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さかさ近況㊶


芥川賞の候補になったよ

 と書く日が来るとは思わなかったが、なったのだから仕方ない。

 光栄なことだが、ホントにいいの?だいじょぶ?ちょっと休憩してく?という気持ちにもなる。善し悪しは置いておいて、芥川賞は、なんかこう、もっと、エッジのきいた感じのものが(特に最近は)受賞するような気がしているからだ※1。「海岸通り」は見た目はけっこう地味な作品で、どうかな、選評でボロクソいわれないかな、批評家たちが「まったく近頃の芥川賞候補は...」とか苦言を呈さないかな、などなど今から心配している。「ボクが応募したんじゃないんです!向こうが勝手に選んできたんです!」などという言い訳を叫びたくなるが、「じゃあ候補を辞退すりゃいいだろ」という反論が返ってくるので黙っている。だって、とれるなら欲しいじゃん、芥川賞。欲しくない?うち、サルトルじゃないし。
 などと発表前は思っていたが、校正のために読み直していると、なるほど、この物語はこういう物語であったか、と、いちいち驚きながら読めた。全体としては「きゅうりうる」(『小説紊乱vol.1』)の後継として、企図としては「泥棒コロッケ」で果たしえなかったことにあたる野心的な作品だ、と自分では思う。そこら辺がどんな風に読まれるか、楽しみではある。今年から川上未映子センセも入っているのもウレシイね。細かい部分ではあるものの、ガシガシ初出よりも手を入れているので、単行本もよろしく!

※1 その意味で、杉江さんとマライさんのこの対談は今の賞の状況をよく読み取れている、気がする。「やはり尖っていてしかも突破力のある高射砲塔」とか、「やっぱり芥川賞は文芸界のランドマーク」とか。

『幻想と怪奇 不思議な本棚 ショートショート・カーニヴァル』

が、6/21に出るよ。私は「本棚は知っている」というヴィクトリアンな掌編。一足先に読ませてもらって、受賞者の作品もたいへんおもしろいですよ。ぜひぜひ。

『文学2024』

 こちらは6/27発売予定。「ニューヨークの魔女」が再録される。
 これはお話をいただいたのはかなり前で、ひょええと驚いたものだ。毎年順番にいろんな作家さんが前書きを書いてくれるのだが、今年は島田雅彦先生で、どんな風に読んでくれたか楽しみである。作家陣の名前がすごいよね。文學界の幻想短篇特集のものが二つも入っていて、あの特集に入れたのはほんとによかった。
 とはいえ、ちょっとお値段なかなかなので、気軽に「買ってね!」とは言いづらい。「ニューヨークの魔女」が読みたい、という人はぜひ『嘘つき姫』も買ってね。


最近読んだもの、見たもの

 金子玲介『死んだ山田と教室』(講談社)をようやく読んだ。前評判にたがわず、のおもしろさであった。金子さんはBFCのときから、非常に映像的な作品を書ける人だなあと思っていて、あの掌編「矢」の到達点であると思えた。登場人物が多すぎるこの物語をどう処理できるのかと思ったが、存外その点でまごつくことはなかった。これはちょっと細かな書き方の配慮だと私は思っていて、台詞主体のこの小説で、会話にちょくちょく名前が意図的に挟みこまれている、ように感じる。お前、とかじゃなくて、「和久津、弁護士になりたいって」「別府どうした」「はい二瓶ちゃん」みたいに。これがけっこうしつこくなくてよい塩梅で、クラス全員を描く、という難題を華麗にクリアしているし、そして、ちょっと区別できなくても問題ないように話が進行している。やっぱり文章がうまい。若者たちの青春、の、案外暗い部分にスポットが当たっていて、とにかくバランスのいい作品だった。
 ただ、作品とは直接関係ないが、宣伝のわりに、やや拍子抜けした感はある。あそこまでプッシュされてしまうと、読んでいる最中ずっと、「ここからどんなラストが待っているのだろう」と考えてしまい、とても上手であれしかない終わり方だと思うのだが、消化不良感は出てしまう。これは作品の瑕疵ではなく、宣伝とのギャップであり、私が未熟な読者なためであろう。私はこの事象を甚だ難しい問題だと思っていて、『ここはすべての夜明けまえ』のときも感じたのだが、発売前からすごいプッシュされすぎると、読む方は過度の期待(もしくは反発)を抱いてしまい、それが読み方に影響されてしまう、のではないだろうか。その点、この小説とも対比されている成瀬は(私の感覚では)、発売後にじわじわっと広がってからのプッシュだった(ような気がする)ので、稀有な成功例なのかもしれない。とはいえ、斜陽気味の出版界隈においては華のある作品ではあるし、文句なしに今年のベスト級のおもしろさではあるし、めっちゃ推したい小説ではあるので、その宣伝の仕方もすげえわかるぜ…と、恐らく永遠にこういうプッシュのされ方をされないであろう私としても、若干の羨望を交えながら、思いつつ、作家が過度にプレッシャーを感じないか、他人事ながら心配である。業界の方はそこらへんのケアもしてくれたらうれしいな(というのは、現代的な感覚なのだろうかね)。
 豊永浩平「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(群像6月号)も抜群におもしろかった。沖縄の現代史を、14の語りが紡いでいくという構成は、もちろん過去にも例があるだろうが、沖縄由来の若い作者が、ここまで真摯に描いたことは近年なかったのではないだろうか。これは彼にしか書けないだろうし、そういう渾身の作が多くの人に共感を生んでいるのがよいと思った。一緒に候補になるかと身構えていたのだが、そうでもなかったのがちょっとびっくり。強いて難癖をつけるなら、「ポリフォニー」と評されているようだが、そのような多声を私は感じなかった。14の語り手の造形はどちらかというと、インテリジェンスな語り手が声色を変えてしゃべっているような気分にはなった。語り手は時代ごとにカリカチュアされ、彼らは人間ではなく、よく調査された「情報」のようなイメージをもたされた(選評をあとで読んだら町田康氏も同じようなことを書いていた)ので、ここらへんは評価が分かれそうだ。また、いわゆる知識階級的な語り手が多く、当時の「沖縄」のかなり狭い部分になってはいないか、という危惧はある。とはいえ、ここまで描き切る作者の実力は確かだと思うし、悔しさももって次作も楽しみにしたい。
 門田岳久『宮本常一 〈抵抗〉の民俗学: 地方からの叛逆』(慶應義塾大学出版会)はかなり面白かった。名前と『忘れられた日本人』ぐらいは知ってたが、まったく自分の範疇にないものだったので、読めるかなと心配だったがかなり杞憂だった。本書は、宮本常一を伝えるというより、彼の佐渡への働きかけなどを通して見えてくる、周縁の「抵抗」その成功と敗北を学術的に語るものだ。筆者の書きぶりは冷静で、過度に宮本を賛美することもなく、かと言って後付けのように落とすものでもない。私は終章にかなり痺れていて、「「互助」を進める「まちづくり」は、財政支出を削減したい側からすれば望ましい取り組みである」と喝破する門田の筆致は最初から最後まで揺るがない。

宮本の文化運動は、離島の存在をなきものであるかのように扱ってきた近代への抵抗の実践であった(中略)(彼の)アイディアや、それをたたえる人びとはいま、既存の価値観へのオルタナティブを模索する抵抗の実践でないばかりか、ともすれば「互助」や「自助」という名の自己責任論を謳う緊縮型政治の補完勢力と紙一重になりつつある(p365)

公共施設のクラウドファンディングなんかまさにこれだろう。文化がシステムに成り下がる状況はいままさに最盛期を迎えようとしているのではないかと思わされた。

 他にも今回は他の芥川賞候補作も読んだのだが、それはまあ、別の記事にしようかな。「芥川賞候補作家が芥川賞候補作を読む」みたいな…

みんな楽しく(て)やってこうぜ

 「海岸通り」は、もちろん文學界からの依頼があって書いたものだ。だが、私は文學界新人賞をとったわけでも、他のいわゆる五大文学誌の新人賞をとったわけでもない。公募好きが高じて、いろいろな賞に御縁を頂いたわけであるが、(この言い方は好まないが)中央寄りのものとは無縁であった。せっかくなので、そのあたりの経緯を記録しておこうと思う。
 これよりもずっと前、ブンゲイファイトクラブという文芸作品の殴り合いみたいなイベントで、決勝まで進んだ。

 最後に負けてしまったが、それで少し名を知られたのだろう、文學界のエッセイを依頼された。しかし、それきり特に作品の依頼は来ず、私も忙しいのでそのままにしていた。
 が、とある地方文学賞(四国ではない)に送った作品が一次も通らなかったことに憤り(本名を書かなかったからかもしれない)、そうだと思い、不躾ながら作品を読んでもらえないかと、エッセイの依頼を頂いた方に送ったところ、その作品は採用されなかったが、幻想短篇特集(文學界2023年5月号)に誘われたのだ。「母の散歩」と名づけた短篇は、別の編集の方が声をかけてくれて、『水都眩光』というアンソロジーに「いぬ」と改題され収録された。

 その本の編集の方のお声がけで、「海岸通り」を書いたのだ。本当はもう少しゆっくり書く予定だったが、諸事情で年内〆切となり、今年の2月号に掲載された。そして何を隠そう、いちばん最初の最初、一次も通らず、不躾に送りつけた作品こそ、この「海岸通り」の原型なのだ。ニセモノのバス停が登場し、痴呆ぎみの老人がベンチで待つその小説を、私はいちから書き直した。30枚だったそれは140枚になり、なんだか候補になった。
 この話の教訓は2つある。ひとつは読んでもらわなければ始まらないということだ。書くという行為は自己完結できるが、その物語が先に行くためには誰かに読んでもらうことが必要だと思う。アドバイス、ということではなく、どんな風に読まれるか、を知ることが、私には役に立つ。なにかのえらい賞をとっても、その先へ進むためには、新しいなにかを誰かに読んでもらわなければならないし、そのためには誰かに頭を下げる必要もある。そういう感覚はけっこう大事だと思う。
 もうひとつは、何度でも挑戦できるということだ。今回の作品は、原型をほぼ留めていないが、落選から始まっている。でも、それを書き直したっていい。そういう作品への信頼は大切だ。また、私をなんだか短期間でたくさん賞とった人、と思う人もいるかも知れないが、何度も書いているが、再び書き始めるまでに十数年のブランクがあるし、というか、初めて小説を書いた小学生から考えれば、数十年の苦節を経て現在に至ると捉えることもできる。書くことなんていつやめてもいいし、いつ始めてもいい。挑戦というのは、そういう気楽さや楽しさの中にこそ生まれると私は思っている。

 とまあ、こんな感じで生きている。誰かの参考になったら幸いである。他人はいつも、誰かの人生のリファレンスのために(も)存在する。私は、ネットで創作論を書いた罪のために四辻で札をぶら下げて立ってきます。