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妹のこと その1

妹ちびすけは、生後6か月で鼻歌を歌い始め、9か月でしゃべりだしました。さこすけ5歳、ちびすけ2歳ごろでしょうか。お外で私の幼稚園のお友達とよく遊んでいました。当時は、ご近所さんが声をかけてくれたものです。ちびすけは、そんなご近所さんを驚愕させていました。「何して遊んでるの、って声をかけたら、お宅のちびすけちゃん!大きなおねえちゃんたちを押しのけて、そりゃまぁいっぱいお話してくれて!」と、ご近所さんは、わざわざやってきて母に報告してくれます。3歳児の検診では、ちびすけと面談をした保健師さんが「・・・大人としゃべっているみたいです。子供らしいところはありますか?」と真顔で母に聞いてきたそうです。お隣のお父さんは塀の向こうから「おじちゃん!そのシャツよく似合うね!」と黄緑色のポロシャツを3歳のちびすけに褒められて茫然としていました。

そんなちびすけは、病院通いが絶えない大変病弱な子供でした。私は、ちびすけが生まれる前後、伯母のお家に預けられたりして、戻ってきたら赤ちゃんがいて、母は赤ちゃんにかかりきりになってしまって、そのころの写真は笑顔が消えて能面のような顔をしています。母の妊娠中、大きくなった母のおなかを撫でて「太ったね。」と言っていたそうです。惜しいのは、この時母が「おなかの中に赤ちゃんがいるのよ。妹か弟が生まれるよ。」と教えてくれたらよかったのですが、母は「太ったように見えるのか。」と思っただけで済ませてしまったそうなのです。ちびすけが1歳を過ぎてちょこちょこついてくるようになったころ「弟か妹かどっち?」と聞かれて、はっ、ちびすけは私の妹だったのか?!と気が付いたのですよね。この時のことを私ははっきりと覚えていて、後年、母に「何で教えてくれなかったん?」と聞いたところ「小さいので、どうせわからないと思ったのよ。悪かったねぇ。」と言っていました。話はそれますが、母の体形の変化を『太った』と認識しているのは興味深いです。柳澤桂子さんという生命科学者がエッセイの中で、幼いお孫さんが掛け時計も置時計も形が違うのに『時計』と認識できていることを書かれていました。こどもの認知能力って、大人が思うより高いのではないでしょうか。

ちびすけは、病弱で体も小さかったけれど、少しずつ元気になって無事小学校にあがりました。ちびすけが病気ばかりしていたころは「生きていてくれるだけでいい」と思っていた両親ですが、元気になってくると「もしや、天才では?」と期待し始めました。机に座って落ち着いて宿題に取り組む、ということがないちびすけを「学校の勉強が簡単すぎてつまらないのね。」といい、私が大好きだった子どもの伝記全集をはじめとする児童書に見向きもしないちびすけを「ちびすけはね、偉人のことをえらいと思えないのよ。」と解釈。お稽古事はすぐに頭角を現し、でも飽きっぽくてすぐにやめてしまうのを先生が「やめるのはもったいない。」と引き留めてくださったりしました。嫉むというのは、その差があまり大きくないときに生じる気持ちであって、テニスを嗜む普通の人が大坂なおみ選手を嫉まないのと同じく、私も差がありすぎて、妹ちびすけを嫉むというよりも私も両親とともに期待をしていたような気がします。

机に座って勉強をする習慣がないまま中学にあがったちびすけは、さすがに学業不振となりました。「勉強って、どうやったらいいの?」と泣いていましたが、布団からむっくと出てきて、そのままがばっと机に向かうようになり、中学卒業時はオール5でした。高校では、定期試験の成績は悪くないのに模擬試験の成績はズタズタで、特に数学でその差が顕著でした。「どうして?」と聞いてみたところ「定期試験は、試験範囲の問題と解答を見ておけば書ける。模擬試験は範囲がないから無理。」と言います。見ておけば?書ける?!普通の姉には理解不能でした。一浪を経て、ちびすけは大学生になりましたが、この頃やっと「ちびすけは頭はいいけれど、勉強は好きではないのかも。」と家族は気付きました。両親はおとなしいタイプで、ちびすけのことを自慢していたわけではないのですが、親戚に「この度、ちびすけが東京の大学にいくことになりまして・・・」と話すと「まぁ!さすが、ちびすけちゃん!!東京大学、おめでとう!!!」と勘違いされてしまうことが何度もあって「いえいえ、そうじゃなくて東京の〇〇大学です。」と母は苦笑いしていました。

大人になって、アメリカで育った友人にちびすけのことを話したら「ベストフレンドね。」と言ってくれました。そうそう、ベストフレンド!私たちはそんな関係です。

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