城塚翡翠の転倒


 ※このお話は『medium 霊媒探偵城塚翡翠』の真相に触れています。未読の方はご注意ください。



 千和崎真は眠れない夜を過ごしていた。
 確かに、普段とは違うベッドではあったけれど、どのような場所であってもすぐ寝入ることができるのが、自分の長所の一つだ。以前、その長所を雇い主に語ったら、「繊細さと無縁なところが、とても真ちゃんらしいですね。素晴らしいと思いますよ」と笑顔で告げられてしまった。もちろん、嫌味であることはわかったので、手頃な雑誌を丸めて小気味良い音を立ててやったのは言うまでもない。
 暗闇の中、毛布の下で寝返りを打って、雇い主が眠る隣の寝台へと眼を向けた。闇に慣れた視界であっても、ぼんやりとしたシルエットしか見えない。静かな寝息を立てて、城塚翡翠は眠っているようであった。相変わらず寝相が悪いようで、かけた布団がはだけてしまっているようだ。はたして、繊細さと無縁なのはどちらの方だろうかと、文句の一つも言いたくなる。それを証明するために写真でも撮ってやろうか。春は過ぎ去ろうとしているが、今夜は少しだけ寒いので、風邪を引かないかどうか心配にもなる。
 横浜にあるホテルの一室である。当初は単なるドライブの予定だったのだけれど、夜の観覧車を眺めながらワインを飲みたいなどと、途中で雇い主が妙な贅沢を言い出したのである。真はといえば、運転をするのでアルコールを摂取できないではないかと不満を告げた。すると、どうせなら一泊しましょうと平然とした顔で言われ、急遽宿泊することになったのである。部屋から展望できる夜景が絶景で、ライトアップされた観覧車は非常に煌びやかであり、翡翠は満足そうだった。
 なかなか良い値段の部屋だが、こうしたところに躊躇なく宿泊できてしまうあたり、城塚翡翠の金銭感覚は油断ならない。真はといえば、夜景よりもそうした金額面や、アメニティに化粧落としが含まれているかどうかを先に気にしてしまった。突然の宿泊だから、そうしたものの用意がなかったのだ。しかし、流石に値段に釣り合っているだけあって、サービスは充実しているようだった。
 まぁ、自分が料金を支払うわけではないから、問題はない。こういう贅沢で気晴らしができるのなら、それに越したことはないだろうと思う。よく眠れているようなら、なによりだ。江刺詢子との闘いを終えて、翡翠はしばらくの間、ずっと部屋に引き籠もっていたのだから。
 既に真の酔いは醒めてしまっている。
 真が眠れない原因は、色々とある。一つには、先日のとある会話のことが妙に気になってしまったせいだろう。警察署を訪れた際に(自業自得ではあるが、いちおう真も被害者という扱いになっているので、事情聴取を受ける必要があったのだ)、あの微笑ましい槙野刑事と交わした会話である。そのとき、真と槙野は二人きりだった。
 いつも、槙野と翡翠は出会い頭に悪口を言い合って喧嘩をする。真はそれを微笑ましく思っているのだが、どこかしら複雑な気分を抱くのも正直なところだった。なぜって、槙野は真も知らない翡翠のことを知っているような口ぶりだからだ。それがたとえ悪口や短所の羅列であろうとも。城塚翡翠が唯一出来る料理(と言って良いのか非常に疑問であるが、当人がそう言い張っているので仕方がない)が、ご飯にポン酢を掛けただけのマニアックなものであることは、自分しか知らないと思っていたのだが。
「槙野さんは、翡翠とは付き合いが長いんですか」
 聴取が終わったあとの時間に、真はそう訊ねた。
 すると、槙野は少し不思議そうに、鋭い目付きには不似合いな、きょとんとした瞬きを繰り返した。
「俺がですか?」槙野はぱたぱたと手を振って言う。「いえ、そうでもないです」
「彼女のことを、色々と知っているようだったので」
「どちらかといえば、鐘場さんや葉桐の方が詳しいはずです」
「ハギリ?」
 鐘場警部のことは知っているが、後者の名前については心当たりがない。やはり、警察の人間なのだろうか。
 そのときの、槙野が浮かべた妙な表情が、どうしてか記憶に残った。
 どちらにせよ、城塚翡翠に関して、自分には知らないことが多すぎる。物理的にはこんなにも近くにいるはずなのに、どうしてこうにも距離を感じるのだろう。自分は、彼女の抱える秘密を知るに値しない人間なのだろうか?
 警察の人間ではないから?
 まぁ、一介の私立探偵だものな……。
 やむを得なかったとはいえ、あの手法を取ってしまったところに目を付けられて、半ば脅迫されるみたいなかたちで雇われているだけ……。
 真は毛布にくるまって、翡翠が眠る窓際の寝台から顔を背けた。
 いろいろと考えてしまうのは、飲んだ酒との相性が悪かったからに違いない。羊でも数えて寝るとしよう。
 六匹ほど数えて、意識が半ば遠のいた瞬間だった。
 うぎゃあぁっ! という悲鳴と共に、どがたんッ、と凄まじい音が鳴って、真は慌てて跳ね起きた。悲鳴が聞こえた隣のベッドを見ると、そこで寝ていたはずの翡翠の姿が忽然と消えているように見える。目の錯覚か? 奇怪な消失現象の正体を突き止めるべく、真はルームライトのスイッチを手探りで探して、明かりを付けた。
 やはりというべきか、雇用主の姿が寝台の上から消えてしまっている。真は予感を覚えて、もぬけの殻となったベッドに膝をつき、向こう側を覗き込んだ。案の定、バスローブ姿の城塚翡翠が床でひっくり返っていた。ううう、と亡者のような呻き声を上げながら、こちらに尻を突き出すような格好でベッドの下に転落している。
 どうやら寝ている間に落ちたらしい。旅行に行く度に常々思うが、とんでもない寝相の悪さだ。前に旅館の和室で寝ていたときは、襖を足で突き破っていたものな……。
「大丈夫?」
 真が訊くと、翡翠は苦しげに呻きながら、その姿勢のままで答えた。
「これが大丈夫に見えるなら、真ちゃんの観察力はどうかしています……」
「大丈夫みたいだな」
 そっけなく告げてやると、翡翠はがばりと身を起こした。
「ベッドがこんなに小さいのがいけないんです! わたしはなにも悪くありませんからね!」
 なぜか頬を膨らませて憤慨していた。纏っていたバスローブがはだけて、白い肩が覗いている。
 それなりの部屋である以上、真からすれば充分に大きなベッドに思えるが、まぁ、城塚翡翠は普段から天蓋付きの馬鹿でかいベッドで寝ているような信じられない女である。寝室のベッドのサイズが無駄に大きいのは、狭いと落ちるからなのだろう。
「はいはい。わかったから」
 真は小さく笑って、翡翠のベッドから降りる。彼女が未だに座り込んだままだったので、手を差し出した。からかわれたような思いがして気恥ずかしいのか、翡翠は不服そうにこちらを見上げていたが、やがて真の手を取った。引っ張り上げてやると、彼女はよろめきながら立ち上がり、乱れた襟元を片手で整えた。
「気持ち良さそうに寝てると思ったら、これだもんな」
「うう……、すみません」翡翠は眼を伏せた。「起こしてしまいました?」
「起きてたから。あんたのいびきがうるさくてさ」
「えっ」
 翡翠はぎょっと眼を見開くと、狼狽した表情を見せた。
「そんなばかな……」
 信じられないといったふうに言葉を漏らす。
「うそうそ。冗談。静かに寝てたよ」
 真が笑うと、翡翠は唇を尖らせた。睨みながら、ぺしりとこちらを叩いてくる。
「もう、やめてくださいよう」
 言いながら、なにか可笑しかったのかころころと笑い出す。こういうときの翡翠は、ごく普通の女性と変わらないように見える。それどころか、年齢よりも少しだけ稚さのようなものを感じてしまうくらいだ。
「まぁ、そうですよね」翡翠は納得したように神妙な面持ちで頷く。「よくよく考えたら、こんなに可愛いわたしがいびきなんてかくはずはありません」
 その自尊心の高さからくる発言は、やはり普通の女性が持ち合わせていないものだったけれど。真に言わせれば、顔が良いのは認めてやるが、言動はまったく可愛らしくはないではないか。だいたい、可愛いからいびきをかかないとは、どういう理屈だ。名探偵らしくもない不合理な論理だ。
「まぁいいけど。水でも飲む?」
「はい」
 喉が渇いたので、真は水差しのある戸棚の方へ向かう。
「あ、真ちゃん、気を付けて。きちんとスリッパを履いてくださいね」
「ああ、うん」
 忘れるところだった。真は自分の寝台の傍らにあるスリッパに爪先を通す。どういうことかといえば、就寝する前に戸棚のグラスを取ろうとした際に、翡翠がお茶請けの皿を落として割ってしまったのである。幸い、欠片が飛散したようには見えず、遅い時間にホテルの人間を呼ぶのも気が引けたので(自分たちも人を招くことのできる格好をしていなかったし)、フロントには朝に一報を入れようと思ったのだが、見えない小さな欠片が落ちていないとも限らない。注意をする必要があるだろう。やはり、泊まる度になにかしらの備品を壊さなくては気が済まない女なのだな、と強く実感してしまう。
 槙野たちは、彼女のこういう欠点も知っているのだろうか……。
 用意されているものがなぜかワイングラスしかなかったので、真はそれに水差しの水を注いで翡翠に手渡した。翡翠はカーテンを開けて夜景を眺めている。残念ながら、観覧車のライトアップは既に終わってしまっている。真は自分のグラスを一気に煽ると、それをテーブルに戻した。翡翠の方は少しだけ口を付けて、相変わらず眼差しは夜の景色のまま。観覧車のライトアップが終わると、普段、自分たちが住んでいる場所から眺める夜景とさほど違いはないように思える。まぁ、ここからなら海が望めるのは違いと言えるだろう。けれど、城塚翡翠が持つ名探偵の眼差しなら、きっと真が捉えるよりも大きな差異に気づくのかもしれなかった。
 そういえば、新年を迎える際に、翡翠が言っていた言葉を思い出す。彼女は夜の景色を見つめながらこう言った。せめてこのときだけでも、なんの不幸も犯罪も起こらないでほしいものだ、と——。もちろん、ただひとときだけではなく、願わくばずっとそうであってほしいのだろうとは思う。けれど世界は変わらず残酷で争いや不幸は絶えないし、今この瞬間にだって、誰かが悪意を以て他人を貶めていることだろう。
 今の翡翠の横顔は、そんな世界はうんざりだ、と嘆いているようにも見えた。
「大丈夫?」
 真は訊いた。
「なにがです?」
 不思議そうにこちらを見て、翡翠の大きな瞳がぱちくりと瞬く。
 普段、笑顔ばかり浮かべているから、そんな表情を浮かべられたら、気になるでしょう?
「もうベッドから転げ落ちたりしないかってこと」
「真ちゃんは、わたしをなんだと……」
 真が笑うと、彼女は不服そうに唇を尖らせた。それからグラスの水を煽ってテーブルに置く。真は訊いた。
「ハギリって、知ってる人?」
 翡翠は天井を見る。
 真も、つられてそちらを見た。
 もちろん、天井にはなにもない。
 翡翠は首を傾げた。
「なんの話です?」
「知らないならいいけど」
「槙野さんと同じで、わたしのことを煙たがっていた刑事さんです」翡翠はおかしそうに笑った。「まぁ、わたしをいちばん嫌っているのは、陽葵ちゃんでしょうけれど」
「警察にはだいたい嫌われてるな」
 翡翠に好意的なのは蝦名刑事くらいなものではないか。
「うーん、どうしてでしょう。こんなに可愛いのに、おかしいですねぇ……」
 不思議そうに呟き、翡翠はころころと笑う。
 そんなふうに、いつも笑顔を浮かべられてしまうから、彼女がそのことを気に病んでいるのかどうかすら、真にはわからない。
 城塚翡翠は、いつだって笑顔だ。
 それは犯人と対峙する真剣勝負の最中であっても変わることはなく、城塚翡翠は決して微笑みを絶やさない。真には、その笑顔は単に相手を油断させたり、取り入ったりするためのものではないような気がする。
「いつもさ、どうしてそんなにこにこしていられるわけ?」
 呆れて問うと、翡翠は真を見つめてふっと笑う。
「真ちゃん。泣いても笑っても、人生は一度きりですよ」それが力ない微笑に見えたのは、気のせいだろうか。「泣くか、笑うかなら、わたしはいつも笑っていられる方を選びます」
 そういうものだろうか、と真は頭を掻いた。
「そろそろ眠りましょうか」
 翡翠はグラスをテーブルに置いて、カーテンを閉ざした。
「ん、そうするか」
 真が自分のベッドへ戻ろうとしたときだった。
「あたっ!」
 間抜けな悲鳴が聞こえて、真は咄嗟に振り向く。
 城塚翡翠が、なにもないところで転ぶ特技を発動させたのか、前につんのめろうとしていた。真は、慌てて彼女の身体を支えてやる。が、咄嗟のことだったし思いのほか勢いがあったので、バランスを失してしまった。幸いなことに背後は翡翠のベッドだったから、受け身をとる必要もなく真は翡翠と一緒にベッドに倒れ込んだ。一瞬だけ、僅かに息が詰まる。
「あんたねえ」
 胸に飛び込まれ、押し倒されたようなかたちだ。真は笑った。
「もう転ばないんじゃないの?」
「うう……」
 翡翠は顔を伏せていた。真の視界には、彼女の頭頂部だけが見える。開いた胸元に、彼女の髪が当たって非常にくすぐったい。
「スリッパがいけないんです……。とつぜん、爪先から抜けたりするから……」
 なにか言い訳を口にしていた。
「はいはい」
 適当にあしらってやると、翡翠はむくりと顔を上げた。至近距離で、翠の大きな瞳がこちらを覗き込んで来る。どうやらすぐにはどいてくれないらしい。翡翠の腕が動いて、その人差し指が真の唇に触れた。
 それは、くるくるとした彼女の巻き毛が素肌に触れる感触よりも、不思議とくすぐったい。
「真ちゃん。傷は大丈夫ですか?」
 なんだそのことか。真は笑って応える。
「もう治ってるでしょ?」
 どこかの誰かに頭突きをされ、唇を切った場所である。しばらくは沁みていたのだけれど、今はもう跡形もない。
「それなら良かったです」
 翡翠は柔らかく微笑んだ。
 真は傷が癒えた唇を動かす。
 あなたの傷は、大丈夫なの?
 けれど、言葉は音になってはくれない。
 きっと、なんの話です? なんて誤魔化されてしまうだけだろうから。
 城塚翡翠の生き方は報われない。どんなに助力を請われ事件に貢献しようとも、彼女は警察組織にとっての異物であり、部外者なのだろう。だから、彼らが心から労りの言葉をかけることはないはずだ。それなら、本当の意味で真相を知る自分が、労ってやるしかないではないか。
 いつだったか弟と会話をしたとき、そんなに面倒臭い探偵の元で働いているのはどうしてなのかと訊かれたことがある。真は「給料がいいから」と即答したあとで、彼に本当のことを教えてやった。
 だって彼女は、誰からも褒めてもらえない正義の味方だからね。
 だから、真は代わりの言葉を囁いた。
「翡翠、お疲れ様」
 よく頑張ったね。
 吐息が届くくらいの距離で、城塚翡翠は不思議そうに真を見返した。ぱちくりと瞬く大きな翠の瞳が、窓から望んだ夜景のように煌めきを増していく。翡翠はきつく瞼を閉ざし、真にまた頭頂部を見せた。
 震える身体はとても軽くて、きっと彼女の下から抜け出すのは容易なことだった。でも、誰だって、転んで躓くときはある。すぐには起き上がれなくとも、受け止める誰かがいれば、きっといずれ立ち上がることができるだろう。
 たぶん、すぐにまた城塚翡翠は次の事件に挑むだろうから、それまでの間、僅かな休息は必要なことだ。だから。
 どうでもいいけれどさ、重たいから、そろそろどいてくれない?
 その嘘をつくまで、あとほんの少しだけ、待ってあげるとしよう。


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