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翠町と人の暮らし(集落の話の聴き手だより8月号)

 翠町は、旧佐久甲州街道にあり、柳町の隣にある集落である。信号を通り過ぎると、右側に不思議なものが目に入る。鉄柱の上に、小さな屋根を形作った置物がある。昔、旅籠はたごだったので、その目印かもしれない。

旅籠を示す置物

 倉沢治貴はるたかさんが子どもの頃、旧佐久町公民館(現在の区民センター、さらに歴史をさかのぼれば、旧栄村役場があったところ)を中心に高野町旧道(旧佐久甲州街道、この辺りの人は旧佐久甲州街道は旧道と呼び、羽黒下駅前、東町商店街の道を新道と呼んでいる)沿いにはいろいろなお店が軒を並べていたという。文房具屋、駄菓子屋、下駄屋、酒屋、豆腐屋、米屋、雑貨屋、魚屋、金物屋、床屋、等々。

 「子どもがすげー(すごく)いた。毎日30人くらいの子どもたちが、今の区民センターの広場に集まってきて、鬼ごっこ、かくれんぼ、缶けり、三角ベース野球で遊んでた。まだ、テレビのある家が4軒しかなくて、夕方、『月光仮面』が始まる時間になると、テレビを見せてくれる家に40人くらいの子どもたちが上がりこんで、ぎゅうぎゅう詰めになって見てました。」

 昭和30年頃だという。治貴さんはテレビのある家の子と仲良くなり、一緒に遊んであげてから、『名犬ラッシー』、『七色仮面』、『少年ジェット』など、週末になると見せてもらってたという。

 「その頃、※パッチンが流行ってた。パッチンには3つ遊び方があった。四角の枠を地面に描いて、相手のパッチンを枠外にはじき出す。相手のパッチンを裏返しにする。相手のパッチンの下に自分のパッチンを潜り込ませる。勝つと相手のパッチンを取れるので、真剣勝負。周りの地区からも来て、パッチンの取り合いをした。」
※パッチン…メンコのこと

 子どもの頃の食事について尋ねると、
 「食事は、ひとりずつお膳があって、囲炉裏を囲むように行儀よく座って食べたもんです。座る場所は決まってて、俺はいつも親父の傍で箸の持ち方で小言をよく言われた。食べ終わると、白湯とタクワンで茶碗とお椀をきれいに洗ったもんです。それからお膳をかたづけた。」

治貴さんの祖父母(茂七・ちか夫妻)

 最後に、おじいさんとおばあさんの写真を見せてくれた。二人とも和服を着て、キチンと正座をしている。おじいさんは立派な山羊ひげを生やしていた。簡素な中に、凛とした雰囲気を漂わせていた。

 「痩せてるでしょう。親父も痩せてました。食事が違うんでしょうな。質素な食生活だったと思います。でも長生きでした。じいさんは96歳、ばあさんは94歳、親父は98歳、母親は105歳まで生きてました。」おじいさんの名前は、茂七さんといい、北沢の大石棒を見つけた人である。

茂七さんが見つけた大石棒

 これからやってみたいことは何ですかと聞くと、
 「栄保育園の年長さんたちの米作りを手伝ってます。お田植え、稲刈り、脱穀まで、一緒にやり元気をもらってます。それと、昔の集落の生活など、方言を使って紙芝居にしたいと思ってます。あまりおじゅうく(生意気)なことは言えませんがね。」

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 高見澤泰夫やすおさんは、生まれてからずっとこの翠町で暮らしてきた。一度も町外に出たことがないという。

 「子どもの頃の思い出といえば、みんなと同じで、放課後は近くの山に入って遊んだことや天神祭では寸劇をやったり、味噌を炊く釜で甘茶を作ったりした。どんど焼きでは、勝手に人の山に入り込んで、木を切り出してやぐらを組んだ。持ち主に見つかってこっぴどく怒られた。燃え切らないで残った木を細かく刻んで、薪としてお店に売って、お金をもらい、みんなで分けた。私はそのお金で学用品を買った記憶がある。」その頃の子どもはたくましかったとお話を聞いて思った。

 「十日夜とうかんやでは、わら鉄砲を作って、宿岩まで行って、喧嘩して逃げて帰って来たこともある。一番の思い出は、『泥棒、巡査』遊びだな。私は小さかったので、泥棒役をやらされた。わら縄で縛られて、水車小屋に半日入れられた。怖くて、怖くて、泣き通しだった。そんな子どもだけの遊びもいつのまにかなくなった。」

 泰夫さんは22歳の時、体育指導員になった。当時としては珍しいほど若い指導員だった。若い頃からスポーツは何でも好きだったという。

前列左から3人目が泰夫さん

 「私の周りのスポーツ好きの仲間たちと早起き野球を佐久町に作りました。9チームで始まった早起き野球が最盛期は24チームまで増えました。当初はみんなで一緒に野球を楽しむ親睦の意味合いが強かった。苦労したことといえば、グラウンドが無かったことです。中央小学校のグラウンドを使ったのですが、狭いグラウンドだったので、ボールが民家の屋根に当たったりして、その都度謝りに行きました。その後、総合運動場ができたので、思う存分野球を楽しむことができました。体育指導員として次に取り組んだのが、ママさんバレーボールを作ることでした。結婚して子どもを産んでしまうと、なかなか外に出る機会がなかった。そんなママさんたちが外に出るきっかけを作りたかった。最初は、分館対抗ママさんバレー大会を企画しました。この大会をきっかけに、バレーボール好きの女性たちが自由にチームを作って、試合をすることができる協会を設立しました。最盛期には20チームが週2回のリーグ戦をするまでに盛り上がりました。早起き野球やママさんバレーボールを作った私の思いは、佐久町に生まれた若者たちがこの地域に根付いてくれることでした。」

 泰夫さんは、青年団の団員として文化活動、スポーツ活動に一生懸命取り組んだ。県の演劇大会で優勝したこともあるという。高見澤敏光(元県議)さんが『三郎の仕事』という題名の脚本で農家の生活を書き、大道具、小道具もすべて手作り。みんなが一緒になって1つのものを作り上げる。そんな場にいることが好きだと言う。

 「今、84歳ですが、70歳になった時、レストランを閉めました。初めからそうしようと決めてました。28年間やって来たので悔いはありません。若者たちが集まれる場所だったことに満足してます。人生、人のために生きてきたという実感があります。」

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 高見澤一宏かずひろさんの家の前に、鉄柱の上に小さな屋根の置物が乗っている。珍しいので、あれは何ですかと、尋ねると
 「その下に、看板を吊るしてました。ここは、祖父の時代まで旅籠だったんです。」と言って、看板を模した図柄の木版を見せてくれた。

 「この木版で紙に刷って、配ったそうです。今でいう広告ですね。」この木版には、『商人 諸国 御定宿 本屋万平もとやまんぺい』と彫られてある。

 「江戸中期から昭和初期まで旅籠をしていたようです。その後、下宿屋に代わり、近くの小学校の先生を下宿させていました。常時5~6人の先生がいたことは、覚えています。きちんとお膳を並べて食べていたのを覚えています。」

 一宏さんは生まれは翠町だが、父親が教員だったので、勤務地の関係で佐久市の小・中学校に通っていた。でも、夏休みや冬休みには、翠町の実家に帰って来たので、近所の子どもたちとよく遊んだという。

 「一番の思い出は、夏休みに帰って来た時、近所の子どもたちと学校のプールに行ったこと。先生も別の学校の児童と知っていながら、手の甲にハンコを押してくれて、プールに入ったことがあります。」

 「アルフィー(音楽グループ3人組)の高見澤俊彦さんは、親戚になるんです。NHKのファミリーヒストリ―という番組で、取材に来て初めてわかったんです。まさか、自分の家と関係があるなんて知らなかったので、本当に驚きました。6代前の先祖同士が、兄弟だったらしく、それを確かめるために取材でお墓に書かれた先祖の名前を調べていました。2時間ぐらいインタビューを受けたんですが、実際に私が映って話をした場面は2、3分でした。」放映後は、会う人、会う人にテレビを見たよと、声かけられたそうだ。

 「高見澤家は江戸時代から続く家柄で、子どもの頃祖父から、昔は殿様が泊まったことがあると聞いた覚えがあります。定かではありませんが、脇本陣だったかもしれません。かなり古い脇息きょうそくや刀掛け台があるので……。ただ、古文書のような記録は今は確認できていません。」

 一宏さんは,今年から柳翠区の区長をしている。
 「区長として取りまとめることが多くて、忙しい毎日です。今は、町への地区要望書の取りまとめ、諏訪神社の松が松枯れ病で伐採したので、そのあとに桜とサワラを植える植樹祭の取りまとめ、祇園祭、敬老会等々。区長として責任ある立場にいるので、その責務を果たしていきたいと思っています。」

文章 西村 寛


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