ベルナール・スティグレール思想の私的要約
はじめに
フランスの哲学者ベルナール・スティグレール氏が2020年8月5日に亡くなった。享年68歳だった。
スティグレールさんと初めてお話したのは2009年の冬だった。石田英敬さんが主催する東大本郷のシンポジウムの後だった。フォルマント兄弟の三輪眞弘さんと一緒に聞きに行き、『フレディの墓/インターナショナル』のDVDを差し上げた。なぜかといえば、この作品のコンセプトとそのとき一緒に公開したエッセイは、氏の著作『象徴の貧困』から少なからぬ影響を受けていて、そのお礼としてどうしても本人に直接手渡したかったからだ。幸運なことに、その数日後に駒場で行ったフォルマント兄弟の講演+『Neo都々逸』の初演を石田さんと二人で聞きに来てくださったりもした。
そうした縁で、その後氏が来日する度に講演を聞きに出かけ、居酒屋の打ち上げにもご一緒するようになった。フォルマント兄弟の活動の方もMIDIアコーディオンを使った人工音声の演奏へと展開し、ますますテクノロジー╳声╳人間に関する問いは深まるばかりになった。そんな折、何がきっかけだったのか忘れてしまったが、突然「スティグレールさんに現在の兄弟の問いをぶつけて議論したい!」と思い立った。
国際シンポジウムで韓国の高麗大学に来られると聞き、ソウルのホテルまで押しかけて対談をお願いしたのが2015年10月24日。写真はその時の様子。兄弟二人で海を渡り外国語で哲学の議論をするなんて…身の程知らずの暴挙にだんだん不安になって、ずっと兄弟の相談役になってもらっている吉岡洋さんに無理を言って付いて来ていただいた。
当日は、はじめに兄弟が最近の活動と考えていることについてプレゼンし、それを受けてスティグレールさんの感想を聞き、ディスカッションしたいと考えていた。しかしシンポジウム続きで世界中を旅する最中の超お疲れモードのなか、氏の持論はたっぷり聞けて、その思索の深化と博覧強記ぶりにはあらためて驚かされたけれど、本格的なディスカッションまでは至らなかった。「あなたたち兄弟がやっていることは、私の言う器官学であり、ディアボリックな試みだ」…それは分かっているのです、で、その先を議論したかったのだが。それが少々消化不良で、翌年3月に東大で開催された国際シンポジウム「デジタル時代の〈夢〉と〈権力〉」では、兄弟も登壇させてもらって、もう一度問いをぶつけたりもした。
以下のテキストは、ソウルに飛ぶ前に、ぼくが自分で勉強して来たことを整理したものだ。とにかくご本人と対話するわけだから、彼の特殊な用語をちゃんと原語で理解しておかないと…という思いで書いた。誰にむけて書いたものでもないが、強いて言えば、一緒に議論にのぞむ三輪さんに予習として読んでおいてもらおうと思った。そして久しぶりに読み返してみて、スティグレール氏の思想に関心を持つ一般の人びとにも、入門のささやかな糸口になるかも知れないと感じたので公開することにした。
もちろん、あくまでも、当時邦訳で読める著作をもとに、原書と英訳本を拾い読みしながら、ぼくが理解した範囲での要約である。過度な単純化、誤解が多々あるだろう。また、彼は言葉を合成しながら、おびただしい数の独自の用語で論を組み立てて行く。自分の勉強用にまとめた「スティグレール用語の整理」を参照しながら読んでもらうと、多少は理解しやすいかも知れない。
訃報に接するちょうど二ヶ月前、このソウルでの対談を文字おこしして海外の雑誌に寄稿する話があり、三輪さんがメールで掲載の許可と文字校正をお願いした。その返信で、重病のため三週間ほど入院していたことを知り、負担をかけるお願いはできないものと諦めた。そんな矢先の訃報だった。まだまだ議論を続けたかった。知りたいこと、聞きたいことがいっぱいあった。
私が「トビウオ」のメタファーを好んで使うのは、それが一瞬でも海を離れ、自らの環境を見る能力を持っているからです。テクノロジーは、私たちを突然トビウオにしてくれます。そして、いまや透明になったテクノロジーの環境を一歩外から垣間見ることを可能にしてくれます。たとえそれを突破することなどできなくても、あなた方が自分たちにしかできないテクノロジカルな作品を創造し、説明しようと試みるからこそ、それが不可能だと分かるのです。(ソウルでの対談より)
謹んでご冥福をお祈りします。
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2004年頃までのスティグレール思想を要約的に理解する良い手引は、『象徴の貧困』と『偶有からの哲学』でしょう。講演やラジオインタビューという形式で一般向けに書かれているため分かりやすい。翻訳も適切です。一般向けといっても主著『技術と時間』のエッセンスはすべて入っています。特に『偶有からの哲学』は順を追って段階的にスティグレール思想を自身の口で紹介しているし、訳者あとがきの要約も的確で良い本です。
スティグレールがこれらの著作を通じて言わんとしていることは一貫しています。それをひと言で要約すれば…「テレビのおかげでみんなバカになってしまった」ということになるだろうと思います。もちろん「テレビ、みんな、バカ」は、テクノロジー、人間、知に対応するすべて象徴的な言葉ですが。
●「生きづらさ」の問題
「バカ」の問題がアクチュアルなテーマとなったひとつの契機が、極右政党である国民戦線の台頭に対するスティグレールの尋常ならざる危機感です。2002年4月21日の選挙で、臆面なく排外主義と復古主義を掲げるジャック・ル・ペンの国民戦線が躍進を遂げました。スティグレールにとってそれは、フランスの相当数の国民が「生きづらさ」ゆえに、他者と共感し自分のアタマで考えることを放棄している姿にうつります。
すでに哲学における「記憶」の問題を、時間と技術との関係で考えて来たスティグレールは、現代社会の分析・批判と哲学上の問題をつなぐ壮大な理論構成の骨格を仕上げていました(『技術と時間』)。そこにこれらのアクチュアルな危機感を重ね合わせてか書かれたのが『象徴の貧困』のシリーズです。理性による政治的対話という西欧の理想主義が、暴力的に粉砕されつつあるという危機感。美的感覚の共有やヒューマニズムが解体される危機感。人間が方向喪失(dis-orientation)し、難-存在(mal-être)となり、自分を愛せなくなり(本源的ナルシシズムの喪失)、他者も愛せなくなり(リビドーの枯渇)、「私 je」と「われわれ nous」の個体化を衰退させて(シモンドンの個体化論の意味:後述)、文化産業が供給する商品しか共通の記憶がない「みんな on」になり、そしてついには人間の昆虫化(蟻化)へと事態は進んでいるという危機感…これらは現代の日本でも日増しにリアルなものとして感じられます。
スティグレール自身もかつて銀行強盗をはたらいて5年のあいだ投獄される以前は、その「生きづらさ」の中で自暴自棄になっていたと言います。パリ郊外のニュータウン(団地ゾーン)で育った彼は、住民が孤立化し、低所得化し、治安が乱れ、希望を見失って行く様を、そして国民戦線に投票してしまいそうな人々の心情を肌で感じていたそうです。「私はそこから来たのです」と彼は言います。
●ハイパー・インダストリアル時代
いまや個人の「意識」が「市場」と化し、「意識の時間」が産業によってコントロールされ、消費へと誘導される時代です。この社会をスティグレールは「ハイパー・インダストリアル社会」と呼びます。ハイパーモダンとかハイパーセグメント化とか、彼は「ハイパー」が多いです。これはポストインダストリアル社会やポストモダンなどの「ポスト」が示唆する「…が完遂した後の」という認識に対抗しているのでしょう。彼は、モダンはまだ完遂していない、それどころかより全面化、先鋭化していると考えています。
ハイパー・インダストリアル社会は、「計算が生産の分野を超えて拡大し、それに相関して産業の領域が拡大することによって特徴づけられる社会」であり、リフキンの文化資本主義、ドゥルーズのコントロール社会と近い概念です(貧困p121)。この現状認識のうえでスティグレールは、いかにして「産業」が個人の意識・経験・記憶・思考をハックしてコントロールできるのか? そのメカニズムを問います。もちろん、それによって反転の契機をうかがうために。
ここに「技術」の問題が浮上します。そもそも人間の知、哲学の知を支える意識・経験・記憶・思考、とりわけすべての前提になる「記憶」は、技術との関わりなしには成立し得ないものです。スティグレールの探求はおおむね二つの側面で行われます。
(1) 記憶をめぐる人類学的な技術性への問い →エピフィロジュネーズの仮説
(2) 哲学における記憶の問題 →哲学は、自らの知の前提となる意識、知覚、記憶、思考をどのように理論化して来たのか、そしてプラトン以来の形而上学はいかに技術の問題を排除(黙殺)して来たのかについての問い
●「記憶」をめぐる人類学的な技術性への問い
「記憶の技術を通じて人間が作られる」(偶有78)とするスティグレールの議論は、古生人類学者アンドレ・ルロワ=グーランの『身振りと言語』等の議論に大いに依拠しています。
ルロワ=グーランは、古生人類の化石や石器の検討を通じて、技術を生物学的進化の延長線上に置く理論を展開しました。アウストラロピテクス(ジンジャントロプス)からネアンデルタール人に至る期間に、ヒトの祖先は二足歩行と手の解放によって大脳皮質を急速に発達させます。しかしそれ以降、現生人類まで、大脳皮質の容量はほとんど変化していない。にもかかわらず技術は極度に発達しました。ここから彼は「技術的進化はもはや生物学的進化に依存していない」と考えるようになります(偶有62)。
つまり、石器はいわば外骨格の分泌物であり、いまから200万年前に起った「外在化」以降、人類は肉体の外で、生命以外の手段で進化を継続する戦略に切り替えたのです。
それまでは遺伝子ゲノムが種の記憶を伝達して来ました。しかし、人類では「道具と言語」という外在化された記憶がそれに代わります。しかもダーウィンの進化論では認められない獲得形質の遺伝、つまり個体が生まれてから後に(後成的に)獲得した記憶を、世代をまたいで伝達・蓄積できるようになったのです。爆発的な技術の進歩は、すべてこの「外在化 extériorisation」から起こります。
●エピフィロジュネーズ
こうしたルロワ=グーランの理論を受けて、スティグレールは記憶を3つの層に整理します。
① 遺伝的記憶 mémoire génétique ── ゲノムによって伝達される種の記憶
② 後成的記憶 mémoire épigénétique ──学習により個体の中枢神経システムに保存される経験の記憶。体細胞の記憶(子には遺伝しない)
③ 後成的系統発生の記憶 mémoire épiphylogénétique ──動物には見られない「第三の記憶」。「技術的な人工物によって後生的な記憶が世代を超えて系統的に伝えられて行くこと」(偶有64)。「言語能力、技術、象徴、道具を含む」(偶有73)。「外在化のプロセスはまた、私が記憶の第三の層と呼ぶものが構成されるプロセスであります」(偶有63)。
この「後成的系統発生 épiphylogenèse」はややこしい造語ですが、頻繁に出て来る最重要のキー概念なので、覚える意味で、以下ではエピフィロジュネーズと表記します。
広義のエピフィロジュネーズは、言語と技術全体を指します。粗野な打製石器であってもモノの中にはそれを使っていた人々の動作が保存され、運動機能を記録しています。そのことを通じて当時の人間の行動、結果的に精神を記録する媒体となるのです。だから部族が絶えても道具が残っていれば記憶は継承され、現代の考古学者はそれ読み解いて文明を再構築することができます(偶有79)
膨大な人工物や言語活動の堆積からなるエピフィロジュネーズの層は、馴染みの言葉で言えば「文化」です。それは自分が生きなかった過去の記憶すべてでもあります。建造物や都市空間、学問や芸術、風俗や習慣、道具や機械、おびただしい人工物に染み込んだ過去の記憶です。
●記憶技術:ムネモテクニック
このエピフィロジュネーズの層のなかに、われわれが普通に「記憶」と呼ぶものに直結した「記憶するための技術」がサブシステムとして生まれ、スティグレールはそれを「記憶技術:ムネモテクニック mnemo-technics 」と呼びます。ここには洞窟壁画やチュリンガ、刺青、象形文字なども含まれますが、とりわけ決定的に重要だったのがアルファベット表音文字です。彼が「狭義のムネモテクニック」という時、それは第一にアルファベット文字を指します。以降、ムネモテクニックは技術一般の進化とは比較的独立した形で数千年間、西洋文明を花開かせ進展させます。
それが19世紀以降になって突然変異を起こし、革命的な記憶技術が誕生します。写真、蓄音機から映画、ラジオ、テレビ、現代のデジタル・メディア…へと続くアナログ/デジタルのムネモテクニックです。とりわけ蓄音機が好んで取りあげられます。なぜ革命的なのか?と言えば、機械が記憶(記録)を行い、そこを糸口に、産業の手が人間の記憶(そして意識と知の全体)に入り込むからです。後に再び解説しますが、これを契機に、ムネモテクニック、技術一般、科学、産業(資本主義)が結びつき、人類のエピフィロジュネーズの層=文化が大きく変質し、それによって意識が市場となりハイパー・インダストリアル社会が現出するようになった、というのがスティグレールの現代社会分析の骨子なのです。
※ ちなみに、スティグレールはマクルーハンのように活版印刷術を特権的な技術だと過大評価はしません。「この機械的複製技術は、文字による綜合の効果を増幅させるのみで、それ自体が新たな綜合形式だというわけではない(偶有96)」
●起源の欠如(根源的欠陥)
さて、スティグレールは、このような「記憶」をめぐる人類学的な技術性の議論を、そのまま哲学の問題へと移行させます。哲学にとって「記憶」はその理性的思考の土台でもあります。ヨーロッパの哲学者は、やはり西洋哲学史全体を射程に含み、ギリシア神話と古代ギリシア哲学から始め、カントを経由して現代哲学へと至りハイデガーと対決しなければならないのですね。
技術の始源をめぐるギリシア神話は、エピメテウスの過失とプロメテウスの犯罪というエピソードを通じて人間存在の根源的な技術性(補綴性)を語ります。エピメテウスの過失は『技術と時間』第1巻の副題 "La faute d’Epiméthée" でもあります。
エピメテウスとはギリシア語で epi(後の)+ metheus (知恵)という意味であり、行動し失敗した後で考え後悔する者の意です。兄プロメテウスが「先の知恵」すなわち「先見の明を持つ、行動する前に熟慮する」という意味であるのと対比的な名です。神話のエピソードでは、ゼウスがプロメテウスとその双子の弟エピメテウスに動物と人間を生み出せと命じ、デュナメイスという力(潜在的な生命の力)を与えます。エピメテウスはこれを行いますが、うっかり人間にだけデュナメイスを分配するのを忘れてしまう(この忘却に記憶の問題がからんでいます)。これを打ち明けられた兄プロメテウスは仕方なく穴埋めにオリュンポスから火=技術(テクネー)を盗み人間に与えます。こうして誕生した人間は、技術という補綴 prothèse(義手や義足などの人工器官)なしでは生きられない存在となったのです。スティグレールはこれを人間の「起源の欠如(根源的欠陥)défaut d'origine」とも言います。根源的欠陥と根源的技術性(補綴性)は人間の本質に他なりません。同時に、遅れや先取りといった人間と技術をめぐる時間性の問題もここに含まれていると見ます。
●技術を排除した西洋哲学の出発点
しかしながら、この根源的な技術性を西洋哲学は徹底的に無視、排除、黙殺して来ました。この態度はプラトンから始まります。プラトンの時代、ソフィストたちは言語実践のノウハウを支配手段として用い、都市の精神をコントロールして権力を振るうようになります。アテナイは武器の代わりに言論で統治することを選んだ都市国家であり、言葉たくみに共同体の価値をもてあそぶソフィストたちは放置できない危険な存在でした。彼らが人心を惑わすのは、主張の論理ではなく弁論術という技術でしかない。プラトンはこうしたソフィストの詭弁術と、技術一般、芸術、詩、音楽とを同一視し、すべて同じ身振りで断罪します(偶有33-37)
プラトンが『メノン』において描くソクラテスは、なぜ対話により真実に到達するのかについて、前世の魂の「記憶」が現世の肉体の牢獄に転落して忘れ去られた、それを対話によって思い出すのだと言いました。この知の起源としての想起(アナムネーシス)こそがプラトン哲学──西洋形而上学の出発点です。つまりこの世の物質や肉体、経験や感覚を超えたところに真理があり、それを思索によって認識しようとする知の営みこそが哲学だというわけです。それゆえプラトンは「技術的・人工的な記憶」、つまり文字で書いて記憶すること(ヒュポムネーシス)を危険視します。このプラトンの「技術嫌い」「身体・物質嫌い」「精神好き」「理念好き」が、後々まで、少なくともカントまで西洋哲学史の主要な特徴となります。
しかしスティグレールは、そもそも古代ギリシアの都市国家はアルファベットの書記体系があったおかげで誕生したと考えます。哲学の知的活動が開始されるためには、それは意識の時間のなかで現れては消えて行く言説を文字で書き留め、それを反復することで推論を積み上げることなしには成立しません。つまり、プラトンが否定するヒュポムネーシス(人工的記憶)はアナムネーシス(魂の想起)の先行条件なのです。『メノン』で登場する奴隷少年(砂地に棒切れで図を書いて幾何学の証明をやってのける)のアナムネーシスの例で、プラトンは砂や棒切れ(ヒュポムネーシス)を使って外在化する先行条件を完全に見落としているのだとスティグレールは批判します。
(これは形而上学の伝統における音声中心主義=エクリチュールの抑圧へのデリダの批判と同じ身振りだと思います)
●オルトテーズ
ここで、アルファベット文字で書くことの重要性について触れます。あらゆる記憶技術(ムネモテクニック)の中でスティグレールが特にこれを重視するのは、それが「オルトテティックなムネモテクニック」だからです…ややこしい。スティグレールは、正書法=オルトグラフィック ortho-graphique(語の正しい綴り方)という言葉を拡大解釈して、オルト(正確な)+テーゼ(措定)=オルトテーズ orthothèse という造語を作ります。
オルトテーズの意味は「過去を正確に記録する技術」です。絵文字と異なりアルファベットは、発話(声)を離散的な記号に置き換え記録します。書かれたものを読むとき、読み手は、その記号から音素の連続としての発話(声)を再構成します。プラトンの書物を読むというのは、2000年以上前にプラトンがアタマの中で発話した声(思考)を、プラトンの意識の時間の流れのままに、いま自分のアタマのなかで再生するようなものだと、スティグレールは見ています。われわれのアタマのなかでプラトンが当時のまま喋っているわけです。亡霊の声のように「私」に取り憑いて。もちろん「声」といってもプラトン自身の肉声ではありませんが。
オルトテーズとしてのアルファベットは「思索において生起したこと──に、ほぼ正確な仕方で、再びアクセスする可能性をもたらす」「プラトンの思考と無媒介的な関係を結ぶこと。プラトンの思考の要素そのものの内に身を置くこと」(偶有82、85)を可能にしたという意味で特別なムネモテクニックなのです。
※なぜスティグレールがオルトテーズというややこしい造語を使うのかまだ判然としません。オーソドックスなどの関連語を思い浮かべれば、オルト ortho-という言葉の響きのなかに、ヨーロッパ言語では「正確さ」以上のニュアンスが含まれているのではないか、オリジナルで正統だと信じられるものへのアクセスといった含意を含むのではないかとも推察されます。
書かれたものは、空間や時間をこえて反復して読まれます。読み手が変われば解釈が変わりますし、同じ人間でも時間をおいて読み返すたびに解釈が変わります。反復が差異を生み出す。ひとつのテクストは無限の解釈に開かれている(逆にこれをプラトンは恐れました)。これは書かれたものの「ディアクロニック」(隔-時的)な性質です(シンクロニック、ディアクロニックは後述)。
同時に、「読む」ためには自分で「書く」ことができなければなりません。潜在的な読み手/書き手の交換可能性が、ギリシアから19世紀までの共同体における超越論的な「われわれ」を形成する条件なのです。(「私」と「われわれ」のダナミックな関係についてはシモンドンの理論が下敷きになっており、後で詳しく書きます)
したがって、この記憶技術の「次」に来る新しい技術として、スティグレールが19世紀の「蓄音機」を強調するのは自然なことでしょう。蓄音機はまさに肉声そのものを時間ごと記録してしまう。しかも機械がそれをやってのける。ここでは読み手/書き手の交替は必要ない……というか不可能です。
「写真や蓄音機、映画、テープレコーダ等の場合、コード化と解読を行うのは機械です。そしてまさにこの点が産業化を可能にします。産業は生産者と消費者の分離を前提としますが──オーディオビジュアル・イメージを受け取ることは、自分でイメージを生産する能力が一切なくても全く可能なのです」(偶有118)
●意識の時間の流れと「時間対象」
言語と技術的なものの外在化によって形成される第三の記憶=エピフィロジュネーズの層の中に、われわれは生まれます。つまり文化のなかに産み落とされる。そしてそれを内在化することで「私」が形成される。別に難しいことを言っているわけではありません。しかし、スティグレールは、外在化されたエピフィロジュネーズの層がどのようなメカニズムで「個人の意識」に影響を与えるのかを、もっと精緻に理論化しようとします。ここで登場するのがフッサールの現象学です。終始一貫して「記憶」の問題をテコに「知」について考えているスティグレールは、エトムント・フッサールの「時間対象 temporal object」の議論を援用します。
フッサールが「時間対象」を説明するときに使う例がメロディです。われわれがメロディを知覚するとき、瞬間瞬間の〈いま〉に聞こえている音だけでなく、直前に聞こえた音、そのまた直前に聞こえた音との関係で、メロディを認識しています。つまり、〈いま〉は点ではなく、たったいま過ぎ去ったばかりの過去を含んだ厚みのある「流れ」なのです。この〈いま〉の知覚に含まれる過去の保存をフッサールは「第一次過去把持 primary retention」と呼びます。一方、昨晩のコンサートで聞いたメロディを思い出すという場合、それは「第二次過去把持 secondary retention」と呼ばれます。これは想像力という能力によって過去に保存された記憶を想起(呼び出し)しているわけで、「第一次過去把持」とはハッキリと区別されます。
フッサールにとって時間対象が重要なのは、それが人間の意識の時間の流れとピッタリ相似している(シンクロしている)と思われるからです。
「時間対象はメロディのように、流れ、消え去るという構造によって構成されているという特徴を持ち、この特徴が、私の意識の流れと完全に相似しています」(偶有99)
「そうした対象の流れは、私がその流れを意識する時、私の意識自体の流れと全面的に、あるいはフッサールの言葉で言えば「厳密に一点ずつ」対応しています」(偶有100)
したがって、時間対象を研究してその内部構造を知れば「意識自体の内部構造についても分かる」とフッサールは考えます。
ここはとても重要です。なぜなら、「時間対象」がオーディオビジュアル技術によってエピフィロジュネーズの層に外在化され、商品として消費される現代において、いかにそれが人間の「意識の時間の流れ」を占拠してしまうのか(冒頭に書いたバカの問題)を考える足場になるからです。時間対象の時間の流れと意識の時間の流れはぴったりシンクロするのです。
●第三次過去把持
スティグレールは、フッサールが第一次、第二次過去把持を互いに無関係なものだとして完全に切り分けて考えていることを批判します。同じメロディであっても、それを初めて聞く時と二回目に聞く時とでは、体験は異なります。つまり第一次過去把持(知覚)は第二次過去把持(記憶)によって条件付けられている。しかも蓄音機の登場により、同じメロディを本当に何度も反復して再生することが現実になりました。ここで経験することは、繰り返すたびごとに体験が違うという事実です。「反復が差異を生む」という事態を想像ではなく現実に体験している時代なのです。
ここでスティグレールは「第三次過去把持 tertiary retention」という新しい概念をつけくわえます。これは社会集団のなかに技術的人工物として外在化された第三の記憶=エピフィロジュネーズ的記憶と対応します。そして、人間の第二次過去把持(個人の記憶)は第三次過去把持によって条件付けられていると主張します。第三次が第二次を条件づけ、第二次が第一次を条件付ける関係です。非常に単純に言えば、ぼくたちは生まれてこのかた、テレビなどを通じて「時間対象」を浴びて生きて来た、ぼくたちの個人的な記憶はまさしくそうやって集団的に形成されて来た、それがぼくたちの現在の知覚と意識の流れを条件づけている、ということでしょう。
「20世紀の音楽における最大の出来事は、膨大な数の耳が突然音楽を聞くようになったということ、それもひっきりなしに、しょっちゅう同じ流行歌を聞くようになったことだと思うのです」(貧困63)
「アナログ録音(録画)が歌謡曲と映画を両方可能にしました。これらは文化産業(アドルノの意味)が生み出した最初の商品でもあります」(貧困64)
特に気に留めない流行歌であっても、それを何度も聞かされているうちに、いつの間にか口ずさんでしまう…そうした懐メロや番組やCMに代表されるような産業化された時間対象の共通体験が、第三次過去把持の一部となって、スティグレールが「みんな on」と呼ぶ社会集団を形成します。ラジオ番組にしろ、テレビ番組にしろ、CMにしろ、流行歌にしろ、産業化された時間対象は、強烈なシンクロニゼーションの力でそれを受け取る「みんな」の意識の時間をコントロールします。
歌謡曲、映画、テレビ番組、CMなどオーディオビジュアルな時間対象は、
「意識と同じように流れ、テレビやラジオによる拡張を通じて、また大量生産されるそのインダストリアルな時間性によって、意識の時間性を──つまりは意識全体を変えてしまいます」(貧困65)
さらに映画に典型的なように、オーディオビジュアルな時間対象は、編集によって多様な意味を生成させます。これは「みんな」の意識が編集可能であり、モンタージュやサブリミナルによって誘導可能であることを意味しています。
スティグレールがあちこちで取り上げるアラン・レネ監督の映画『みんなその歌を知っている ON CONNAIT LA CHANSON 』(1997)は、登場人物たちそれぞれの「生きづらさ」を描写したうえで、みんな(観客を含め)が知っている懐かしの流行歌が束の間の心の安心を与えてくれる印象的な場面によって展開して行きます。しかしその喜びは長くは続きません。なぜなら、ひとときの喜びは、歌謡曲やテレビCMくらいしか「みんな」をつなぐ紐帯がないことの裏返しであり、けっきょく登場人物たちの「生きづらさ」は続いて行くことになるからです。
●心的・集団的個体化
スティグレールの用語では「みんな on」と「われわれ nous」とはハッキリと区別されます。スティグレールは、ジルベール・ジモンドンの「個体化」の理論をたよりに、「私 je」と「われわれ nous」と「技術」の動的な関係性を自らの理論の支柱に据えています。「みんな」とは、この個体化が「衰退」することによって出現した「われわれ」からの逸脱、機能不全に陥った姿だと認識されます。このシモンドンの個体化理論およびスティグレールの拡張は非常に難しく、最大の難所です。ちゃんと理解できているかどうか怪しいです。
まず、シモンドンの「心的・集団的個体化 individuation psychique et collectif」の入門的な解釈から入りましょう。
私は、集団(われわれ)の歴史を、外在化された記憶を通じて継承することで「私」になることができるが(=心的個体化)、このプロセスを通じて集団自体も「われわれ」として構成される(=集団的個体化)。
シモンドンの「個体化 individuation」とは、「ひとつになろうとすること」=「これ以上分割できなくなること」=「不-可分になること in-dividuation」という終わりのないプロセスです(現勢化16-26)。
まず「心的個体化」について考えてみます。シモンドンもスティグレールも「自我」とか「自己アイデンティティ」といった心理学的な用語は使わない(明らかに避けている)のですが、あえてこれを自我の問題として扱ってみると、「ひとつになろうとすること」「不-可分になること」は、ぼくたちが個人として自己アイデンティティの確立を目指して日々生きる営みだと言っても大きな間違いではありません。つまり幼児期や思春期だけでなく人生を通じて「私」になろうとする終わりのないプロセスです。
それは必然的に、「特異性(唯一性)」へと向かう運動です。スティグレールは「特異性(唯一性)singularity」と「特殊性 particularity」を区別します。今日さかんに叫ばれる「個性的な生き方」というのは、細分化されたメニューとして、商品化された多様なライフスタイルとして、産業が押し付けて来る「特殊性」(有限の多様性のなかのひとつ)であり、画一性のバリエーションであり、選択肢のなかから選ばれるようなものです。いっぽう「特異性(唯一性)」とは、他と比較不可能な唯一無二の「私」です。こうした心的個体化は、時間をかけて「私」を特異化するディアクロニック(隔-時的)なプロセス(ディアクロニゼーション)だとスティグレールは言います(この意味はソシュール言語学における通時的なものより幅広いです。次にシンクロニックという言葉との関連で説明します)
しかし、個人として自己アイデンティティを確立するためには、生れ落ちた社会の過去の記憶(自分が生きなかった記憶)を自分のものとして内在化するプロセスが不可欠です。言葉を覚え、文化的なものに取り囲まれ、社会化されて行く。それは「私 je」が継承する「われわれ nous」の記憶です(亡霊のように私に取り憑くともスティグレールは言います)。すでに見たようにスティグレールは技術的人工物として外在化されたエピフィロジュネーズの層、第三の記憶、第三次過去把持を「われわれ」の記憶だと見なします。そして、スティグレールは、ジャック・ラカンの鏡像段階理論を引き合いに出し、次のように言います。
「人間の第一の条件はナルシシズムと、ラカンが語るあの「鏡像段階」ですが、私の見方では、人間はまさに第三次過去把持の内に自らの姿を映し出しているのです」(偶有156)
ラカンの鏡像段階理論は、乳児期の寸断された身体(各器官がバラバラに感覚している状態)が、鏡に映した自己像を媒介にひとつの自己イメージのもとに統一されるということです。この理論は、早く産まれ過ぎるのに眼だけは異常に早く発達するという人間の生物的な特徴と、自我の拠り所がイメージでしかなく、しかもそれが技術によって媒介されていることを言い当てた理論だとぼくは考えています。スティグレールにとって、まさにこの鏡に当たるものが第三次過去把持としての外在化された記憶だというわけです。ここから、第三次過去把持の変化(例えば産業化)によって「本源的ナルシシズム」や「リビドー」が壊滅的な影響を受けるという、スティグレールの「象徴の貧困 misère symbolique」議論が展開されるわけです。
さて一方、社会集団の個体化もまた「ひとつになろうとすること」「不-可分になること」です。構成要素である個々人を同調させ、同期させ、凝集させ、「われわれ nous」を形成・強化することが目指されます。社会的紐帯を強くするこの「集団的個体化」の方向性は「シンクロニック(共-時的)」です。この過程で強い役割を果たすのが「象徴(シンボル symbole)」に他なりません。スティグレールはシンボルを「昇華されたリビドー」だと考えています。性的リビドーが姿を変えて、個人の知的・感性的営みを通じて外在化されて、社会集団に共通されたものがシンボルあるいはシンボリックなものです。同時に、シンボルは共有されることで(内在化を重ねることで)つねに差異化され再活性化されます。なぜなら、個人への内在化にはかならず特異化の力が働くからです。この傾向をスティグレールは「ディアボリック diabolique」と呼びます。それゆえシンボルが画一化へ向かおうとしても、構造的にもう一方で「ディアボル diabole」へと向かう傾向にもまれることになります。
つまり、「われわれ」の個体化/「私」の個体化、シンクロニゼーション/ディアクロニゼーション、シンボル/ディアボルは、安定/不安定、均衡/不均衡という正反対の傾向なのですが、両者ががっぷり組み合う(共-立する com-poser)ことで、心的・集団的個体化は進んで行くのです。
「私」と「われわれ」は、同じプロセスの両面であり、それらの隔たりがプロセスの原動力でもある(貧困116)
まさに、心的・集団的個体化は、システム論的な概念──システムの動的プロセス論だということが分かります。
●技術的個体化
シモンドンの個体化理論の全体像が、以上のようなものであれば、それはひとつの社会システム論ということになるでしょう。しかし、話が「技術的個体化」に進むとそう簡単ではなくなります。重要なポイントは、そもそもこうした個体化の考え方をシモンドンが練り上げたのは「技術的なもの」をめぐってのことだったという点です。つまり、技術システムの動的プロセスが、自我や社会にも適用されていったのが、これまで説明した心的・集団的個体化の議論なのです。
やはり、技術的個体化も「ひとつになろうとすること」「不-可分になること」という動的プロセスです。ここで、そももそも「個体 individu」ではなく「個体化 individuation」と言っている点に注目します。シモンドンの「個体化」は、すでにできあがったように見える「個体」から始めるのではなく「個体になろうとする傾向」という動的なプロセスとして万事を理解するということです。これはアリストテレス以来の「形相」と「質料」の考え方を根本的に乗り越える思考として、まずはドゥルーズに評価されました。ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』にも、ドゥルーズの『差違と反復』など多数の書物にもシモンドンの名と個体化の考え方は出て来ます。スティグレールはドゥルーズ経由でシモンドンを自らの哲学の支柱に据えたと言って良いでしょう。
私たちが具体的なモノについて考えるとき、それはすでに「個体」として現象しています。例えば、レンガについて考えるのであれば、一個のレンガ、名前が付けられ他のものとは区別された物質から思考はスタートします。アリストテレスは、レンガなるものが存在すると言うとき、形相(eidos:あるべき姿、形)と、質量(hyle:物質、素材)が一体化したものだと考えました。形相=鋳型、質量=マテリアルと喩えられることもあります。しかし、シモンドンは技術的な対象の存在様態を理解しようとするならば、目に見え手に取れる一個の個体ではなく「個体になろうとする動的な傾向」として理解すべきだと主張するのです。それはまさに技術というのもが「進歩する運動性」をそれ自体の内に備えたプロセスだから、ということなのでしょう。
その運動性とは何か?『技術的対象の存在様態』においてシモンドンは、水力発電所のタービンや真空管(2極→3極→4極)の進歩を例に、単機能の複数の機械が組み合わさった状態から、それぞれの要素が多機能化して、ひとつの機械へと凝集して行くプロセスを描きます。この本は読めていないのでよく分からないのですが、恐らくは、自動車のガソリン・エンジンであれば、給油、発火、燃焼、ピストン機構、冷却などの諸機能が、最初はバラバラの装置の集合だったのが、ピストン駆動が発火のトリガーや給油の機能も果たすように、各要素が同時に複数の機能をこなし、無駄なく凝集して不可分に一体化して行くようなイメージかと思われます。これをシモンドンは技術的対象の「具体化」と呼び、抽象的な状態から具体的状態へと移行する傾向、準安定状態から安定状態へ移行する傾向が、技術の個体化だと言います。
面白いのは、このプロセスを進行させるのは技術自体の論理であって、機械自身がそのつど自らの新たな環境を見定め、それとの不均衡を解消しようと課題とイノベーションの方向性を人間に示し、人間を舞台に個体化のプロセスを進めて行くと考える点です。技術から見れば人間は自己が個体化を進めるための環境、舞台のようなものなのです(もちろん人間から見れば技術は第三次過去把持として心的・集団的個体化の環境なのですが)。SFみたいですがシモンドンは真面目にそう考えています。さらには、かつて技術的個体は道具を扱う人間であったが、いまや機械が道具を扱う技術的個体となり、人間はその管理者の位置へと疎外されているとマルクスの資本論を再解釈します。なぜなら産業革命以降は、労働者の所作を形式化、記号化、離散化して機械がそれを担うようになったからです。(スティグレールはもっと深刻で、現代人は「消費者」として「ユーザー」として生きることを強いられ、テクノロジーの下僕に成り下がっていると考えます)
しかし、こうした技術的対象の個体化が、「私」「われわれ」をめぐる心的・集団的個体化と何の関係があるのか?ここで再び人類誕生の根源的な欠失に戻らなければなりません。「起源の欠如(根源的欠陥)」としての人間は、技術という補綴 (人工器官)なしでは生きられない存在です。そして技術は社会集団のなかに外在化され継承されます。したがって、人間を考えることとは、「個人と集団と技術」を同時に考えるということに他なりません。スティグレールはシモンドンの心的・集団的個体化の理論に暗示されている技術的個体化をはっきりと明示し、「心的・集団的・技術的個体化」として提示します。
個体化は二重ではなく、心的・集団的そして技術的という三重の構造です。どれかひとつを単独で考えることはできず、三つの個体化は三つ巴のトランスダクション的な関係にあるのです(貧困163)
「トランスダクション(横断伝導)」とは、どちらか一方が欠けても、先行(後続)しても成立しない二項関係だそうです。よく分かりません。ただ恐らく言えるのは、シモンドン+スティグレールの個体化理論は、個人+集団+技術を動的なプロセスとみなすシステム論であり、その運動の原理を示すものだろう、ということです。ヘーゲルが歴史の運動の原理として弁証法を語ったように、デリダが同一性の運動原理として差延 différ[a]nceを語ったように、それくらい原理的なレベルの話だろうということ……間違っているかも知れません。
●産業、技術、科学、テクノロジー
シモンドンは技術自体の内的論理について語りました。それは技術を道具として使おうと意図する人間の論理とは離れて、自律的に個体化の道を進もうとします。ルロワ=グーランも「技術傾向」という言葉で、技術の自律的な進歩の方向性を示唆しました(ただし、あくまでも生物の適応という進化論の大前提を踏み外しませんが)。実は、スティグレールがこれらをどう考えているのか、ぼくにはまだ理解できていません。『技術と時間』の第1巻は、まさにこの分析に当てられているのですが、何度読んでもハッキリしません。つまり、現代のテクノロジー状況を考えるときに、それが技術の論理の徹底化なのか、あるいは何らかの技術〈外〉的な力によって技術のあるべき姿がどこかで歪んだのか?
「構造として固有の力学を備え、一つのシステムを形成している」(偶有74)とか、「有機構成された無機の存在者 inorganic organized beings」(技術と時間 Ⅰ)などと、技術システムの自律性を明言しつつも、スティグレールはこのように言います。
技術が産業を通じて科学に接近する(文字通りのテクノロジーの出現)(偶有18)
産業の要請により科学は技術と結びつき、科学の意味は深く変わるのです。(偶有160)
人類学的な技術性がテクノロジーへと姿を変えるのは、すべては「産業」(資本主義)が原因だと言わんばかりです。私、われわれ、技術の三つ巴の動的プロセスに対して、産業がどのようなシステム論的な位置を占めるのか、よく分からないのです。ぜひともご本人に聞きたいと思っています。(これに対してサコンダは人類学的技術性と区別される「機械」が技術をテクノロジーへと、諸学問を科学へと、産業を資本主義へと「機械化」したのだという仮説を持っています)
●再び、ハイパー・インダストリアル社会
「私」と「われわれ」の心的・集団的個体化の共通の条件になるのが、エピフィロジュネーズの層、技術によって外在化された第三の記憶、第三次過去把持に他なりません。歴史的建造物や紋章や旗や数々の人工物はシンボリックなものです。とりわけ、オルトテティックなムネモテクニックによって多様なシンボルを生産し続けて行くことは「われわれ」のシンクロニゼーションにとって極めて重要な条件となります。一方、エピフィロジュネーズの層は、ラカンの鏡像段階理論における鏡に他なりません。これが本源的ナルシシズム、自己愛の土台を提供します。「私」の個体化はつねに誰とも異なった特異化(唯一化)へとディアクロニックに進みます。
しかし、エピフィロジュネーズの層がまさに外在化された人工物であるゆえに、これが産業に利用されるのです。ハイデガーやシモンドンが思考した技術は、重厚長大な重化学工業テクノロジーでした。しかし現代は透明で意識や感覚に作用する時間テクノロジーの時代です。産業がテクノロジーを利用して、第三次過去把持を変化させ、オーディオ・ビジュアルな時間商品(例えばテレビ番組やCM、ポピュラー音楽、娯楽映画、ゲーム、インタラクティブ・エンターテイメント等)を通じて、またそれらを経験可能にするさまざまな設備やデバイス機器を通じて、人間の意識そのものがグローバルな市場になり、消費へと煽り立てられる……という状況が全面化しているのが、ハイパー・インダストリアル社会です。
産業化された時間対象が持つ強烈なシンクロニゼーションの力は、膨大な数の意識の時間を占拠し同期させます。ここでは「私」による批判的受容(本を読むときのようなディアクロニックな取り入れ=反復のたびに無限の差異に開かれた特異化)は衰退し、画一性が支配的になります。もちろん、現代は多くの国民がテレビにかじりつく時代ではありません。インターネットは個性化=特殊化を促進します。しかしだからといってこれはディアクロニゼーションを高めるものではない。
新たな資本主義にとって肝要なのは、個人の生存におけるすべての瞬間(余暇、教育、老後など)を取り扱うことであり──その目的はライフタイム・バリュー(リフキン)をはじき出し、あらゆる行動をオプションとして標準化し、(物理的消費材やサービスをはるかに超えて)規模の経済を実現することなのです。(偶有133)
シンボル/ディアボル、シンクロニゼーション/ディアクロニゼーションの組み-合い com-poser は、市場の論理で解-体 de-composer されます。リビドーは消費で枯渇し、エロティシズムの条件であるナルシシズムを抹消し、象徴は備給されず解体され、「私」と「われわれ」の個体化は衰退します。つまり、特異性(唯一性)を求めるディアクロニゼーションが機能不全に陥り、シンクロニゼーションが全面化するわけです(これをスティグレールはハイパー・シンクロニゼーションと呼びます)。そして、シンボルはディアボルへと転化し、その「悪魔的 diabolique」な側面のみが前面化することになる。そうしたすべてが現に進行している事態であり、時代の「生きづらさ」となっているのです。「象徴の貧困」とはこういう事態を指しています。
「外在化」は果てしなく続いているということです。ハイパー・インダストリアル社会では、前個体的環境が変化することにより、運動的・象徴的・心理的機能が補綴物の方に外在化され、それによって生体がどんどん締め付けらている。(貧困172)
象徴的なものの解体が、シンクロニックなものとディアクロニックなものとの分-立(de-composer)に至ると、象徴はディアボルへと反転し、そのことが文字通り悪魔的な状況を招くのです(偶有152)
このままでは次のような終末が訪れるだろうとスティグレールは警鐘を鳴らします。
意識と身体の無制限で無批判の開発利用(搾取)が資本にとっていわば自殺的な側面を持っていることを示さねばならないのです。この搾取は総崩れを招来し、ナルシシズムも欲望も破壊することで、結局は市場そのものを滅ぼすでしょう(偶有169)
この先に訪れるのは、ハイパー・インダストリアルなテクノロジーに機能統合された「昆虫(蟻)」のような人間の姿です。個々人はシステムにとっての交換可能な機能として生きるだけで、もう個体化へと向かう「われわれ」も「私」も存在しません。
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出典記号(続く数字は邦訳書のページ数)
貧困 ── 『象徴の貧困〈1〉ハイパー・インダストリアル時代』
偶有 ── 『偶有からの哲学 ─ 技術と記憶と意識の話』
現勢化 ── 『現勢化―哲学という使命』
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