見出し画像

さかさ近況㉟


単著が、来る!

 念願の単著が、3月27日に、河出書房新社より発売される。

 去年の夏ぐらいから徐々にお話を進めてきた感じなので、私にとってはようやく口にできる!という感慨もある。ちなみに私の作業はもう終盤だぜ(仕事が早い!)。
 これから、収録作とかもろもろをお伝えしていければ、と思うが、今回のために書いた書き下ろし短中編2本をぜひ読んでほしい。どうしてだかよくわからないけど、短編集には既出作品の他に、書き下ろしを一編ほどつけるという風習がある(読者サービス?)。他の作家の方の熱量はよく知らないが、作品集のなかのひとつ、ということには依りかからず、これ一本で成立できるようにという気概で書いた。短い方は、この作品集を見渡したうえで、裏口や勝手口になるような作品になったと思う。
 かぐやSFで賞を頂いてから(あるいは小説を再び書き始めてから)3年ぐらい経っている。これを遅いか早いか言うのは、個人の好みだなと思うけど、本を出したいなあという人が短編賞で結果を出そうとするのはなかなか難しい。手っ取り早いのは、五大新人賞とかのデビューや、長編系の公募に送ることだが、方法としては手っ取り早いが、ぜんぜんムツカシイから困っちゃう。二百枚とか書いても、落ちたらそれっきりのまた来年ガンバッテ!は続けていく方も辛いんじゃなかろうか。
 前に、ある作家の方とお話したときに、「坂崎さんが短編作家のロールモデルになれるといいですね」という風に言ってもらったことがある。私は公募にガンガン出しているが、短いものしか出していないし、「なんかコイツいろんな賞とってんな」と思われるかもしれないが、テッペンをとったのは百合文芸とさなコンの2回だけだ(3回目は辞退したからね)。公募自体もけっこう落ちてる(落ちた公募は胸にそっとしまうんだ)。短編賞は、なかなか先がない。作品ばかりが溜まっていく。でも、私は短編が好きなので、もっと短篇系の賞が盛り上がって欲しいんだよね。
 もちろん、若手の先人としては斜線堂さんや柞刈湯葉さんがバリバリ結果を残しているけども、こういう戦い方もあるんだよーというのは今後もお示しできると嬉しいよね。このご時世に頼みにくいけど、買ってね。

最近読んだもの、見たもの

 宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版社)は面白かった。エストニアに生まれ、プログラミングの才能を開花させたラウリを追う、という偽史の体裁だが、ソ連時代という背景や、いわゆる歴史上の有名人ではないが、という立ち位置が本当に自分好みでよかった。そっけないとも思える文体も、この物語によくあっていた。乗代雄介『それは誠』(文藝春秋)も、ようやく読んだけどめちゃんこよかった。「例の居心地の悪い自然な導入ってやつになる前に」という出だしは、『ライ麦畑でつかまえて』の「そういった《デーヴィッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ……」を思い出し、実際、この作品の主人公の誠は、ホールデン少年なんですよね。ただ、仲間にめぐまれた、というところでは、『スタンドバイミー』でもあり、同じ班の女の子の「小川楓」をフルネームで書き続ける誠少年は、くそう、いい人生歩めるよお前、と肩を叩きたくなる。一点気になるとすれば「松」少年の存在だが、これはもうちょい自分も考えを整理したいし、実際に小説で答えを出したい部分でもある。
 『棕櫚shuro10』(マルカフェ文藝社)もようやく読めた。糸川乃衣「飼育」、冬乃くじ「水と話した」などよいものがたくさんあったが、なんといっても吉田棒一「10 to 10 past 10」が白眉だった。オキ、という不良少年が子供をもち、家をもつまでの掌編だが、上滑りしない書き方がよかった。いつもの棒一作品には見えないが、私は根底はけっこう似ていると思う。自分の書きたいことと、文体や調子をきちんと整えて書けることは、まだまだ奥の深い作家だと思った。『文芸ムックあたらよ 創刊号』(EYEDEAR)も面白かった。今回の受賞作であるマルクス・ホセ・アウレリャノ・シノケス「うきうきキノコ帝国」は、題名(変わったみたいですが)とは裏腹に、うきうきしない話なんですが、菌糸類生物の権利云々から広がる物語がよかった。伊藤なむあひ「椿桃、永遠に」は、相変わらず縁起の悪い話ながらも、腸の裏返り、という発想から始まる思索が新しい感じがする。
 ノンフィクション系では、マーク・ソームズ/岸本 寛史訳『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社)がよかった。前に読んだ『タコの心身問題』より難しめなんだけど、より広範な「意識」に関する話が読める。情動に関する分類は興味深い。資料で読んだのだけど、『女性たちで子を産み育てるということ』(白澤社)は勉強になった。本書の中でも言及されているが、サンプルが少ないのはやや気になるものの、日本の現状の女性同士のカップル(レズビアン、とは限らない)の出産についてよく理解できる。「日本のご近所はそもそも関係が希薄なために隣人の性的指向などは気にされない」という言説は確かになあと思いつつ、昨今のトランスジェンダーの反応を見る限り、そういうフェーズからは外れてきた気もする。

私の小さな炎上

 くだんの漫画家の件は非常に痛ましく、考え込んでしまった。
 作品を大切にされない、という点では、某…さぎ賞の件のことがまっさきに思い出された。私は厳密に言うと当事者ど真ん中ではないが、辞退するまでなかなか大変だった。専門家の力を借り、ひとりで対応しなくてよかったと心から思う。
 ご存知ない方はご存知ないと思うが、あれが取りざたされていたころ、Twitterで検索をかけると、ちょこちょこ、悪意ある言いぶりが目についた。不愉快なので片っ端からミュートしていったが、無論、選考委員を擁護するものばかりだったものの、ああいうのがひとつ目につくだけで、心はざわついてしまうものだ。自分の味方の意見が百個二百個あろうが、たったひとつの悪意ある言葉で、人を傷つけるのはじゅうぶんなのだ。
 一方で、今回の件がどうしてここまで心を揺さぶられるのかも考えた。結論は出ていないが、自分の中の加害性のようなものをまざまざと認識させられたからだろうか、と思った。先ほどの…さぎ賞でも、そもそも、自分に賛意を示してくれる言葉でも、少々重荷に感じてしまう瞬間はあった(もちろんありがたいことは前提として)。先日あった創作論云々の炎上の件を眺めていても思ったが、SNSの閾値を超えた反応は、ちょっと非人間的ではなかろうか。人でなし、という意味でなく、人間が対処し得る限界を超えた現象だということだ(そういう意味では自然災害に近い)。芸能人や政治家ならともかく、一般の人がここまで何万という人の耳目をインスタントに集めるようになったのは本当にここ最近で、それに対する防御方法のノウハウがあまりにも確立されていない。人類にTwitterははやすぎたのだろう。私はこの件に関しては、「虐殺機関のラストはなあ」という反応のみだったが、それでも、この「トレンド」に加担してしまった負い目を感じる。同時に、同じ熱量を(私も含め)、ガザや遠くの地震に向けられないのか、ということも思った。これはなかなか答えが出ない。私は小林秀雄が好きなので、落ち着かないときは彼の文章を読むことにしている。

 そういう次第で、文学は飽くまでも平和な仕事だ、将来の平和の為の戦でさえない、仕事そのものが平和な営みなのである。(中略)この簡単な物の道理が、徹底して合点され、本当に心に応えたならば、言葉の力に頼って、実際の物の動きを、どうこうしようという、文学者の曖昧な感傷的な自惚れは消えてなくなるだろう

「文学と自分」(『考えるヒント3』)



 いずれにせよ、権力の勾配の問題は本当に深刻だと思う。大きい組織が正しい対応をせず、あまつさえ放置をすることは、それがもうひとつの加害であることをそろそろわかってほしい。徳島新聞社は改めた様子は特にないが、己が身を食いつぶすのは、そういう自分たちであろう。あと、私の「渦とコリオリ」をまだ有料記事向けにのっけてるが、いつ取り下げるのだろう。訴えるぞ。

***

 以上である。またいろいろ情報が出たら宣伝に参ります。