愚者の行進

 あ、また同じカードだ。

 まるでケーキのスポンジみたいに柔らかな感触の座席シートは、物珍しい臙脂色をしていた。禰子の住んでいた街には、こんな色をした座席の電車は走っていない。すみっこでうたた寝をしているおばあさんの他には乗車客のいない車両の中で、禰子は行儀悪く座席にタロットを広げていた。広げるといっても、禰子は複数枚のカードを使った占術に詳しくない。彼女にできるのは、カードをぐちゃぐちゃに交ぜて、ぴんと来たカードを一枚めくる単純なスプレッドだけだった。それが、さっきから、何度やっても同じカードが出てくる。

 ポケットから携帯電話を取りだして、ウィキペディアで意味を調べた。若い旅人が、進む先にある崖に気付かないで歩いている絵のカード。愚者。さっきから、それの逆位置ばかり引き当てる。スプレッドのやり方も一つしか知らなくて、なんとも最悪なことには、カードの意味することすらインターネットに頼らないとわからない禰子だったけれど、彼女の占いの的中率といったら、日本の総理大臣が一年の間に交代する確率よりも、うんと高い。

 逆位置の愚者が示す内容は、次の通りだった。軽率、わがまま、逃避、優柔不断、愚行——。

 溜息を漏らして、タロットをトランクの中に仕舞った。既に四回くらい挑戦しているので、これ以上続けてもきっと無意味だろう。同じ内容で何度も占ってはいけないと、禰子の母はよく言っていた。もっとも、母親の言うことに素直に従うような禰子ではなかったけれど。

 電車が停止した。気が付くと、目的地の駅だった。禰子は慌ててトランクを引っ張り上げて、ドアに向かった。けれど、電車のドアはまったく開く気配を見せない。

「え、うそ、なんで? 開かないじゃん」

 焦りのあまり、独り言を口にしてしまう。禰子がきょろきょろとしていると、後ろから声が届いた。

「自分で開けなきゃ開かんよ」

 振り向くと、すみっこのおばあさんだった。

 自分で電車のドアを開けなきゃいけないなんて、信じられない。

 ここはどこの国よ、と思いながら、禰子は扉を引いた。電車の扉は、思ったほど重たくはなかった。

 駅のホームに出ると、禰子の後ろで勝手に扉が締まった。そういうところは、節電じゃないらしい。トランクを引き摺りながら、すぐ近くにあった改札へ歩く。電車を降りて、目の前に改札があるなんて、なんて楽チンなんだろう。禰子が住んでいた街の駅では、エスカレーターを上り下りして、長い距離を歩かないと、改札まで辿り着かない。

 見渡すと、空は灰色に曇っていた。雨は降らないだろう、と直感的に感じる。周囲には大きくても三階建てくらいの建物があるくらいで、ビルのようなものはなに一つ見えない。いつものクセで、自動改札機にスイカを押し当てたら、音が鳴って扉が閉まった。見下ろすと、自動改札機にはスイカを読み取る機能が付いていないらしくて、代わりに切符の差し込み口がある。そういえば、切符を買ったんだと慌ててポケットに手を突っ込んだ。なんだか、外国に来てしまったみたい。けれど、禰子は外国には行ったことがない。

 熊が出たらどうしようと考えながら、改札を出る。ロータリーのようなところには、タクシーの一台も止まっていない。もちろん、バスもなかった。車の気配がない。もしかしたら、この街の交通手段って、馬車なんじゃないの?

 朝からトランクを引き摺っていたせいで、右の手首が痛かった。禰子はポケットから携帯電話を取りだして、地図を表示させる。けれど、なかなかGoogleマップを読み込めない。見ると、回線が一本しか立っていなかった。

 うわ、しっかりしろよ、ソフトバンク。念じたけれど、こればかりは禰子にもどうしようもない。アンテナが立つところを探そうと、トランクを引き摺りながら右往左往していると、ガラガラの駐輪場近くにある一台きりの自動販売機の前で、男が煙草を吸っていることに気が付いた。自動販売機があることに安心しながら、禰子は、第一村人発見! という気分でネットに繋がらない携帯電話をポケットに仕舞った。禰子の見つけた第一村人は、彼女がシミュレーションしていたのとは違って、腰の曲がった老人ではなく、むしろ二十歳くらいの若い男性だった。どことなく頼りなさそうな風貌だが、この際、そんなことには構っていられない。

「あの、すみません」

 禰子が声をかけると、彼は咥えていた煙草を手に持ち替えて、物珍しそうな視線を向けてくる。

「つかぬことを聞きますが」

 禰子は、青年を見上げた。本当は煙草の匂いが不快で顔をしかめたかったけれど、できるだけ好印象を与えた方がいいだろうなと思って、笑顔を浮かべる。

「なんですか?」

 青年は、不思議そうに禰子を見下ろした。

「この街に、魔女は住んでいますか?」

 禰子の質問に、きっかり三秒の間を置いて——、青年は、手から煙草を落としてしまった。

 どうやらここは、喫煙スペースのようなものらしい。青年は落っことした煙草を拾い上げると、まるで公園の水飲み場みたいな形をした、石造りの灰捨てに、煙草を押し当てて火を消した。禰子は、青年がそれなりのマナーを持った人物であることに、ほんの少し安堵を覚える。

「ええと……。うん、確かに、この街には魔女はいないよ。僕のお婆さんが若かった頃にはいたみたいだけれど……。最近は、ぜんぜんそういう話、聞かないね」

「良かったぁ」

 禰子は胸を撫で下ろして、まくし立てた。

「この街って、ネットで調べてもぜんぜん反応なくって。掲示板とかで聞き込みしたんだけど、魔女がいるのかいないのかって、よくわかんなくって、なんかもー、これは直接行って聞いてみるしかないかなー、でも、行ったら行ったで、既に魔女さんがいたら無駄足じゃんとか、もうチョー困ってたところなんですよう」

 青年は、禰子の言葉に瞬きを繰り返していた。ほとんど人見知りをしない性格の禰子だったけれど、この青年の方はかえって困惑を覚えているようだった。

「えっと……。それじゃ、もしかして、君って、魔女さんなの?」

「はい。一応」

 禰子は、少しばかり誇らしい気分になって、胸を反らした。

「でも、魔女って、空飛んでくるもんじゃないの? 箒は?」

「今は、航空法との兼ね合いで、魔女は空飛んじゃダメなんですよ。それにスカート穿けなくなっちゃうじゃないですか」

 そんなことも知らないんですか? という体で禰子は言う。

 青年は困ったように頭をかくと、禰子の身体を、つま先から頭のてっぺんまで眺めた。いやらしい視線ではなかったものの、なんだか妙にくすぐったい。

「でも、なんか、黒くないよね……。髪とか」

 確かに、禰子の髪は真っ黒ではないし、着ているのも原宿で買い揃えた女子高生風の制服姿だった。それに、黒くないとは言っても、ギャル系みたくガンガンに染めてるわけじゃない。あくまでも茶が混じっているのは、ほんの微かにだ。それにしても、この青年まで、母と似たようなことを言う。ようやく校則の枷から抜け出せたっていうのにこれだ。禰子は溜息混じりに答えた。

「今どき黒髪とか、どんだけオトナシメ女子ですか。あたし、先月に髪染めたばっかりなんですよ。また染めたら、痛んじゃうじゃないですか」

「そ、そういうものなんだ」青年は、ちょっと怒ったふうの禰子の様子に気圧されたみたいだった。軽く両手を挙げて、降参みたいなポーズを取る。「えと……。それで、魔女さんは、どうしてまた、こんなところに?」

「そんなの、修行に決まってるじゃないですか」禰子は、ほんの少し偉ぶって言う。「昔からね、魔女は十三歳になったら、独り立ちして、知らない土地で修行しないといけないんです。あ、今は義務教育の兼ね合いで、十六歳からって法律で決まってるんですけど。とにかく、自分でまだ魔女のいない街を探して、そこで自分の技術を活かした仕事を見つけなきゃいけなくて……」

「ああ、なるほど」青年は、ようやく納得したようだった。「宅急便とかするわけだ」

「それは昔の話です。今どき、クロネコとか佐川には敵わないじゃないですか」

「それじゃ、魔女さんは、ここでどんなお仕事を?」

 その質問に、禰子はちょっと躊躇ってから、答えた。

「それは——。これから、決めるんです」

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