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『キャロル』好きという気持ちを自分で持つ難しさ、非難される怖さ

 このnoteは感想の中でたくさんストーリーについて触れるので、ネタバレを避けたい人など見たくない人は見ないことをおすすめします。

 『オーシャンズ8』を金曜ロードショーで見てケイト・ウィンスレット…ではなくケイト・ブランシェットのかっこよさに惚れまして、そこから彼女が出ている作品を見ようかな~と思っていた。(これ書きながらやっと二人の名前の区別ができるようになった。ずっと逆だと勘違いしていたワ)
 『ベンジャミン・バトン』を見たのが確か去年で、『オーシャンズ8』の時とは違った彼女にびっくりした。確かにブロンドの髪、切れ長の目、白い肌、なんて「美しい女性」の典型的な見た目だからそういう役も似合うなあと思った。

 今回『キャロル』は女性の話みたいで面白そうだな、と思ったこと、アマプラの見放題がもうすぐ切れるから、と言う理由で見ることにした。ので、あまり予告編とかもちゃんと見てなくて、新鮮に楽しめたと思う。
目次は以下の通りです。


1.自分の中の「好き」を持つことの難しさ

 キャロルとテレーズが出会う前、また出会ってすぐ直後はテレーズは自分の「これが好き」という気持ちに自信が持てなかった。カメラが好きで、修理してもらったら喜んでいるけれど、「NYタイムズで写真を撮る人として働くのは?」と話を振られた時も「私はできない」という感じだった。わかる。自分の「好き」に自信持てなくて、それをもとに行動するのに億劫になってしまうのよくわかる。

 私の知人で料理がとにかく好きで、高校卒業後家にお金がないから、と1年間アルバイトして100万円貯め、それを資金に料理の専門学校に通い、卒業して料理人として働き始めたという人がいる。彼は私の一つ年下なのだが、私が大学で何を仕事にしたいのかわからね~むりだ~と思ってグズグズしている間に彼は着実に自分の夢の道を突き進んでいたのである。すごっ。

 『キャロル』ではテレーズは自分の写真を褒められて、自分が撮りたいと思う被写体であるキャロルに出会ったことが自分の「好き」を育てる大きなきっかけになったのだと思う。「人に興味を持ちなよ」とテレーズは以前写真仲間に言われていたが、はっきりと興味を持ったのが、彼氏でもパーティーの友達でもなくキャロルだったのだ。そこでテレーズはキャロルへの「好き」と、カメラへの「好き」を自分の中でちょっとずつ把握し、自覚し、育てていったのかなと思う。
 自分の「好き」に確信をもって行動できる人って何が違うんだろうなと思っていたけど、その「好き」を強化する出来事に出会うか、その「好き」な気持ちを純粋に認めてくれる他者の存在があるのかないのかということかもしれない。

 私は高校生の時、「小説が好きだから小説を作る編集者になりたい」と思って、三者面談の時に先生と母の前で話した。先生は、国語の先生だったんだけど、「ほ~それは頑張らないといけませんね~。でも、頑張ってみたらいいと思うわ」みたいなことを言ってくれた。で、家に帰ってその話になって、母が「○○は編集者になりたいんだって」と言ったら、父は「編集者ア?!」みたいな反応をした。この時、私は「あ、しまった。言うのが早かった。」と思った。その後は、いかに編集者になるのが険しい道のりなのか、お前よりも本が好きな人間はたくさんいて、お前みたいな本の虫になっているとも言えないほどの人間は編集者に向いてない、みたいな話をされた。
 私は進路相談で聞かれるまでぼーっと「編集者、イイナア」程度だったし、そこから編集者になるにはどうしたらいいかとか、何を頑張らないといけないのかとか何も調べてなかったのだけれど、それについても「好きだったんだったらもっと自分で調べろ。それは好きとは言えない」って親に言われてしまって、「私は編集者を目指す資格もないんだ」と思い、その時私の「編集者、イイナア」の芽はつぶされてしまった。

 私は、自分の好きなものを親に話すのがとても嫌いだ。なぜなら今までよく「え~そんなの好きなの~?」みたいな、馬鹿にする反応をされてきたから。その程度で好きじゃなくなるのは、好きじゃなかったんだ、みたいな考えがあるのも知っているし、自分がその程度だったのだと思って諦めろと言い聞かせていたりしたけど、今はそれは少し違うかな、と思う。

 「好き」という気持ちは人によって濃淡とか、強弱があって、それは他人と比較するものではなくて、自分の中でだけの話だと思う。周りに言われて動きやすい人、頑として譲らない人、に優劣はなく、ただその人がそういう特性なだけであって、性格と同じで個性だと思う。だから好きが揺らぎやすい人は好きの気持ちが弱い、というのは周りと比べて考えているから間違っていると思う。


2.「好き」を非難される怖さ

 『キャロル』の話に戻ると、テリーズはカメラへの好きと同時にキャロルへの好きの気持ちも自覚し、彼女らはキスをしたりセックスをしたりする。で、そのことを問題視しているキャロルの元夫が子どもの親権をキャロルから奪おうとして彼女らの部屋に工作して盗聴するのだけれど、これを私は見ながら『チョコレート・ドーナツ』と同じ構造じゃ~つらい~と思っていた。キャロルの同性愛(もしかしたらバイかもしれないけど)に関しては「医者に治療してもらうべきもの」と親族に言われているし、「いずれ治るわよね」みたいなことも言われている。つらい。今は、アメリカはこの時よりはもう少しよくなって、同性カップルが子どもを育てる、というのが普通になりつつあるが、この当時は相当人権もへったくれもなかったのだな…と思った。

 で、「好き」の話としてこの同性間の恋愛について考えると、自分の「好き」が多くの人間から非難される彼女ら彼らってめちゃくちゃ辛いのではないか…と思った。
 最近日本でレインボープライドが行われるらしく、行進の最中は手を繋ぐのだけれど、行進が終わって日常に戻る時にはカップルたちは手を離す、というツイートがリツイートされていたのを見た。

 今の日本もまだまだ、キャロルとかテリーズみたいな、自分の「好き」を周りにばれない様にしなければならない人がたくさんいるのだな、と思って、もっとみんなが自分の「好き」の気持ちに怯えなくていい世の中にしていかないといけないな、と思った。

 映画の中では、テリーズは自分の写真が「好き」と言う気持ちも、キャロルが「好き」という気持ちも、どちらも自覚し、行動するラストになっていて、素敵だと思った。

 私は映画が好きという気持ちを書いたけれど、このnoteをまだ誰にも言っていない。つまり、私もまだ「好き」を表現できるほど自信がないのだが、まあそれもいつかゆっくり誰かに話せるようになるといいなあ。


感謝感激雨あられ!