【千字戦①】前を向く

 僕が右斜め上を失ったのは、羽田空港の五番ゲートだった。
 空港の職員は若い男性だった。高校生ぐらいに見えた。
「お客様」
 金属探知をくぐったときに声をかけられた。いくつか棒状の機械で検査された後、その男性職員は、残念そうに言った。「こちらの方向、、はお持ち込み頂けません」
 ホウコウ、という言葉がよくわからず、僕は「ライターあった?」と訊き返してみた。「禁煙してずいぶん経つんだけど」
「いえ、方向です。方角、矢印。お客様は、右斜め上ですね」
「右斜め上」
「ええ、右斜め上」
 僕は彼をまじまじと見た。胸に名札があるが、特に名前の記載がない。随分と申し訳なさそうな顔をしている。
「左ではなく?」
 とにかく僕は会話をつなぐ必要性を感じ、そう返した。ええ、と彼は頷く。「左でも下でもなく、右斜め上です」
「そいつは」
 困ったな、と僕は言いたかったが、「右斜め上」を失うことで、具体的に自分にどんな困りごとが降りかかるのか、想像ができなかった。
「どうすればいい?」
「こちらにお入れください」と、彼は、プラスチックのケースを指さした。それこそライターや、十徳ナイフやら、バッテリーやらが入っている。
「この中に?」
「ええ、この中に」
「他にも」僕は続けた。「方向が入ってたりする?」
「ええ」
「どんな」
「それはちょっと」彼は困った顔をした。「個人情報ですので」
「もし、仮に」
 若い彼は、なおも会話を続ける僕に、少し苛々してきたように見えたが、僕は構わなかった。「僕が右斜め上を入れなかったら?」
「その場合は、当機に搭乗することができません」
「搭乗することができない」
「はい」彼は頷いた。「別の交通手段をお試しください」
 それは困った。僕は大事な仕事を抱えているし、明日の早朝には会議があるのだ。
「じゃあ、入れます」
「お願いします」
 僕はボックスの前に立った。どうすればいいかわからなかったが、とりあえず、右斜め上に手をかざし、つまみ、ボックスの穴の上にそのまま持ってきて、指をぱっと開いた。それから若い職員の方を振り向いた。彼はニコッと笑い、「ありがとうございます」と頭を下げずに言った。
 僕は手荷物検査を終え、搭乗口に向かった。列に並ぶ。長い列だった。しばらく待ったが、動く気配がない。
「ちょっと」
 僕は、前の女性に声をかけた。「どのぐらい待ってます?」
 だが、女性は振り向かなかった。ただひたすら、前を向いていた。