作家がガチで自分の小説の入試問題を解いてみた(解答編)



だらだらとした前置き(とばしてよい)

 令和5年度の大阪大学文学部の二次試験の国語に、拙作「母の散歩」が出題されたそうだ。問題や解答はこちらから読める。

 初出は2023年5月号の文學界で、「幻想短篇特集」のくくりで執筆をした。現在は『水都眩光 幻想短篇アンソロジー』(文藝春秋)に「いぬ」と改題して収められているものが一番読みやすいだろう。

 ずいぶん最近の作品が入試に出るもんなんですね。受験生諸君、今後は坂崎かおるも入試対策で押さえてくれよな!

 私は、いつか自分の小説が試験に出て、「作者の気持ちなんてわかんねえよ!」と叫ぶのが夢だったので、まさかこんなに早く実現するとは思いもしなかった。前年度は多和田葉子先生だぜ…? しかも、大学入試だから赤本に載るので、これから受験の控える高校生が読むかもしれないと思うと胸アツだ。
 たぶん、この「作家がガチで自分の小説の入試問題を解いてみた」系のことは誰かやってると思ったんだけど、ビッグネームがやっててちょっとびっくした。

 タモリ倶楽部でもやったことがあるらしい。まあ、普通入試には、それなりの作家が出るんだから、当たり前といえば当たり前だよな…オレ、まだ、単著もないんだぜ…

 というわけで、そんなら私もやってもよいよね、受験生時代も現代文は勉強しなくても模試の成績はバツグンだったし、ウン十年ぶりに入試問題というものを解くことにした。めざせ満点!

ルールと注意書き

①解答は見ない

 当たり前だが、予備校の出している解答と解説めいたものは一切読んでいない状態で挑戦する。問題についてはちらりと見てしまったが、まあ、ちらりとぐらいは許してほしい。また、本記事公開時点でも、私は解答は見ず、後日、「答え合わせ編」という形で記事を上げようと思う)。

②時間制限(30分)を設ける

 受験生と同じ状態にしたいので、時間制限を設けた。大阪大学文学部の二次試験は、120分に、現代文×2、古文、漢文の計4つなので、30分とした。本文は読まなくてもいいのが有利だが、入試勉強とか過去の遺物すぎるので、そのぐらいのハンデは欲しい。

③字数は150字以内とする

 解答枠がどのぐらいの大きさかよくわからなかったが、昨年度までの解答例を見るに、だいたい150字以内に収まっているので、そちらを基準とした。

④作者しか知らない知識も使う

 ふつうに解いたらつまらんので、初稿とか他の作品とかも加味しながら答えてみる。いまだ存在しないであろう坂崎かおるマニアが解いたらどうなるか、という感じである。

留意点

・基本的に、現代文において「作者の考えを答えよ」的な問題は出ないし、出たとしたらそれはちょっと悪問だ。現代文の試験は、読書とかの対極にある、どれだけ出題者の想定したポイントを押さえられるかを、テキスト(と国語的知識)に基づいて加点できるかという競技のようなものだということは知っている。
・そのため、これから私が記す解答については、あくまで作者の私見であり、それ以上ではない。大学側の出題も、予備校側の解答も貶めるようなものではないことは、念の為ではあるが付け加えておきたい。
・とはいっても、あまりにもかけ離れたものだったら文句のひとつはいうかもしれない。
・本記事では、私の解答の他に、私がその解答についてどんなことを考えて書いたか、という思考プロセスを載せている。なにかの参考にして欲しい。
・当たり前だが、ネタバレにはなるので、まっさらな状態で読みたいな、という方は、ぜひ短篇を読んでからにしてね。

解答してみた

問1.「その職員は瞳を揺らしながら母の言葉を繰り返した」のはなぜか、その理由をわかりやすく説明しなさい。

 うお、わけわかんないところを訊くな。でもこの問題のポイントは「わかりやすく」だというのはわかる。第一に、「瞳を揺ら」すという表現の心情の国語的知識を問うているのだろう、たぶん。えーと、困惑とか戸惑いみたいなのが入ればいい。えーと、

 「嘘」という言葉に困惑したから。

 めっちゃ短いな。これたぶんダメだな。わかりやすいけど。
 この話は1月29日から書き始めている(後述するがプロトタイプはもっと前からある)。架空の犬を飼う母親、というアイデアはすぐに出ていて、クリーニング店から始まるというところまでは決まっていたものの、展開についてはまったくなにも考えていなかった。書いていればどうにかなるだろう系の短篇である。こういう書き方はよくする。
 で、この、火葬のシーンで母親が「嘘」だと言うシーンは、始めの4分の1ぐらいしか書けていない状態で、2月1日朝6時に、既にラスト部分の場面として登場している。以下のような感じだ。

喉仏。「じゃあ、嘘なのね」母はそう言った。嘘、と言いますと。職員が言うと、母は、「これは本物の喉仏じゃないのよね」まあ、としょくいん職員は答えた。「それならいらない」

2/1 6:24

 突然、こういうパラグラフが脈絡なく付け足されている。私は書きながら考えるタイプなので、思いついたシーンはこうやってどんどん書き留めておく。そして、だいたいこういうシーンはのちのち大事になっていくので、そこにどうつながっていくかを考えながらまた書き進める、という流れだ。
 その日のうちに他の部分を書き進め、夕方6時ごろには、当該部分の書き足しに到達したのか、以下のように変更・付け加えをしている。

喉仏。「じゃあ、嘘なのね」
 滔々と職員が説明を終えたあとで、そのとき母はそう言った。嘘、と言いますと。職員が言うと訊き返すと、母は、「これは本物の喉仏じゃないのよね」と続けた。まあ、と職員は答えた。「それならいらない」医学的には、そうなります。
「そう」
 佐知子は、母が「じゃあいらない」とでも言いだすのではないかと思ったが、彼女は黙ったままだった。でも、決して自分で骨上げはせず、父や佐知子がする様子を、じっと見つめていた。
 母が最初に架空の犬を飼いだしたのは、その後だった。

2/1 18:42

 ここの重要な改変は、母の「それならいらない」のセリフを、言っていない(けど言ったこととニアリーイコール)にしているという点である。が、細かいところで、「滔々と職員が説明を終えたあとで」という文言が付け足されている。その前の文章にも「お定まりの説明だった」と、職員の説明口調を補強している。

 以上のことを考えると、解答は以下のようになる。

問1の坂崎解答

職員にとって火葬後の説明は日常業務である。前文までの「滔々と」「お定まりの説明」という文からも、職員が手慣れた形で説明している様子がうかがえる。その業務的な説明を「嘘」と評されたことの動揺が「瞳を揺ら」すという表現に現れている。それを「繰り返した」のは、その言葉のその場での異質性を表すためでもある。(150字)

問2 「「そうなんだ」の「そ」の形で佐知子の唇は止まった」のはなぜか。その原因である母の言動もあわせて説明しなさい。

 うーん。いきなり「首を絞めたよ」と言われたら、自分ならかたまっちゃうよ。「首を絞めたと言われてびっくりしたから」ではだめだよね。
 この「首を絞めた」という話は、この「母の散歩」のプロトタイプである「私の犬」から出ているモチーフなので、割合早くに登場している。

「そういえば、前の犬はどうしたの?」
 母は、ああと、声を漏らすと、「折ったよ」と言った。
「折った?」
「うん、首の骨をね」
 あんまり行儀のいい犬じゃなかったしね、と母は続けた。「そうなの」と言いかけた私の口は「そ」の形のまま止まり、「それは」と、どうにか言葉をつないだ。「それはずいぶん、かわいそうだね」

「私の犬」より

「首を折った」から「絞めた」に変更しているが、私の反応を含め、ここはそのまま受け継いでいる。
 この物語は「幻想短篇」というお題を頂いたが、個人的には、「メタ幻想」ということを念頭に置いた。幻想であるものの、現実の人間がそれを「幻想」としてはっきりと認知している(と思われる)場合に起こり得る歪み、とでもいえばいいだろうか。「私の犬」は一人称で書いたが、「母の散歩」は三人称に変更したことも、そのあたりを踏まえている。幻想を幻想であるとはっきり事実として描くことでどうなるのか、というところに挑戦してみたかった。

 ということで、私の解答は以下のようになる。

問2の坂崎解答

 佐知子は母が「元」に戻ったと思い、何気なく「犬」の行方を問う質問をした。だが、母の「首を絞めた」という返答は予想していたものと大きく違い、母が現実と架空のどちらを信じているかわからなくなり、予定した返答を行うことができなかったため。(116字)

問3 「佐知子は空っぽだった段ボールから臙脂色のネクタイをとりだすと、箪笥の上にのる母の白い骨壺に巻きつけた」のはなぜか、説明しなさい。

 いや、わっかんねーよ。こっちが聞きたいよ。
 とりあえず、この第3問がこの入試問題の中の一番のヤマであることはわかる。これは難しい。難問だ。なんてったって、作者も今から考えるんだから。
 さて、初稿は2月1日中に完成している。実に4日で書いている。ラスト部分は一気に書き終え、この表現は当初から存在している。

 佐知子はようやく家の明かりをつけた。蛍光灯に照らされる段ボールの山は、高さがそれほどないくせに、寒々としている。佐知子は空っぽだった段ボールから臙脂色のネクタイをとりだすと、箪笥の上に載る母の骨壺に巻きつけた。母の骨の中に喉仏はあっただろうかと少し考え、くしゃみをひとつした。

2/1 22:13

 こういうときは、別に理屈で考えているわけではなくて、佐知子が勝手にこうし始めたんだよな…としか書きようがない。言語化できていたわけではないが、「ネクタイをクリーニング店から預かる」というアイデアを出した時点で、この「骨壺」にネクタイを巻く、というラストは自分の中の感触的な部分で決まっていたんだろう。
 まずポイントは、「ネクタイ」と「リード」の相似だ。これはかなりはっきり書いてあるので、さすがに意図したものであるし、受験生も気づける部分だろう。ということは、「母」の骨にネクタイを巻きつけることと、「犬」の首輪としてのリードが重なる。ということは、今まで佐知子がネクタイをぶらぶらさせながら歩いていたのは、もしや「母」を散歩していたのではないか、「母の散歩」は、「母(と)の散歩」ということになりはしまいか。
 的なことを書くのが正攻法だろうなあとは思うのだけど、この読みは、作者としては当たり前すぎて面白くない。もうちょっと考えてみよう。
 私はよく作品の中に「骨」を登場させる(「骨」「あたう」「塹壕掘りの日」など。今度出る新作にもあるよ)。これは私の個人的な体験によるところが大きいが、死した後の人間の骨という存在に非常に興味がある。火葬という風習の、骨が残り、納骨はもちろんあるけれど、一時、死者が家の中に形を変えて存在している、という感覚を、たぶん私が未だに処理できていないためであろう。人生の答え合わせのために小説を書いているフシが私にはある。
 逆説的だが、骨になった死者ほど存在感のあるものはない、と思っている。その不在にもかかわらず、物質として明確に存在してしまっているからだ。読んでみるとわかるが、佐知子の母は、娘に向かって「あんたがいなければ」みたいなことを平気で言うタイプの人間だ。佐知子はそれを「陰のない呟き」と捉えているが、これを額面通りに受けとれるかは、私もよくわからない。だが、佐知子と母の関係は単純なものではなかったはずだ。その骨が、いま眼前に存在しているのだ。
「私の犬」及び「母の散歩」初稿には、現在の原稿とラスト部に重大な相違がある。一点は、前述したように「首を折る」を「首を絞める」に変更したこと、もうひとつは、最後の文の「くしゃみ」を「くしゃみをひとつした」から以下のように変えたことだ。

鼻がむずむずと、くしゃみの予感がして、でも、なにも起こらなかった。

「絞める」はそのまま、リードの首輪、そして、ネクタイを「締める」に結びついている。「くしゃみ」は佐知子の犬アレルギーと関連する。だけど、その「くしゃみ」は果たされない。佐知子は母親のように、幻想を幻想と認められない。つまりこれは、母殺しに至るまでの現在と過去を往復する「散歩」であり、そしてそれが為されなかった物語なんだよ!

問3の坂崎解答

 この行為は母の「首を絞める」発言と呼応としている。ネクタイもリードも、どちらも広義の「首を絞める」物である。佐知子は、自分の母に対する様々な思いを考え続け、母親の骨壺にそれを巻きつけることで、母殺しを為そうとしたんだ!!(110字)

 ふう、思いもかけない着地点に行ってしまった…。さて、入試の本文を読み返すと……

 あれ? めっちゃ中略されてるな??

 うお、「あんたさえいなければ」のくだりもないし、だから犬アレルギーのくだりもないし、あそこのところ省略しちゃったら、この物語わかんなくない??

問4 「臙脂のしっぽ」という表現にはどのような効果があるか、本文全体の内容をふまえて説明しなさい。

 気を取り直して最後の問題。これは、読解に見せかけた語彙知識を問う問題ですね。
 まず、「臙脂」が、赤っぽい色であることを知らないといけない。すると、兄が死んでから母が買った首輪が「トマトのような色」であることと対応していることに気づけます。なので、以下のように解答はなるでしょう。

問4の坂崎解答

 臙脂は赤系統の色である。佐知子の兄が亡くなったときに、母が架空の犬を連れて散歩したときのリードは「トマトのような色」だったことから、それと呼応している。つまり、「今」と「過去」の散歩が重なり合い、その境界をあいまいにする効果がある。(116字)

 あとは、骨の「白」との対比でもありますよね。生者と死者の境を表しているといってもよいですよ。

総括

 ということで、がんばって解いてみた。
 途中で気づいたけど、この問題、あまりにも中略が多いので、そもそも話の筋をつかむのが難しかったのではないか? 小説の構造的にも、過去と現在が行空けなしで多層的に展開されるし…。これを予備知識なしで解かされる受験生には、なんだか申し訳ない気持ちになる…。よくわかんなかった人は、ぜひアンソロジーを購入して、君の目で全文を確かめてみてくれ。
 ただ、逆に考えると、中略を多用してまで物語のはじめから終わりを載せたというところに、出題者の意図が汲める、と想像することもできたかもしれない。ここら辺の意図は、問3・問4と関わってくるので、そういう出題メタみたいな観点から試験をとらえていくのもおもしろかろう。
 問3はちょっと気になったけど、総じて面白い体験だった。作者としては、この物語を読んだときに、読者がどんなところに引っかかりを覚えるのか、というところが理解できたし、そもそも自分の小説をこんな風に細かく考えることがなかったので、それも稀有な経験であった。入試問題作成者諸氏におかれましては、どんどん坂崎作品を使って欲しい。もうないかもしれんけど。
 さて、「答え合わせ編」は後日記事にすることにする。一応、最後に念のために繰り返すと、あくまでこれはお遊びであり、私の解答が正しいわけではない。これは、入試という意味でも、読書という意味でもそうだ。作品は常に作者の一歩先を行っているので。受験生諸君は、この記事で河合塾とか大学の入試課に抗議しないでね。