意図で、ベルクを擁護する側から「アホフェミ」という言葉が出てきた。これが批判側からは、女性差別をするのか、と猛反発を招いたのである。

しかしこの言葉は、フェミニズムを名乗りながら、デマを拡散した、彼ら彼女らの矛盾した姿勢を批判する言葉であり、決して女性一般やフェミニストそのものを排除する意味のものではなかった。

笙野頼子「返信を、待っていた」は、こうしたネット上の不毛な一騒動を背景に書かれ、群像(2019年第一号)に掲載されると、作中にベルクに関してこうしたデマに乗っかる形で中傷が書かれた箇所があると批判を受けた。

2 「返信を、待っていた」を読むと

さて、実際に読んでみてどうだったか。
まず断っておくが、ぼくは、この作家の他の作品を読んだことがないし、文芸に詳しいわけでもないので、文学としてどうなのか、といったことはほぼ何も言えない。今回焦点を当てたいのは、本当にベルクに関して中傷などが書かれていたのかどうか、その一点のみだ。

そのため、笙野頼子のこれまでの仕事をけなしたり、彼女の作品を好きで読んでいる人たちに口論をしかける意図はない。その上で以下‥。

この作品は、笙野頼子が交流を持っていたらしい、ある亡くなった詩人とのやり取りなどが書かれ、小説ともエッセイともつかない、独特なスタイルの文章だ。

途中そうした本筋とは別に、ある飲食店が女性差別と絡めて批判されている。とりあえずその箇所を読むと、なるほど、それだけ読んでベルクという店を特定できる書き方にはなっていない(作中で批判される店は、店名も住所も個人名も書かれていないため)。

しかし、笙野が別の場所で発表した文章と読み合わせると、やはりベルクについて書かれていることが容易に分かってしまう。

その別の文章とは、笙野が評論家の岡和田晃のブログを介し発表した、ベルク騒動に関連した文章だ。岡和田は、「アホフェミ」という言葉をめぐり、ベルクを批判した人たちのひとりだった。ぼくは、この文章の存在を笙野へ反論を書いた井上不二子という人のnoteの記事で知った。以下に二つの文のリンクを貼ろう。

・「アホフェミ」について(笙野頼子さんの見解)/Flying to Wake Island 岡和田晃公式サイト(新)

https://akiraokawada.hatenablog.com/entry/2018/10/20/204828


・返信は、いりません/note 井上不二子

作品の中で笙野は、店長を「安倍麻生」に、ベルクを「政治料亭」に例えたり、はたまた会社員の人や新宿駅を行き交う人たちがくる雑多な客層の店なのに、女性差別主義者たちが集まるだとか、「閉鎖的で意地の悪い、文壇バー」など、言いたい放題だ。笙野は、ツイッターをやってないらしく検索に慣れてないのか知らないが、度を越えている。

3 この作品の問題いろいろ


とにもかくにも、笙野の今回の作品は、飲食店について、こうした言いがかりに基づいた中傷の記述があったわけで、問題がないはずがない。フェミニズムは、重要な思想だが、差別をしていない人を勝手に「差別をした」とでっち上げ、攻撃に利用することは許されない。

以下はざっくりだが、この作品の問題点を二つ挙げる。
ひとつ目。先に「返信を、待っていた」は、笙野が交流を持っていたらしい、ある亡くなった詩人とのやり取りが書かれていることについてふれたが、そうしたある種の切実な部分をも含む文章の中に、本筋と関連しないベルクに関するデマを織り混ぜてしまったことには、そこから別の問題も出てきてしまうんじゃないか。そういった中傷を入れなくても「文学」は成り立つだろうに、という違和感が残る。

二点目。笙野は、作中でベルクを擁護した女性たちについて書いたと思われる箇所で、「逆らう女性殺しの女兵」などと書き、彼女らの主体性を全否定している。これはひどすぎて言葉が出ない‥。「アホフェミ」とは比べものにならない、差別的な発想の言葉だと思う。

最後に余談だが、岡和田晃をはじめ、ベルクを批判する人たちは、「アホフェミ論争」云々の前に起きた、そもそものベルクに関する差別デマの拡散をどう捉えるのか? そろそろ、物書きとして、強い批判口調の言葉と、差別の言葉とを区別する「良識」をつけてほしい。

以上、全然楽しくも面白くもない話題だったが、以前読まないままにこの作品にふれツイートを書いていたので、今回目を通した上で感じた作品の問題点について書いてみた。

フェミニズムは、これまでもこれからも、男にも女にも、その他の性の人たちにとっても重要な思想だと思うので、今後はぼくも自分で関連書を手に取り、アホにならないフェミニズムを、コツコツ探究していきたいと思う。終わり。

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