これまでの道のり

久しぶりにnoteを綴りたくなったので書き始めている。
ここ数週間の間、自分のやりたいことは何か、夢は何かということについて考え続けてきた。
ただ、これだと言い切れるような、雷に打たれるレベルのアイディアはまだ浮かんでいない。
そこで、自分の人生を振り返り過去の経験をもとに考えれば、その問いに答えを出せるかもしれないと思い、これまでの自分の過去を全てオープンにしていこうと思う。
元々noteは自分の思考をアウトプットするために使っていたのでちょうど良い。
早速、自分のこれまでの人生についてひたすら書いていく。

小学校時代

僕は、ごく平凡なサラリーマンとごく平凡のパート主婦の両親のもとに生まれた。
小学校ではいわゆる陽キャだった。
あらゆるスポーツがみんなよりも上手くできて成績もトップ。
習い事は水泳、ソフトボール(先輩がウザすぎて2ヶ月だけ)、書道、バスケ(好きな子が入ってたので自分も入った)、塾などいろいろちゃっかりこなすタイプだった。
周りから見れば完璧な子だと思われていたらしい。
小学生の僕はそんなことはつゆ知らず、ただ無邪気に友達と野球したりカードゲームで遊んだりしていた。
今思えば、小学生時代がこれまでで1番何も考えていなくて1番楽しかった思い出として残っている。

中学校時代

僕は中学受験をして地元の進学校に通い始めた。
友達と離れ離れになってしまうのはめちゃくちゃ嫌だったが、近くの公立中学がかなりのヤンキー校だったのでそっちに行きたくなかったというのが受験した1番の理由だった。(不純)
この学校には県内では珍しくハンドボール部があって、小さい頃から親にハンドボールの試合によく連れて行ってもらっていたので、僕は迷わずハンドボール部に入部した。
この部のコーチは、元日本代表でかなりスパルタコーチだった。
練習は毎日2時間しかなかったが吐くほどキツくて、毎日が憂鬱だった。
それなのに試合では最後の最後で勝ち切れず優勝を逃し続けた。
そんな僕らはコーチに不信感を持ち始め、チラホラ辞める部員も現れはじめた。
僕らの代は結束力がそこそこ強くみんなで辞めないように頑張ろうと話し合い、辞めようとする仲間を引き止めることもしょっちゅうだった。
コーチは、そんな僕らをみて自分らの代は勝てる見込みがあると判断したのか、練習はさらに厳しさを増した。
その中でも僕はそれなりに視野が広く、チームのゲームメーカーとして期待され、コーチにかなり目をつけられた。
そのせいか死ぬほど怒られた回数は他のチームメイトの比ではない。
練習では自分で考えろ、なんでそんなことも分かんないのかと常に怒られる。
そのくせ、自分の考えたプレーを試合でするとアホみたいなプレーするんじゃねぇと引っ叩かれる。(やっと最近このコーチがヤバかったってことを受け入れられた)
そんな環境だったので、僕は徐々に自分を出さなくなった。
自分を出すと怒られるから、自分を出さない方が自分にとっては楽だった。
僕のメンタルがこんな状態なので、ゲームメーカーとしては最悪である。
指示もしなくなり仲間とのコミュニケーションも減る。
ついには表情も作れなくなってロボットみたいになった。
そんな様子を見てコーチは顔面蒼白だとみんなの前で僕を貶した。
先生からやんややんや言われるのは慣れていたが、仲間からも何を考えているかわからない、と腹黒というあだ名まで付けられた。
僕はなぜそう呼ばれてしまうのかその時は分からなかったが、悲しみにひたすら耐えた。
周りに仲間は誰もいなかった。
ある日堪えていた感情が爆発した。
それは遠征中だった。
午前練と午後練の間の休憩中にみんなでボールを投げ合って戯れていた。
その際、一つ上の先輩が"腹黒""腹黒""ブラック""ブラック"と言いながら、僕を集中的に狙ってきた。
それがトリガーになってみんなに狙われた。
なぜこんな事をされるのか、悲しくなった。
その瞬間、今まで積み重なっていた負の感情が噴き出し、涙が止まらなくなった。
体育館のトイレに駆込み、そこにこもって泣いた。
それからは、みんな僕を攻撃するのをやめた。
そのおかげで、僕は何も気にすることなくプレーができるようになった。
それと同時期になんでも打ち開けられる親友もできたので、精神的な苦しみは徐々に減っていった。(その友達とは同じ大学に進み、今でもよく話しをする)
ただ、自分を殺すという副作用は高校生になっても消えなかった。

高校時代

中高一貫の学校だったので高校になっても変わることといえば、クラスぐらいのものである。
部活も相変わらず優勝はできなかった。
そんなあるとき、部活仲間の一人がテスト勉強を必死にやって30位以内になった。(うちの学校では30位に入ると掲示板に名前が載る)
あいつが出来るんだったら俺も出来ると思い、次のテストの勉強をかなり頑張った。
その結果、30位に入った。
部活で良い結果があまり残せなかったし、県内ではそこそこの進学校の30位であることが、自分に少しばかりの自信をもたらしてくれた。
それからというものテスト前は必死に勉強し、30位以内を維持し続けた。
そのおかげで成績の良いクラスに振り分けられ、小さい頃からの夢だった京大に入ることも視野に入りつつあった。
部活で結果が出せなければ、勉強で結果を出そうとテスト前だけ頑張った。
その頑張りと結果を見て、お前なら受かると先生も言ってくれた。
しかし、学校のテストの成績は良かったが、模試の成績はそこまで良くなかった。
それはそのはずである。
テスト前に一通り暗記して、テストが終わればすっかり忘れる。
こんな勉強で頭が良くなるわけがない。
それでも部活も受験まで忙しいし勉強も大変だったので、先生の言うことを真面目に聞いて時間がない中でも死ぬ気で勉強した。
僕は一生懸命努力した。


その結果、部活では全国大会には出れず、第一志望の京大にもしっかり落ちた。

なんでこんなに頑張ったのに何も成し遂げられないのか。自分を責めた。責めまくった。
滑り止めの私立には受かっていたが、どうしても京大に行きたいという気持ちは消えなかったので両親に頭を下げて、「1年勉強頑張るので予備校に行かせてください」とお願いした。

予備校時代

予備校に入って1、2ヶ月は勉強に身が入らなかった。
今まで男子校だったので、女子がいることに全く慣れなかった。
そんなある日、予備校で友達になった女友達が好きな先生がいるから質問行こうよと誘ってくれた。
もちろんオッケーに決まってる。(多少の下心含む)
ただ、その先生は見た目がゴツくてヒゲが伸びっぱなしで雰囲気少し怖いなと思っていた数学の先生だった。
声をかけてくれた女友達と共に勇気を出してその先生に質問しに行ったとき、僕は衝撃を受けた。
他の数学の先生とあまりにも解き方が違うし、その解き方が圧倒的に簡単で美しかった。
それから僕は、この先生の弟子のように付きまとい何から何までいろいろ教えてもらった。
先生は数学だけでなく、自分で自主的に考える力をくれた。
この先生に出会ってから、僕はある疑問を抱くようになる。
「今までみたいに予備校の先生の言うことをすべて鵜呑みにしていて受かるのか?」と。
いろいろ考えた結果、受からないと思った。
それから僕は後悔してもいいから、自分なりのやり方を貫こうと思った。
勉強法はすべて自分で編み出し、自分なりの受験勉強に明け暮れた。(今思えばかなりのチャレンジだったとは思う)
友達からは頭おかしいと言われたが、僕の中の神であるその先生はしっかり応援してくれた。
そうしはじめてから勉強が楽しくなった。
予備校が朝開いてから夜閉まるまでずっと篭り続けた。
予備校の警備員さんに、ここ住んでるの?(笑)と言われるくらい予備校にいた。
家に帰ると奇声を発してしまうほど体力的には追い詰められていたが、心には着々と自信が宿っていった。
今振り返れば、あれほどの勉強はもう一生できないと思えるほど取り憑かれたように勉強していた。
勉強しかしていなかったけど、信じられないほど楽しかった。

受験の当日、緊張しいの僕がそこまで緊張しなかった。
それほど自信があった。
1日目、国語と数学。
国語はかなりの出来だった。
数学は最も自信がある科目だったので、ここで周りと差をつけるつもりだった。
しかし、過去一の大コケをしてしまった。
今までにはないほどの失敗だった。
今までの努力が水の泡になったと思った。
それでも、自分が受からなかったら誰が受かるんだ、と心の底から叫び続ける僕がいた。
泣きながら英語と理科の追い込みをした。

二日目の記憶はほとんどない。
英語と理科の試験だったが、そこそこの手応えがあったことだけ覚えている。
やり切った感覚はあった。
あとは結果を待つだけ。
神頼みは今までしてこなかったが、このときばかりは神様を頼るしか方法がなかった。


試験の結果は、合格だった。
第一志望の学科ではなかったが、第二志望の学科にギリギリ受かった。
合格発表をみて自分の受験番号を見つけたとき、溢れた感情は安心感だけだった。
涙は一滴も落ちなかった。
とにかく安堵の感情だけだった。
嬉しさも感動も全くなく、ただただ良かった、、という気持ちだけが僕を包み込んだ。

大学時代

夢に描いていた大学に入れて、文字通り夢心地だった。
もう一生勉強はしないと自分に宣言し、遊びほうけた。
テスト前だけ必死に勉強し単位だけは死守。
とにかくバイトと遊びだけの2年を過ごした。

そんなことをしているときふと、自分が何のためにこの大学に入って何のために生きてるのか分からなくなった。
自分の将来やりたいことが全く分からなかった。
これまで持っていた将来の夢(京大に合格すること)を達成し、完全に無気力になっていた。
それプラス将来というプレッシャーに押しつぶされ、最終的に鬱になった。
一日中YouTubeをみて寝て、の繰り返し。
中高で培われたネガティブ思考がさらに僕を追い詰めた。
死のうかと思うくらい苦しかった。
それでも僕は抗った。もがき、抵抗し続けた。
こんなことで死ぬのは絶対に嫌だった。

そんな状況で偶然出会った本が「嫌われる勇気」だった。
これを読んだとき、自分以外に自分の人生を生きる人はいないんだから自分だけは信じてあげよう、自分を好きになろうと吹っ切れた。
あまり好きになれなかった学科の勉強はやめ、興味のあった起業の勉強を始めた。
いろんな社長さんに会いまくった。
その中に海外でワークショップを主催している人がいた。
ちょうど海外にも行ってみたかったので、ノリで参加した(30万円)。
そのツアーにはいろんな社長さんや個性の強い学生がたくさんいた。
ツアーに参加した後、仲良くなった学生メンバーでなんやかんやビジネスコンテストに出ることになった。
起業に興味があった僕は喜んで参加した。
そのビジコンは、僕ら以外全員社会人で100以上の応募があったらしかったが、なぜか入賞した。
それから入賞したアイデアを実行するために現地調査(インドネシア)に何度か行ったのだが、半年で諦めることになった。
ニーズもなければビジネスモデルの新規性も何もかもが欠けていた。
社会の難しさと厳しさをまざまざと見せつけられた。
ビジネスはそんな甘いもんじゃないよと教えられている気がした。
その頃には、最初13人いた学生メンバーは僕ともうひとりの2人だけになった。
それでも何クソと粘り、2人でいろんなビジネスを考えた。
とにかく勝てるビジネスとは何か模索し続けた。
1年近く悩み、議論し、ぶつかって磨かれたアイディアが今の事業の核になっている。
2人で悩み、作り上げたこのプランはまだまだ道半ばではあるけど、これほど愛着があって可能性を感じられるものはないと自信を持っていえる。
このとき初めて、自分の人生をかけて成し遂げるたいことの片鱗が見えた気がした。

まとめ

振り返ってみると、何かしら夢中になれたり没頭できている時は本当に幸せだったなと思う。
自分なりに納得する答えが出せているときや、正しいと思える事をただただしているときが自分の生きる意味なのかなと感じる。
だからこそ、自分の納得のいく生き方を貫きたいし、それに夢中でいたいし全力でありたいなと自分に言い聞かせながら、ダラダラ書いていたらこんなに長くなってしまった。
そろそろ終われよという声が聞こえてきたのでここで閉めようと思う。

ここまで、読んでくださった皆さんありがとうございました🙇‍♂️

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