魔法の闇鍋『空飛ぶ箒』


「あそこの箒を売ってください」
 日頃の睡眠不足のせいで、気付けばカウンターに突っ伏すようにして気絶していた。暖炉の熱気にやられたのか、唇がひどく乾いている。それでも呼吸することだけは忘れずに、開いた口から涎がとろりと垂れているのだから、我ながら大したものだ。のろのろと自分のそんな惨状を自覚して、わたしは慌しく顔を上げた。
 片付けるべき問題はたくさんあった。たくさんありすぎて、どこから手を付けるべきか咄嗟に判断できない。まず、ハンカチを引っ張り出して、ほっぺたにこびり付いている涎を急いで拭う。それから、いつもの営業スマイルをにっこりと浮かべた。もうなんだか完全に手遅れって感じだけれども、こうなったら仕方がない。頬が真っ赤になった原因は、暖炉の熱気のせいだけじゃない。そう、そうだ、暖炉の火を入れっぱなしだった。少しだけ部屋を温めようと火を入れたのを忘れていた。石炭がもったいない。こんなときに限って、炎は自然に消えることなくめらめらと揺らめいている。そうすると、居眠りを始めてからそれほどの時間は経っていないのだろう。
「あの──」
 カウンターの向こうに立っていたのは、赤い頬にそばかすのある年若い少年だった。わたしよりずっと若い。このお店にわたしより若い子が来るなんて前代未聞である。ハンカチを口元に押し当てて絶句しているところに、彼はもう一度さっきの言葉を繰り返した。
「あそこの箒を売ってください」
 はて、箒なんて売り物がここにあったかしら、と首を傾げて少年の示す方向を見遣る。三年前に前の主人から受け継いだこのお店『魔法の闇鍋』はその名の通り、雑多で奇妙な物が混沌の渦のように陳列された少しばかり変わった骨董店なのだ。店主であるわたしですら、在庫の把握ができていない。というのも、どういうわけかここの品物は、わたしの知らぬ間に勝手に増えたり減ったりを繰り返すのだ。もちろん、夜な夜な誰かが粗大ゴミを持ち運んでくるわけでも、日々の飢えを凌ぐために浮浪者がガラクタを盗んでいくわけでもない。ここはそういうところなのだ。
 彼が指し示した先にあったのは、午前中に掃除したときに使ったごくごく普通の箒だった。そろそろ石炭を崩してやらないと燃え尽きそうな暖炉の炎が目に入る。そのマントルピースに投げ遣りに立てかけられているその箒は、わたしが現在パートタイムで仕事をしているレストランの主人から貰ったもので、使い始めて三年経つ。そう、当時のわたしは、っていうか今でもなんだけれど、箒一本を都合するにも親切な方々にへこへこと頭を下げて工面しなければいけないほど生活に苦しんでいる。
 ここのところ街のお祭りの準備であまり寝ていないということもあって(夜中に活動するなんて、ガスが減るばかりでお金の無駄でしかないんだけど)、昨夜は四時間ほど爆睡してしまった。そのせいで、なにやらお店の方がどたばた喧しいのを夢うつつの気持ちで聞き過ごしてしまった。朝起きてみると、ファンタズマがお店の中央で所在なさげにぽつーんと座っていた。にゃうー。頭を伏せて鳴く彼を見て、わたしは五分くらいは寝間着姿のままで硬直していたと思う。お店のガラクタ──もとい商品が立ち並ぶ場所を中心に、突如つむじ風が発生したように、その場はぐちゃぐちゃのめこめこになっていた。陶器は割れて砕け散り、クロゼットは盛大に倒れて、チェスの駒は周囲に散乱していた。ファンタズマの首根っこを文字通り掴んで問いただすと、昨晩ネズミ相手に一乱闘あったのだという。
 特に書棚が倒れていたのが頭の痛いところで、大量の本が床に投げ出され、積りに積った埃は部屋中に充満していた。そんなわけで、わたしは午前中を使って店内を綺麗丁寧に片付け、疲労のあまりうとうととそのまま寝入ってしまったのである。幸いにも──というべきなのかどうか、午前中にお客さんは誰も来なかった。それはまぁ、いつものことで、やはりこの商売で食べていくのは相当無理があるんじゃないかなぁと、夢の中で現実社会の風の冷たさに震えていたところだった。
「あの。それは、えっと、ぜんぜん普通の箒なんですけど」
 カウンターから身を乗り出して、少年を見遣る。ハンチングを被ったごく普通の男の子で、身なりはそこそこだった。
「いえ、そんなはずはありません」少年は、その箒の前までてくてく歩んで、それを手に取った。「だって、あなた魔女でしょう?」
「は?」
 少年の言葉に、わたしはまばたきを繰り返した。
「違うんですか」
「いや、まぁ、違いませんけど……」
 少年の言葉はなにも間違っていなかった。いや、まぁ、それはいいんだけれど、それが箒とどう関係するというのだろう。じっと少年の熱心に箒を眺める眼差しを見つめて、あっと思い至った。少年が言う。
「これなら、空を飛べるんですよね」
「いや、いやいやいや、無理ですってば!」慌てて、わたしは両手を突き出した。「空を飛べるのは魔女だけなんですよ。しかも、それってごくごく普通の箒ですし」
「そんなこと言っても、僕は騙されませんよ」少年はしれっと言う。「僕、三日前に魔女さんが、これに乗って白昼堂々街の上を飛んでいたのを見ました」
 三日前のことを思い出して顔が赤くなった。普段は街の中を飛ぶなんてことはしないんだけれど、仕事でどうしても必要だったのだ。あとでご近所のエミリーさんに、「魔女さんってば、街を飛ぶときは気を付けた方がいいわよ。パンツ丸見えだったもの」と言われてしまい、翌日わたしはもうお嫁に行けないのだと一日中へこんでいた。もしかしたら地元の新聞に一報が出ていたかもしれない。『街の魔女さん、ハリス氏の事件解決のために活躍。パンツ丸見えで飛ぶ。しましまストライプ』
「いや、いやいやいや、それは違います、わたしじゃないです!」
「同じ街に、魔女は一人しかいられないってお婆ちゃんが言ってました」
「いや、じゃあじゃあ、それはきっと他の街の魔女さんです。きっとなにか用事があってこの街の上を通ったんです。パンツ丸見えに気付かなかった間抜けな魔女は、決してわたしじゃありません」
「僕、パンツが見えていたなんて言ってませんけど」
「……」
 腕を前に突き出して、否定のポーズのまま硬直するわたし、十七歳乙女の冬。
「とにかく、これ、売ってください」少年はにこりともせずに言う。なにやら真剣な眼差しに、押されそうになる。「どうしても欲しいんです」
「いや、えっとぉ……。だって、それ、本当にただの普通の箒ですよ。それに、凄い年季が入ってて、使う度に枝が抜けちゃうから、どちらかというとその場を汚すことが多くって、掃除にも使いづらいからそろそろ捨てたくなってきたなーと思ってたくらいの」
「騙されません」少年は、ハンチングを被りなおすと、両手で箒を抱えた。「それに、こういうのは年季が入っていた方が魔力が強いっておばあちゃんが言っていました。捨てたいなら、ただで貰います。いいですよね?」
「え、いや、まぁ……」強く言われて、思わず少し考えてしまった。お金を取らないのなら、べつに後ろめたい気持ちは抱かなくてもいい。「じゃぁ、差し上げます……。ただ、ホント、それ、飛べませんよ?」
「騙されませんよ」少年は一歩下がって、丁寧に頭を下げた。「ありがとうございました」
 少年はくるりとターンして、そのままお店を出て行く。
 わたしは暫く、きょとんとした顔で、ベルが鳴って閉ざされた戸口を見つめていた。魔女の箒が欲しいなんて、まったく変わった子だ。べつに魔女は箒に不思議な力があるから空を飛べるわけじゃない。魔女自身に不思議な力があるから飛べるのだ。わたしの熱心な説得も虚しく、少年は箒を抱えて出て行ってしまった。まぁ、タダで譲ったわけだし、わたしは否定したのだから、これは詐欺でもなんでもないし、少年も自分の間違いにすぐ気付くだろう。子供が抱く夢なんて、そんな浅はかな幻想でしかないのだ、なんて言ってみる乙女のわたしは十七歳。最近はクールを気取っているお年頃。
 硝子窓からの隙間風に震えて、わたしは暖炉に近付いた。もうすぐ石炭は燃え尽きようとしている。いいや、もう本格的に冬だし、このまま使いきってしまおうと思い切った。火掻き棒を暖炉の中に突っ込みながら、マントルピースにある曇った鏡を見上げる。目の下にできたクマに、思わず溜息が漏れた。
 最近はレストランの方が忙しくて、なかなか時間を取れないでいる。街の皆さんに役立つ魔女さんであるべく、町内会の活動にもできるだけ協力していきたいから、ますます睡眠時間は削られるばかりだった。そんなわけで、ここ最近は、『魔法の闇鍋』も開店時間が減っていて、売り上げも減少中──。まぁ、このお店の売り上げが上昇することって、ごくごく希なんだけれど、ここ最近はレストランの収入にも劣る有様で、かなり参ってしまう。
 魔女として生まれた女の子は、十三歳になると、満月の夜にひとり立ちしなくてはいけない。そうして魔女のいない街や村を探して生活し、そこで自分にとって『ピッタリ』だと思う仕事を見つけて生きていく。それがずっと昔から魔女たちの間に伝わっている古い習慣だ。もちろん、十三歳の女の子がいきなりひとり立ちだなんて過酷な問題だから、そのせいで魔女として生きることを諦める女の子も増えている。魔女の数が年々減ってきている原因は、きっと古臭いそんな掟にあるようにも思う。
 わたしは十三歳の誕生日になるまで、ひとり立ちするべきかどうか、決断できずにいた。わたしは子供の頃から魔女になりたかった。お母さんから早く魔法を教えてもらいたくて仕方なかった。けれど、そのためには大好きな両親の元を離れて、たった一人で生きていかなくちゃいけない。
 そんなこと、わたしなんかにできるんだろうか? たった一人で? 本当に?
 なにか思い出の品を必要としている人のために役立ちたい。そう願って先代の魔女さんから受け継いだ『魔法の闇鍋』は、しかし、なかなか軌道に乗らなかった。お客さんがほとんど来ないのだから仕方ない。わたしはご近所さんに助けられながら、魔女として街に役立つ活動をしてきたけれど、『魔法の闇鍋』の売り上げは、今日に至るまで散々なものだった。
 魔女の道は厳しい。ひとり立ちするときには憧れ描いていた、魔法を自在に操る魔女としての生活。けれど、現実なんてこんなもの……。お化粧する時間もなくて、髪もボサボサになって、肌も荒れてきて、服も地味な魔女っ子ワンピースくらいしかもってなくて、恋する時間なんてない、そんな現実──。
 にゃぅー。と声がして振り向くと、ファンタズマが器用に猫用窓を開けて室内に入ってくるところだった。
「いやぁ、今日は本当に冷えるね。ヒゲの先から尻尾の先まで、ピリピリするくらいだよ」
 ファンタズマは能天気にそう言うと、暖炉の近くで丸くなった。こちらは猫の手でも借りたいくらいなのに、この黒猫は一向に働く気配がない。まぁ、猫にできるアルバイトってなんだろうって思うけれど。新聞の求人欄になかなか載ってないのよね、猫でもオーケイです、っていうの。まぁ、当然だけれど。
「ファンタズマ、また散歩? 午前中から、いきなり消えちゃって……。わたし、あれ片付けるの、本当に大変だったんだからね」
 睨んでやると、この駄猫はしれっとわたしを一瞥して、別の話題を切り出した。
「しかし、こうも寒いと、やっぱり人間達は走って体を温めたくなるのかなぁ。さっき、ヘンな子供を黄緑丘で見かけたよ。まるで魔女みたいに箒に跨って走ってやがるんだ。笑えるよね。なんだか助走つけて飛ぼうとしてるふうにも見えたけど、まさか箒に跨っただけで空を飛べるなんて信じてる子なんていまどきいないだろうし。しまいには丘のてっぺんの方まで箒に跨ったまま駆け抜けていったんだから、まったく人間の子供はなにを考えているのかわからないね。もしあのまま丘から飛び出したとしたら、落っこちて死んじゃうだろうけど、いくら子供でも、人間はそこまで頭が悪くふにゃーっ!?」
 わたしは思わずファンタズマの頬を両側から引っ張るように掴んで、その体を持ち上げていた。彼の顔を真正面から見つめて睨む。
「ちょっと、ファンタズマ、それって本当?」
「当たり前じゃないか。ぼくが嘘をつくと思うのかい」
「箒に跨って、丘の上に駆け抜けていった?」
「本当だよ。なにをむきになってるんだ君は」
 わたしは猫を放り投げて、慌ててお店を飛び出した。黄緑丘は子供達の遊び場として使われることもある場所だけれど、丘の上は切り立つような崖になっていて、誤って落ちてしまうとものすごく危ないところなのだ。もしさっきの少年が、箒で空を飛べると信じてあそこから飛び降りたとしたら──。
 だめだ、走って行っても間に合わない。急いで引き返し、店内のガラクタを引っ掻き回した。それこそ今朝の惨状のように、わたしはそれを求めて店内を散らかしていく。
 ファンタズマは全身の毛を逆立てるようにしてのんびりと驚いた声を漏らした。
「なんだい。どうしたんだい。やけにせっかちじゃないか」
「あんたはトロすぎんのよ!」
 あった。
 わたしは埋もれていたモップを手にすると、それを手に今度こそお店を飛び出し、超特急で冬の寒空へと飛び出していく。今度は地元の新聞に、『魔女さん、モップで空を飛ぶ』と書かれるかもしれない。けれど今日は大丈夫、パンツは黒いから、きっと誰にも見られない。

 *

 間一髪だった。もし、やっぱりパンツが見えたらどうしようと思って、お店に引き返してズボンを履くなんてことをしていたら確実に間に合わなかっただろう。
 今にも崩れそうな崖の先端に、少年は意を決したような表情で立っていた。箒に跨り、震える手足を堪えるようにして、真っ直ぐに視線を向ける。見上げるのは、寒くて凍えてしまうような──けれども、どこまで透き通って続く青空だった。
 少年の足が、地面を離れる。彼は決して瞼を閉ざさなかった。待ち望んでいたその瞬間をしっかり目に焼き付けようとするように、じっと空を睨んでいた。彼は気付かなかったのかもしれない。自分の身体が、まっ逆さまに崖の下へ落ちていこうとすることに。少年のハンチングと、くたびれたボロっちい箒が、暗い崖の底へと消えていく。
 間一髪、掬い上げるように落っこちる少年の服を引っ掴んで、わたしはモップを操った。当然、二人乗りで空を飛ぶなんて真似はあまりしない。いきなり増えた重みに面食らったように、モップが悲鳴を上げてコントロールを失いかける。少年を掴みながらの集中は、ひどく骨の折れるものだった。わたしまで巻き添えを食って落っこちそう。崖の途中までモップで落下して、なんとかそこでバランスを取り戻す。
「ま、間に合った……」
 一度感覚を掴めば、あとは楽だ。少年を引き摺り上げて、身体に掴まるように声をかける。
「ま、魔女さん……?」
 少年は、身を投げたあとで落っこちることを悟ったのかもしれない。自然とわたしの身体にぎゅっとしがみ付いてきた。
「もう、ばかッ!」わたしは肩越しに少年の顔に唾を飛ばす。「なんてことするんですか! 魔女でもないのに、箒に乗って空飛べるわけがないでしょう! わたし、さんざん説明したんですからね!」
「す、すみません……」少年は、しょぼんとした声を漏らした。「けれど、僕……」
「どんな理由があったか知りませんけど、こんなバカな真似、二度としないでくださいよ! 人間が空なんて飛べるわけないんですから!」
 言い聞かせて、モップを少し上昇させる。冬空の飛行をするには、わたしはあまりにも薄着だ。思わずぶるりと背筋が震えた。
「けど、魔女さんは飛んでいるじゃないですか……」
 少年は、もごもごと言いよどみながら口答えした。
「そりゃ、わたしは魔女ですもの」
「そんなの、ずるいです」
「なんですって?」
 強い風が吹き付けてきて、少年の声がよく聞こえなかった。
「そんなのずるいですよ!」風に負けないとするように、少年が強く叫んだ。わたしの耳元で。「魔女だけが空を飛べるなんて、ずるいです! 僕だって、僕だって空を飛びたいのにッ!」
 モップを上昇させながら、わたしは彼を振り返った。彼の言葉はまだ続いている。耳元で叫ばれるその言葉は、嫌でも強く頭に入ってきた。
「僕、空を飛びたいんです……! いつか、空を飛べたらいいって、ずっと昔から思ってて……。空を飛べる機械とかがあればいいって、ずっと考えてた! なのに、みんなそんなことは無理だってバカにする! そんなの、子供の絵空事だって。そんなのただの幻想だって。無理に決まってるって……」
「だからって……。あのまま落ちちゃったらどうするつもりだったの? 死んじゃうところだったのよ?」
「それでもいいと思ってました」少年の声は、今度はすごく聞き取りづらいものだった。「だって、自分がいちばん望んでいることが、絶対に実現できないっていうのなら……。そんなの、だって……。死にたくなるくらい、悲しいじゃないですか」
 少年の言葉を耳にしながら、わたしは暫くぼーっとモップに跨ったまま、上昇し続けていた。丘の頂上を飛び越えて、空の上まで、ゆっくりゆっくり上がっていく。
「魔女さんは、いいですよね……。簡単に、魔法で夢を叶えられて」
 その言葉に腹が立った。
「掴まってて」
 わたしは努めてクールに言う。そう、今月はクールに振舞いたいお年頃なのだ。
「え?」
「飛ばすわよ!」
 少年が振り落とされない程度に急加速、モップは急に生き生きしたように自在にスピードを増していき、わたし達を街の向こう側まで運んでいく。
 そこからの眺めが、たぶん、いちばんいい。空からしか見れない、わたしだけのお気に入りのスポット。
 速度を緩めると、さぁっと地上にその光景が広がった。
 眼下では、一面に煉瓦屋根の赤茶色が規則正しく区画を刻んで並んでいる。南北に街を横断しているのは巨大な運河で、その橋の近くには地上から遥かに背の高い時計塔が建っていた。
 その時計塔の頂上と同じ高度で、わたしは中世の城砦のように巨大な時計塔を真っ直ぐに見ていた。
「憂鬱なときにはね、ここに来るの。ほら、見える?」
 肩越しに、少年に問い掛ける。少年は唖然とした表情で、どこか怯えながらも好奇心に満ちた瞳をきらきらとさせて、地平線の果て、どこまでも続いていく世界に目を丸くしていた。
 街が途切れれば、田園のグリーンが広がる。
 田園が途切れれば、森林の枯れた姿が、どこまでもどこまでも、見えないところまでも、続いていく。
 そこを超えれば、向こうは海だ。
 わたしが住んでいる街。わたしが暮らしたいと思った街。眼を凝らせば、様々なものが見えてくる。ストリートを行き交う紳士淑女を乗せた何台もの馬車や、道行く人々に声をかける売り子達、その向こうにある野菜市場は大道芸人達で賑わっていて、高級住宅地の並んでいる区画には、劇場や教会などの、巨大なゴシック建築がこれでもかと建ち並んでいる。硝子張りの屋根から覗える駅の様子、そこから地平線の果てまで伸びていく幾つもの線路──。煙を吐きながら、そこを走る黒い列車──。
「絶対に無理なことなんてない!」
 わたしは風に負けないように叫んだ。この冷たい風に負けてたまるかと、どうしてかそう思えた。
「絶対に無理なことなんてないのよ! あの時計塔を見てみて! あの時計塔ができたのはたった五十年前だけれど、それができる前までは、この街の人達はきっと思ってたはずよ。あんなばかでかい建物が作れるはずなんてないって!」
 寒空を旋回しながら、わたしは言った。高度を上げると、風はますます強くなる。冷たい空気が耳朶を打っていく。負けじとわたしは言った。叫んでやった。
「蒸気機関車だってそうでしょ! あんなのができるまでは、誰も、遠くの場所へ一瞬で行くのなんて、絶対に無理だと思ってた! 電報だってそう! ガス灯だってそうよ! 見渡してみれば、今では当たり前のものになっちゃってるけれど、だけどそれができるまでは、絶対にそんなことはできないって思われてたものがごまんとあるじゃない!」
 少年が、ぎゅっとわたしの身体にしがみ付いて来る。肩越しに見ると、彼はこくんと頷いた。
 そう。そんな、無理かもしれないなんて言って諦めるなんて、まだまだ早いと思う。だって、現実に無理かもしれないと思われていたものたちが、わたし達の身近なところ、どこにでも存在していて、それが実現し得ることの証明を立派にしているのだから。
 空を飛ぶなんて、子供の絵空事。それともただの幻想? 幻想だっていいと思う。誰だって、みんな幻想を抱いて生きている。その幻想が実現すればいいと願っている。その願いは決して魔女しか使えない魔法なんかじゃない。それはいつしか、現実になる。その可能性の証明が、見えるところにはたくさん存在している。
 わたしは、暫く冷たい風を睨んでいた。そしてわたしは、本当は自分に対してこのことを言ってやりたかったのかもしれない、と遅れて思い至った。
 この街で暮らし始めて、もう四年。
 もしかしたら、自分に魔女は向いていないんじゃないかって思うこともある。
 けれど、まだ四年だ。
 まだまだ、諦めるのはずっと先でいい。ずっとずっと、遠くでいい。挫けそうになったら、倒れそうになったら、意識して周囲を見渡してみればいい。そこには、遠く過去の人達が、実現に向けて苦心して、それでも成し遂げた夢の結晶が、いくらでも転がっている。
 もしかしたら、人間だって空を飛べるかもしれない。そうしたら、この空に、人を乗せた機械が駆け巡る日がくるのかもしれない。
 空はいつの間にか、茜色に眩くなっていた。
 肩越しに少年を見ると、彼は少し照れ臭そうに笑って、それから夕陽に照らされてきらきら輝く運河を見下ろした。
「もう少し、散歩する?」
 訊いてみると、少年は顔を上げた。そうして、ゆっくりかぶりを振る。
「もう、大丈夫です。僕、自分で空を飛ぶことが夢なんです。だから──」
 その言葉の続きを聞く必要はなかった。わたしが黙って頷くと、少年はしっかりとした眼でわたしを見て、ゆっくりと頷いた。
 わたし達を乗せたモップは、ゆるゆると黄緑丘へ飛んでいく。
 これは伝票に付けられないけれど、ひっそりとわたしの胸に仕舞っておこう、と思った。
 本日のお客様、空飛ぶ箒をお買い上げ。

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