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ウィーンフィル、コントラバス奏者の歴史

1.ウィーンフィルとは

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が世界最高峰のオーケストラだと聞いて、それを疑う人はいないだろう。歴史的な意味、音楽的な水準、そして現代のクラシック音楽界の存在感、どれをとっても第一級だ。
 ホームページの最初にはこう掲げられている。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ほど、西洋音楽の歴史および伝統とこれほど深く結びついているオーケストラは他にないでしょう。

 その成立は1842年で、決して「最も古いオーケストラ」ではない。例えばライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団はもっと早い1812年に創立されており、アメリカのニューヨーク・フィルハーモニックでさえウィーンフィルと同じ1842年に創立されている。
 しかし、1842年のウィーンフィル創立コンサートには、ベートーヴェンが自ら指揮をしたあの《第九》初演に立ち会った奏者が何人もいたそうだし、その後もハンス・リヒター、グスタフ・マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、レナード・バーンスタイン、ヘルベルト・フォン・カラヤンら西洋音楽史上の中心人物たちがその指揮台にのぼったことから、ホームページの緒言は誇張ではないだろう。

 そのような歴史的オーケストラだから、奏者たちは今も昔も、それぞれの楽器のスーパースターである。もちろんコントラバスも例外ではない。(とは言っても、コントラバスのスーパースターというのは、他の楽器に比べて、その知名度がだいぶ劣るのですが・・・)

2.マーラー時代のコントラバス奏者

 現代では大作曲家として、そして当時は大指揮者として名を馳せていたグスタフ・マーラーは、1898年の「予約制コンサート」(いまの定期演奏会)でベートーヴェンとモーツァルトを指揮してウィーンフィル・デビューを大成功のうちに終えた。ウィーンフィルにとって初めての海外演奏である「パリ万国博覧会」(1900年)の演奏でも指揮を務めたが、その後自作の演奏などで対立し、1901年には(健康上の理由で)その職を辞任する。
 ウィーンフィル在任中のエピソードでこのようなものがある。
 マーラーは1899年に自作の《交響曲第2番『復活』》を演奏するため、14人ものコントラバス奏者を要求したが、メンバーだけではその人数が足りなかった。賄いきれない4人分の代役に関して、オーケストラの総会と対立した結果、マーラー自らポケットマネーを出してまで出演させようとしたというのだ。(コントラバス奏者のわたしとしては、現代でも《復活》演奏の際には、指揮者のポケットマネーでコントラバスをたくさん雇ってくれたら、働き口が増えていいなと思うばかりである・・・)
 当時のメンバー表が、これだ。確かに、コントラバスは10人在籍したようだ。

(この画像はtwitterで拾いました。)

 さて、このマーラーの時代に活躍したコントラバス奏者たちが、コントラバスの「教則本」に登場するビッグネームばかりなのだ。

 この時代の首席コントラバス奏者で、かつオーケストラの委員長(楽団長)だったのが、フランツ・シマンドル(1840-1912)である。コントラバスを学習した者なら誰もが知っている『シマンドルのコントラバス教則本』の著者だ。シマンドルはボヘミア生まれで、チェコ音楽院のヨーゼフ・ハラーべ(1816-1870)のもとで学び、その後ウィーンで活躍した。ウィーンではオーケストラでの演奏だけでなく、ウィーン音楽院の教授も務め、多くの優秀な奏者を輩出した。彼の弟子を辿っていくと、現代の世界中の奏者に辿り着くほどの、「祖」である。(わたしも例外ではない)
 ちなみに、シマンドルの師であるヨーゼフ・ハラーべ(もしくはフラバ、ハラベ、フラビェなどの表記も)もまた、『86の練習曲』の著者として、現代でもその名を知られている。


 シマンドルがウィーンフィルの委員長に選出されたきっかけは、前述のマーラーによる《復活》演奏会の揉め事で、前任者が辞任に追い込まれたことだった。その時の委員会で委員長の刷新について発言したのが、ヨーハン・フラバだった。彼は1869年から1900年にウィーンフィルに在籍したコントラバス奏者で、それ以外のことは分からなかったが、ヨーゼフ・ハラーべの息子だろうか?
 ともかくマーラーが指揮者を続けるかどうか当時はとても揉めていたようで、マーラーおろしの立役者だったのがフランツ・フラバルで、彼もまた1885年から1915年まで在籍したコントラバス奏者だそうだ。(マーラーのコントラバスパートはあまりに難しいから、マーラーを嫌っていたのだろうか…)
 そしてこの抗争にはその名が登場しないが、この頃アドルフ・ミシェック(1875-1955)も在籍していた。ミシェックもまたチェコ出身のコントラバス奏者で、またシマンドルの弟子でもあり、彼が残した3曲の《コントラバス・ソナタ》は現在でもコントラバスの大事なレパートリーとして(大学の試験やリサイタルなどで)頻繁に演奏されている。
 それから、コントラバスとピアノのための《タランテラ》という作品を残したエドゥアルド・マンデンスキもこの頃在籍していたようだ。

 この頃チェコ人の奏者が多いのは、当時ウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)にあり、ボヘミアやモラヴィアといった現在のチェコにあたる場所がウィーンにとって「国内」であったからだ。そして、シマンドルやハラーべの存在が大きかったことは言うまでもないだろう。

3.戦後のコントラバス奏者

 オーケストラの定期演奏会といえば、一番人気は「交響曲」だろうが、次に人気なのは「協奏曲」ではないだろうか。
 コントラバスが「協奏曲」などでソロを演奏することは、確かに珍しい。しかしそれにしてもウィーンフィル179年の歴史のなかでまさかその回数がここまで少ないとは衝撃である。
 なんと・・・その数は、

た っ た 2 回

 である。いやあ、流石に少なすぎはしませんか・・・。ちょっと、ねえ。
 ともかく、ひとつずつ見ていこう。

 ウィーンフィル史上、初めて定期演奏会にコントラバスが「独奏楽器」として登場したのは、創立から129年、1971年3月20日,21日の定期演奏会である。指揮はヴェルナー・エックで、エックの自作に始まり、ヴァンハルの《コントラバス協奏曲》、ハイドンの《交響曲第93番》、そしてまた自作を演奏して終わるというプログラムだ。コントラバス・ソロは、ウィーンフィルの首席奏者であるルードヴィヒ・シュトライヒャー(1920-2003)が務めた。
 シマンドルと同じくウィーン音楽院の教授も務めたシュトライヒャーは、やはり『コントラバス教本』を残しており、プロのコントラバス奏者でその名を知らぬものはいないだろう。何度か日本にも来日しており、1981年にはNHK交響楽団の定期演奏会で、ディッタースドルフの《コントラバス協奏曲》を演奏している。

 また、1983年には山本直純が司会の人気テレビ番組「オーケストラがやって来た」にも出演。日本のお茶の間にも登場したのだ。

 次にコントラバスが独奏楽器としてウィーンフィルの舞台に立ったのは、1982年1月30日,31日に行われた「モーツァルト・ウィーク・ザルツブルク」というコンサートで、協奏曲ではなく、モーツァルトのアリア《この麗しい御手と瞳のために》Kv.612という曲である。これはバス歌手とオブリガート・コントラバス、そしてオーケストラのための作品だ。協奏曲ではないし定期演奏会でもないので回数のカウントから除外したが、コントラバス奏者にとって大事なレパートリーであることは間違いない。
 このときにコントラバスを演奏したのは、ウィーンフィル首席奏者のヴォルフガング・ギュルトラー(1947-)である。ギュルトラーはウィーン出身で、チェロ奏者の兄ディートフリートもウィーンフィルのメンバーだ。1974年にウィーンフィルのメンバーとなったが、この頃入団した他の奏者ホルスト・ミュンスター(1960年入団、以下同)、ヘルベルト・マインハルト(1961年)、ヴォルフラム・ゲルナー(1963年)、ブルクハルト・クロイトラー(1964年)、ラインハルト・デュルラー(1966年)、マルティン・ウンガー(1967年)、ゲルハルト・フォルマネク(1967年)、ルドルフ・デーゲン(1971年)、リヒャルト・ハインチンガー(1976年)と同じく、オットー・リューム(1906-1979年)の門下生である。リュームは『プログレッシブ・エチュード』という教則本の著者であり、ウィーンフィル首席奏者でウィーン音楽院の教授だった。ちなみにこの間だと、1970年に入団したミラン・サガトだけはシュトライヒャーの門下生である。またその後1978年に入団したアロイス・ポッシュ(1959-)はアウエルスペルクの門下であり、その次の1989年に入団して現在も首席奏者であるヘルベルト・マイヤー(1961-)はシュトライヒャーの門下生だ。

 そして史上二度目の協奏曲は、2014年12月6日,7日,8日に演奏された。マイケル・ティルソン・トーマスの指揮でメインはマーラーの《交響曲第5番》、そして前半には45年前と同じくヴァンハルの《コントラバス協奏曲》が演奏された。独奏を務めたのは、シュトライヒャーの弟子エーデン・ラーツ(1981-)だ。ラーツはハンガリー生まれで、2009年からウィーンフィルの首席奏者を務めており、現在は「ザ・フィルハーモニクス」のメンバーとしても活躍している。

4.終わりに

 今回は、マーラー時代に活躍した(プラハ派と呼ばれる)チェコ人コントラバス奏者たち(みなさん教則本などで有名ですね)と、戦後に「独奏」した首席奏者とその周辺に絞って解説した。
 もちろん、ウィーンフィルのコントラバス奏者の歴史はそれだけではない。例えば、1938年から1945年には委員長(楽団長)を務めたヴィルヘルム・イェルガーを忘れはならない。後に指揮者やブルックナーの研究者としても活躍した彼は、ナチス親衛隊の中尉でもあった。当時のウィーンフィルにおいて、ナチス当局から「協会の指導者」と任命されたイェルガーの存在は、どれだけ大きかっただろうか。彼の委員長在任中にはユダヤ人のウィーンフィル・メンバーが降格されたり、強制収容所に送られたりしたのだ。
 ブラームスやブルックナーの時代や、世界大戦の時代の、ウィーンフィル・コントラバスについては、(気が向いたら)また改めて書きたいと思う。


[参考文献]
クレメンス・ヘルスベルク『王たちの民主制 ウィーン・フィルハーモニー創立150年史』1992年。
永島義男「コントラバス演奏の基礎技法に関する研究」2015年、東京芸大。
ウィーンフィルのホームページ https://www.wienerphilharmoniker.at/ja/

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