【千字戦②】肋骨レコード

 イリナの肋骨は開いている。
 正確にいうなら、肋骨の数が足りていない。12対24本あるはずのそれは、右胸の部分が一本足りず、11本しか見えない。それは真ん中のあたりで、だから、胸がぽっかりと、扉のように開いて見える。私は彼女に会ったことがないので、その理由はわからない。名前だって、そのレントゲン写真の隅に小さく、「Ирина」と記されているからそう判断しただけで、性格も、年齢も、背格好も、なにもわからない。
「我がソビエトは、肋骨も足りないのね」と、ベラが言う。「男性のが少ないというならわかるけど」
 ベラは創世記の話をしているのだろうけど、私はそれを無視した。皮肉屋で、言葉遊びの好きな彼女にかかると、どんなことでも冗談になってしまう。
「走り書き。スペイン語?」私がタグをかざすと、「El manicero」とベラが呟き、「キューバね。ルンバのスタンダード」と付け足した。
 肋骨レコードの商売を始めたのはベラで、モダン・ジャズやタンゴ、それにルンバは、当局が禁止をしていた。私たちはラフマニノフを聞くしかないのだ。「あれだけ派手にやってくれれば鼠もいなくなるさ」とベラは常々笑っていた。
 だから、廃棄されたレントゲン写真を使って、レコードを私たちは作った。レントゲン写真は普通の紙より頑丈だから、それに溝を彫り、78回転盤として再生する。だから、「肋骨レコード」。チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、フランシスコ・カナロ。私たちはあらゆるジャズやタンゴを刻んだし、それを望む人々に売った。品質はひどいものだから、1ルーブルとか、それにも満たない金額で。すぐに壊れるので、望む人はあとを絶たない。
 イリナ。
 これは、私たちではない誰かが作った肋骨レコードだ。裏町から流れてきた。ひどい浮浪者で、初めは女だということにも気づけなかった。ベラは彼女に10ルーブルも渡し、それからしげしげと、その開いている肋骨を眺めた。
「とにかく聞いてみよう」
 レコード盤に載せ、針を落とす。El manicero。陽気な音楽。私たちには似合わない。でも、30秒ほど流れたところで、もう聞けなくなってしまった。溝が削れ、ひびが入り、ぎっぎぎっぎと、おかしな音を立て始めた。
「肋骨が開いているからね」
 ベラが言い、私は頷いた。ぎっぎぎぎっぎ。開いたまま、レコードは、どこか異星のような曲を、奏で続ける。