城塚翡翠の平穏



 ※このお話は『medium 霊媒探偵城塚翡翠』の真相に触れています。未読の方はご注意ください。



 千和崎真は、虚しい心持ちで東京の夜景を眺めていた。
 高層階の掃き出し窓から望むことのできる煌びやかな夜景は、最初の頃こそ贅沢なものだと感激していた。それと同時に、一歩を前へ踏み出したら、この身が硝子をすり抜けて夜闇へと落ちてしまうのではないか、という恐怖心があったように思う。だが、それも今となっては慣れ親しんだ場所となり、特別な感慨など湧かない景色へと変じてしまっていた。それに気づいたとき、慣れとは感性を退屈なものに風化させていくのだなと、真は自身の変化に落胆したものである。
 だが、そうであっても、今宵に望む景色は特別な意味を持っていたに違いない。ほとんど星が見えない東京の夜空に、先ほどまでは花火が上がっていた。遠くはあったが、この場所はなかなかの特等席だ。けれど、このがらんとしたリビングルームでひとりきりそれを眺めるというのはどうにも味気がない。大型の液晶テレビに映し出されていた画面には、夜道を幸せそうに歩くカップルや家族の姿が映し出されていたが、それも退屈なものに見えて消してしまったところだ。そのせいで、この馬鹿みたいに広いリビングに残る音は、空調や加湿器の静かな駆動音くらいなもの。
 ひとりきり——。
 いや、正確にはひとりきりというわけではない。
 人間なら、そこにもう一人いる。
 真は小さく溜息を漏らして、夜景から視線を外す。それから、リビングのソファで潰れている城塚翡翠を眺めた。
 真の同居人——、より正確に表現するならば、雇用主である城塚翡翠は、いつもは白い頬を赤く上気させて、ソファで横になりすやすやと眠っていた。
 酔い潰れているのである。
 年越しは蕎麦を打とう、と真が思い立ったのは一ヶ月ほど前のこと。数年前にも挑戦したことがあるのだが、そのときには我ながら美味な一品が仕上がった。惜しむらくは、食べた人間が自分しかいなかったことだろう。そのときの虚しさをふと思い出し、この生意気な小娘に美味い年越し蕎麦を食わせてやろうと考えたのだ。去年は取り寄せたものを茹でたのだが、これまで年越し蕎麦を食べたことがなかったと言う翡翠はえらく感激して瞳を輝かせていたものである。真が手を抜いて作るオムライスにすら感激する彼女だ。きっと美味しい蕎麦を打てば感涙に噎び泣くに違いない。普段、二人が飲む酒はワインであることが多いが、蕎麦と来れば日本酒だろう。まだ翡翠と知り合う前に、探偵の仕事で新潟に足を運んだ機会があり、そのときに謝礼代わりに飲ませてもらった幻の地酒が、翡翠が好みそうな甘口の美酒であることを思い出したのである。
 すべては計算通り。
 真が苦労して用意した日本酒を、翡翠は美味しそうに口にした。もちろん、真が打った蕎麦も瞳を輝かせながら堪能してくれたし、天ぷらや刺身にもいちいち歓声を上げながら味わってくれた。
 単純に顔がいいからなのか、それとも表情が豊かだからなのか、料理を美味しそうに頬張る翡翠を見ているのは心地よい。なんだか幸せそうな顔で食べてくれるので、こちらも幸せであるかのように錯覚してしまうのだ。真が過去に付き合っていた男と比べると、えらい違いである。あの男は、やれ味が薄いだの、悪くないだの、退屈な感想を零しては無表情で淡々と食べていた。思い出すと腹が立ってくる。だが、幸せそうに笑いながら、「こんなに美味しいものが作れるなんて、真ちゃんは天才ではありませんか? やっぱりお店を出せますよ!」などと、箸を口に運ぶ度に眼を見開き、今にも落下しそうな頬を抑えるようにうっとり言う翡翠の表情を眺めれば、そんな苛立ちは記憶の彼方へと吹き飛んでしまう。
 だが、日本酒というのが悪かった。
 城塚翡翠はそれほど酒に強くない。まして酒が美味だったのがよくなかったのだろう。頬が赤くなり、ころころと意味もなく笑い出すようになった段階で、これはまずいなと思ったが、時既に遅し。完全無欠の城塚翡翠にも弱点はある。それはアルコールであったり、面倒くさい性格だったり、虫だったり、怪談だったり、辛いものだったり、苦いものだったり、あるいはなにもないところで転んだり、運動音痴だったり……。
 いや、色々とあるな。むしろ弱点だらけではないか。どこが完全無欠なのか。むしろいいところの方が少なくないか? というか、いいところってなんだ? 見た目だけなら顔のいいお嬢様に見えるのと、怪しい不労所得があるらしいというところくらいでは?
 ともかく、新年を迎える前に翡翠は潰れて寝てしまった。どうにかソファで横になるよう促して、毛布をかけてやったところである。暖房は効いているが、シャワーを浴びたあとの食事だったので、湯冷めしてしまうといけない。翡翠の着ているルームウェアは首周りが露出している小洒落たロングワンピースで、少し肌寒そうだった。ぬくぬくと毛布に包まれた翡翠は、腹が立つほどに安らかな表情で眠り続けている。
 おかげさまで、真は一人きり逸る気持ちでカウントダウンを迎えることになったし、年が明けた瞬間も結局のところ一人きりだった。新年を祝う花火も一人で見ることになったし、テレビから聞こえる除夜の鐘も一人きりで聴いた。手間暇をかけてディナーを用意したというのに、この物寂しさが報償とはなんたる屈辱だろうか。
 真はソファに近付いて、ずり落ちている毛布を彼女の身体に掛け直してやる。どんな夢を見ているのか、翡翠の表情はにやけていた。微かに身じろぎをすると、さらさらとした長い髪がソファから零れ落ちていく。真は頭を掻いて、静かに彼女の側を離れた。どうしたものかと、新年を迎えた夜景をぼんやりと眺める。自分もさっさとシャワーを浴びて寝てしまおうか。
 突然、破裂音が響いた。
 銃声かと思って、心臓が跳ね上がる。反射的に振り向き、警戒の視線を巡らせた。身体は無意識に臨戦態勢へと入り、馴染んだ構えをとっていたが、真の視界にあったのは能天気な小娘の笑顔だった。
「ハッピーニューイヤー! 真ちゃん!」
 ソファから身を起こした城塚翡翠が、空になったクラッカーの筒をこちらに向けている。微かな火薬の匂いが真の鼻先を掠めていった。色取り取りのテープや無数の銀紙の欠片が散った惨状を一瞥して、これは誰が掃除するのか、という疑念が湧く。少なくともこのふざけた小娘は自分で掃除をしないだろう。
「びっくりした」
 息を止めていたわけではないのだが、真は呼吸を再開するみたいに大きな溜息を漏らす。
「ふふふ、ドッキリテヘペロ大成功なのです」
 ころころと弾んだ声で言いながらも、城塚翡翠はどこかとろんとした眼差しだった。上気した頬はそのまま、肩から毛布がずり落ちている。
「起きてたの?」
「あたりまえじゃないれすか」
 すべてが計算尽くの名探偵のように偉そうに言うが、呂律がまわっていない。
「わたしを誰だと思ってるんれす? 真ちゃんを、油断させるために、ふふふ……、寝ているふりをしていたのれす」
 にやにやと不気味に笑いながら、翡翠の頭部は不安定に左右へと揺れ動いていた。顔も赤い。
「そういうクラッカーって、零時ちょうどに鳴らすものじゃない? もう零時三十分なんだけれど、それについてのコメントは?」
「……」
 翡翠は天井を見た。
 真もつられて天井を見るが、そこにはもちろん、時計はない。
「絶対寝てたよね?」
「わたしとしたことが……」
 翡翠はそう呻くと、頭部を片手で押さえた。顔を顰めている。
「うう、なんだか頭が痛いれす」
「調子に乗って飲み過ぎるから」
「真ちゃんのお料理が美味しすぎるのがいけないんです。あんなにさくさくの天ぷらまで用意されてしまったら……、わたしの作戦を阻害するための、巧妙な計画なのかと疑いました……」
「なんだそれ」
「少し前に寝たふりをして……、新年と同時にクラッカーで真ちゃんをびっくりさせる、完璧な作戦だったのに……」
「あそう」
「わたしったら、本当にうっかりさん……」
 翡翠は呟くと、そのままソファへと横になる。既に彼女の瞼は閉じていた。
「って、また寝るのか」
「なんだか吐き気が……」
「大丈夫か?」
 真はソファへと近付く。
 翡翠は額に手を置いて呻いた。
「大丈夫……」
「そう言いながら、Tシャツに汚物をかけられたの、二回くらいあるんだけれど」
「いいじゃないですか、あんな変なTシャツ……」
「張っ倒すぞ?」
「うう、ごめんなさい……」
 翡翠は瞼を閉じたまま、なにかを堪えるような表情で眉間に皺を寄せている。仕方なく、コップに水を注いでやり、それを渡した。彼女はどうにか身を起こしてそれを口にする。吐き気は落ち着いたようだが、まだ顔が赤い。このままだと再び潰れることになるだろう。案の定、彼女は再びソファに倒れ込むと、幸せそうな笑顔を見せて瞼を閉ざした。もごもごと口が動いてなにかを言っているが、聞き取れない。
「ほら、寝るならベッドで寝なさいよ」
 ぺしぺしと彼女の頬を叩くが、効果はなさそうだった。
「初日の出を見に行くんじゃなかったの?」
 今年こそは初日の出参りに行くのだと、子どものように意気込んでいた。だが、このぶんでは難しそうだ。城塚翡翠は朝にも弱すぎる。
「おーい」
 上気した頬をそっと摘まんで、その肌を引っ張る。だが、翡翠は意味もなく笑っているだけで起きる気配がない。すっぴんのはずだが、まったく肌荒れとは無縁の滑らかな質感だった。なんとなく腹が立ったので、そこを挟んだ親指と人差し指の腹で、その心地よい感触をふにふにと楽しんでやる。
「もち肌だな」
「ふふふ……、おもちも、楽しみですね。真ちゃんのお雑煮もさいこうれす」
 瞼を閉ざしたまま、にやにやと不気味に笑って翡翠が言う。だが起きない。
「ほら、ベッドに行くぞ」
 声を掛けると、墓から起きあがろうとするゾンビのように片手が上がって動く。意識はあるらしい。仕方なく真はその腕を引っ張り上げてやった。もたれ掛かってくる彼女の身体を支えてやる。中途半端なウェーブを描いている髪の先が、真の身体を擽っていった。翡翠の両腕が、真の背に回される。肩を貸すだけのつもりだったが、ハグするみたいにしがみつかれて、真は少しだけよろめいた。
「ちょっと、なに?」
「ふふふふ」相変わらず不気味に笑いながら翡翠が言う。「新年を迎えたときには、こうするものなのです」
「うわ、酒くさ!」
 キスをしようとしてくる彼女を、慌てて片手で遮った。
「いいじゃないですかぁ」
 翡翠は不服そうに唇を尖らせる。
「とつぜん海外の文化を持ち込まないで」
 なるほどニューヨークの習慣か。
 友人へのキスやハグは日本人には馴染みのないものなので、どうにも気恥ずかしい。日本人の若者が年越しの瞬間にするものといえば、馬鹿みたいに揃ってジャンプをするくらいなものだ。そういえば、あれは海外の人間はしないのだろうか?
「ううう、そんなぞんざいに扱わなくても……。真ちゃんが寂しがってると思ったから、キスしてあげようと思ったんですう」
「はぁ? わたしが? 寂しい? どこが?」
「絶対に寂しがってました」
「一人は慣れてるの。ほら、歩け。ベッド行くぞ」
「真ちゃん……。ベッドの前に、窓辺に行きましょう」
 へらへら笑いながら、そう言われる。
「なんで? もう花火も終わっちゃったよ」
「いいから」
 仕方なく、肩を貸して数歩を歩き、大きな掃き出し窓の元へと翡翠を連れていく。夜景は絶景といえるものだったが、真がそうであるように、自分より長くここに住んでいる翡翠にとっても、それは見飽きた景色だろう。
 華奢な体躯で真に撓垂れかかったまま、城塚翡翠はその翠の瞳で夜景を見つめていた。
「日本の年越しはいいですね」
「そう?」
「はい」
 長い睫毛が飾る翡翠の静かな眼差しを、真はすぐ近くで一瞥した。
「多くの人が、大切な家族と静かにお家で過ごして、新年を迎えている……。もちろん、例外もありますけれど、平穏で幸せなひとときだと思います」
「そうかもね」
「せめてこのときだけでも……、なんの不幸も犯罪も、起こらないでほしいものです」
 真は夜の街を彩る無数の光を見下ろしながら、静かに頷いた。
 それで満足したのか、翡翠の体重が強く身体に加わる。見れば、彼女の瞳はもう閉じていた。そればかりか、すやすやと寝息まで立て始めている。仕方なく、真は翡翠を引き摺るようにして寝室に連れて行った。どうにか苦労してベッドへと寝かせる間も、翡翠は笑顔を浮かべていた。笑いながら寝ているのである。不気味な女だ。
 彼女の身体に布団をかけてやり、薄暗い寝室の中で、真はその寝顔を見下ろす。ただ酔い潰れているだけなのかもしれないが、幸せそうに眠っているように見える。最近は立て続けに事件に追われていたから、こんなふうに安らかな寝顔を見るのは久しぶりに思えた。基本的に、事件に取りかかるときの城塚翡翠に休息はない。家にいるときであっても、常に事件のことに思考を巡らせてしまうからだろう。問題を考えるときの翡翠はよくなにもないところで転んでしまう。その頻度が多くなるときは、長考が続きすぎて脳が疲労しているサインなのだ。あの警察庁の陰気な官僚が、どんな思惑で翡翠を利用しようとしているのか、真にはよくわからない。だが、ここのところの翡翠は事件を抱えすぎていたように思う。先日、ようやく取り組んでいた案件がすべて片付いたので、今日はぐっすり眠ることができるだろう。
「真ちゃん」
 寝室を去ろうとしたとき、呼び止められた。
 毛布から覗く片手が、ひらひらと動く。
「初詣には……、絶対に行くので……、起こしてくださいね……」
「はいはい」
「絶対ですよ。意地悪とかなしですからね……」
「わかってるって」
「寝不足だから気を使って起こさないとかも、絶対にやめてください……」
 念押しに笑って、真は寝室を出る。扉を閉ざそうとしたときに、室内をちらりと覗いた。電灯は付けなかったので、薄闇の中で蠢く白い手が見えた。
「ちゃんと起こしてあげるから、ゆっくり休んで」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 真は扉を閉ざす。
 初詣は振袖を着ていくのだと、女子大生みたいに気合いを入れて準備をしていた。真はそのときの翡翠の真面目な顔を思い出して小さく笑う。
 奇妙な友人だが、城塚翡翠について真が知っていることがあるとするならば、彼女はその少女時代において、様々なものをとりこぼして来てしまっている、という点だろう。話を聞く限り、日本に来てからかなり経つはずだが、それでも様々なものに挑戦したがったり、物珍しがったりしているのがその証左だった。
「大丈夫。焦らなくても、年は明けたばかりだよ」
 閉ざした扉を肩越しに一瞥して、真は呟く。
 さて、今日は初詣を終えたら、どこへ連れて行って、なにをしようか。
 そういえば、照れくさくて言うのを忘れていたな、と思い返し、真は呟いた。
「ハッピーニューイヤー、翡翠」
 せめて暫くは、なんの事件も起きませんように。


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