芥川賞候補作家が選評を読んで「ぐぬぬぬ」と言う会

 使えるものは骨までしゃぶれ、とばっちゃんも言っていたので、こんなことをしました。

日時:2024年8月9日(金)21時~(予定。眠かったら寝る)
目的:第171回芥川賞の選評を読み、敗北を抱きしめる。
対象:8月9日発売『文藝春秋』2024年9月号 第171回芥川賞選評
ルール:
①初読とする。
②自作の選評を掲載順に読み、それぞれの感想をつれづれなるままに本ドキュメントに記入していく。引用については著作権法に則った範囲でのみ行う。
③会終了後、本ドキュメントはクローズし、誤字脱字やなんかバカなこと書いちゃって恥ずかしい文章など修正したものをnoteにアップする予定。

 以下、初読の文章をやや手直しして掲載します。当たり前なんですが、受賞しなかった作品への言及は短いので、あんまりたいしたこと書いてなくってすみません...。次はもっと長く言ってもらえるよう…

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(*引用は断りがなければ全て『文藝春秋』2024年9月号P270~)

選考委員選評について

・平野啓一郎氏

 みじかっ...!とはじめは思ったんだけど、だいたい他の人もそんな感じで、「だよな…お前の作品はその程度なんだよ…」と改めてぐぬぬぬをしている。これはあまりよい負け方ではないんだよね。
 平野氏は、「主人公の主観のままに物語に利用されてゆく運び」が引っかかる、とあり、これは他の感想でもよくあがっていた。例えば、設定の配置がよい故に、作為的に感じた、とか。これはあとの川上氏の評にもつながっていくのだけど、「よい」小説とはなんぞや、という話につながってくるのだと思う。

・島田雅彦氏

 「短篇の佳作止まり」は、すごい言われて凹んだフレーズですね。一番傷ついたのが、某所で言われた、「なんか年間傑作短編集に載ってそう」みたいな台詞。場所によっては誉め言葉のこれが、すごい自分にとって最大の皮肉で、ずいぶんへこみました。私はウェルメイドな作品をつくるのは得意ではあるのですが、こういう選考の場ではほんとにマイナスに働くと思います。
 また、島田氏は本作を「群像劇」と捉えているが、作者としてはあまりそういう意識はなかったですね...。そこらへんが中途半端な印象を与えているんですよね。ぐぬぬぬ。

・吉田修一氏

 みじかい!が、吉田氏の「バスなんか来なければいいのに」という「詩的な作品」という選評はちょっとうれしいね。ここまで三人読んできて、どの選評も、限られた字数の中で、それぞれの作家の声が聞こえてきて、これはすごいなと思った。かぶっている話がない、というより、それぞれの立ち位置がとてもはっきりしていて、そこから評を書いている感じ。吉田氏は新人作家の先を見据えた形で言葉を選んでいる印象を受けました。

・小川洋子氏

 今回の選評の中で、いちばん解釈が難しかった。最初に、「肉体の中に人は一生閉じ込められる」とあり、それに振り回される人間のなんと難儀なことか、と続き、それが今回の候補作の特徴であるように語られる。小川氏は「転の声」推しで、「人間の存在そのものを打ち消そうとする世界」の気味悪さを高く評価している。拙作については、クズミが「掃除」という行為に執着し続けることが即ち「肉体の迷路を進」むことであり、「言葉の消え失せた地まで行き着かなければ、小説は書けないのかもしれない」とある。これの捉え方が難しくて、そういうことが書かれた小説と評価しているのか、そういうことが書けていない小説として評しているのか、私はいちおう、後者として捉えました。

・山田詠美氏

 某文芸評論家の悪口から始まっているのにくすっとしてしまった。これに対して「わざわざ短い選評で触れるものか」みたいなツイートも見かけたが、半分は同意で、某氏のふわっとした伝聞的批判に反応すべきは選考委員ではなく協会の方でしょう。もう半分は、喧嘩売られてんだから買ってやろうぜ!という気持ち。
 さて、選評の方は、「もう少し凝縮されて、短編小説集に入れられていたら、しみじみと良いものを読んだと思っただろう」ほら、出た!みんなそう思うのよ......。すみません、反省します。

・川上弘美氏

 「ナンバ」の話がとてもよかった。ナンバ、とは、右手と右足が同時に出るような歩き方のこと。川上氏は、そこから小説の話につなげ、「構造を緻密に保ち」「社会的な問題」などをとりあげ、「作者個人の考えをリンクさせ」みたいな小説を、自分は「推さない気が」すると言う。そういう風に書かれた小説が「なんか、怪しくないかいな?」というこの言葉は、けっこう大事ではないだろうか。また、川上氏は、拙作の「言葉の斡旋」を「繊細な感覚」と評してくれていて、これは嬉しい。「出来ないことを恐れず、書いていってください」というエールも身に沁みますね。

・松浦寿輝氏

 「「わたし」の背景や過去への言及がないのが物足りなかった」というのは、うーん、難しいところだなあと思いました。引き算の問題だとは思うのだけど、案外そっちの方がよい、という方もいますしね......。そこらへんの消化不良感をどう認識させないか、というのは大事であろうと感じました。

・奥泉光氏

 「技術は高い」が、設定を支えるためだけに「主人公が小説世界に呼び出されたように見えた」というのも、まあ、そうっす、すみません。ここらへんの選評は心に刺さるな...。

・川上未映子氏

 「手数は多いが」「既視感のある流れ」も、まあ、感想でよく見ました。そうねえ、そうじゃない企みももちろんあるんだけど、それが結局評価軸として出てきていない時点で、「自分がんばったんです!」宣言なので、まあ、小説にこの手のがんばりは意味がなさすぎる。精進します。

選評を読んでみて

『海岸通り』の選評についてまとめると、

・作為がすぎる
・こじんまりした話になっとる
・印象が薄い

 という感じになるでしょうか。すごい当たり前の話ですが、受賞2作について紙幅が多く割かれているため、必然的に候補どまりの作品の選評は短くなってしまいまする。ので、どこまで意図が汲みとれたか怪しい部分もありますが、これも当たり前だけど、選評ひとつとっても作家の個性が出て面白いなあと思いました。その中でも、いちばんストンと落ちたのは川上弘美氏、愛を感じたのは吉田修一氏でした。ただ、結局「印象が薄い」は全選評の根底にある感じがして、これは負けるにしても、よい負け方ではなかったと思います。こういう試合には、負ける方も矜持がありますから…。

 ちなみに、受賞作への選評は意外に一致していて、「サンショウウオ」は後半の失速、「バリ山行」は、あまりにも「順接的」すぎる展開への指摘は共通している感じでした。結局、川上氏の言うように「すべてが出来てしまう」小説は嘘くさいんですよね。展開の瑕疵、文章の傷、そういうのってどれでもあるんですけど、小説はそれ含めて価値があるんでないかい、お前はそういう球を投げてきたのか、別に芥川賞とかそういうんじゃなくって、毎回そういう気持ちで書いてんのか、と言われた感じがしました。ぐぬぬぬぬ、がんばります。