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『あなたを読む物語』のあとがき


「続編を書きましょう」

 担当編集である河北さんから、そう言われたのはいつだったろう。
『小説の神様』を刊行してしばらく、僕の本にしては思いのほか好調で重版を重ねることができたものだから、それは編集者からすれば当然の流れだったのかもしれない。
 しかし、僕は渋っていた。確かに、そもそも講談社タイガはレーベルの立ち上がり当初は、全点シリーズモノの刊行を謳っていたと思うのだけれど、『小説の神様』に関しては例外として一巻完結で出して良いと言ってくれていたのだ。それがどうして、「続編を書きましょう」と言われてしまうのか。約束と違うではないか。ぷんぷん。

 当然ながら、僕は続編のことなんてまるで考えずに『小説の神様』を書き上げた。語るべき熱、伝えるべき魂、すべてを注ぎ込んだ一冊だった。残ったのは僅かな残り火だけであり、そう言われても続編が書けるなんてまるで思えない。できたとしても、きっとものすごく退屈で、一巻の面白さを台無しにしてしまうような作品が出来上がることだろう。それが予想できてしまった。
 そういうわけで、僕は渋っていた。まぁ、できたら、とか、そのうち気が向いたら、とか、やらないとだめかなぁ、とか、そういう言葉でごまかしていたような気がする。

 そうしている間にも、一つの作品が打ち切りになった。僕は『小説の神様』を書き上げたあとですら、物語を救えなかったどうしようもない作家だ。そんな作家が、安易な気持ちで物語を続けていいのか? とも考えた。一つの作品を育てていく力もないくせに、安直にまた新しい生命を、作品を生み出すのはどうなのか? 作品を一つの命だと考えるなら、実力も覚悟もないのに命を生み出すことは、僕の勝手で生まれ、そしてすぐに消えていく命に対して、あまりにも申し訳なさ過ぎる。

(他にも色々な想いがあった。僕はミステリ作家なのに、ミステリは評価されず、重版することなく、売れない小説を書く話が評価されてしまうのは、どうなのだろう? それこそ、自分の実力のなさの現れなのではないか? それをシリーズ化して縋っていくのは、逃避なのではないだろうか、とか……。)

 しかし、求められるのは嬉しいことだ。この本が売れない時代にお仕事を断るなんて贅沢なことである。求められる以上は、いかに苦戦し、時間がかかってでも、なんとかシリーズを育てていきたい、とも思う。それがどんなに、生まれて、すぐに潰えてしまう作品を創り出すという、無責任なことであったとしても。

 だが、『小説の神様』に関しては別だ。あれはもう、なんか、難しい。しんどい。書いていると闇が溢れてくる。つらい。つらみしかない。油断すると、こっちが呑み込まれて、戻って来れなくなるのではないか、という恐ろしい作品だった。あれを書いたときほどしんどい執筆というものはない。あんな恐ろしい作品は二度と書きたくない。僕はそんなものより、ラッキースケベでヒロインのふとももに挟まれてキャッキャウフフできるような小説を書きたいのだ。挟まれたいのだ。だいたい、一巻で綺麗に終わらせた以上、続きの構想なんてないし、あのときほどのエネルギーはもう自分の中に残っていない。できるとしたら、一巻のとき、成瀬さんのバックボーンはある程度完成していて、書き切れなかった部分があるので、彼女の話を書いてお茶を濁すか、くらいの発想しか出てこなかった。

 とにかく、そんな感じで、僕は色々と渋った。たくさん理由を付けて、言葉を濁した。あのときの僕は、マツリカさんのふとももを描写しなくてはならない使命感に燃えていたのだ(その試みは探偵役の登場シーンを削らざるを得ないという構造上の問題で失敗した)。だが、あるとき河北さんが言った。

「相沢さん、僕たちは読んでくれた人たちにお礼をしなくちゃならない」

 この河北という編集者は、なんか知らないけれど、ときどき心に刺さることを真面目な顔をして言うのだ。そのとき、原因はよくはわからないけれど、その言葉は僕の心にちくりと刺さったのである。うまくいえないが、なにか心が揺れた。しかし、その正体をうまく掴めず、僕は相変わらず、「いやぁ、しかし」とか「うまくできる気がしない」とか、「同じようなものを書いてもつまらなくなるんじゃないかな」とか言ったのだと思う。

「相沢さん、書かない理由を探すのはやめましょう」

 またしても、河北氏の決め台詞が出てきた。これは彼の持っている対相沢沙呼用の必殺技で、僕に対して頻繁に使われる台詞である。しかも、このときはいつもより効力が強かった。前述のように、僕は書かない理由ばかり思い浮かべては並べていたのだ。僕は電車に揺られながら考えた。確かに、僕は書かない理由を探しているだけなのかもしれない。書くべき理由ならきちんとあるではないか、と河北さんは言っていたのだ。僕たちは、読んでくれた人たちにお礼をしなくちゃいけない、と。

 その言葉を胸中で反芻させていると、もろもろと込み上げてくるものがあった。とにかくしんどかった執筆期間、書くきっかけとなった打ち切りのできごと、それから、刊行してすぐに重版が決まったこと、いつもと違うエネルギーを感じた、読んでくれた人たちの感想のツイート、そして、書店めぐりで応対してくれた書店員さんたちとの会話、イベントで声をかけてくれた人たちの言葉、もらった手紙の文面……。それらに対して、いちいち、ちょっと泣きそうになったときのこと。

 とにかく、なんだろうな、エネルギーがすごかった、という印象があった。作品のエネルギーではなく、読んでくれた人たちのツイートだったりブログのレビューだったり、そういうのが、いつもよりずっと激しい熱を持っているように感じた。だからこそ、この作品は、重版を重ねることができたのかもしれない。あんなにも「面白い」とは単純に形容できなくて、読むことがひたすらつらい物語を、最後まで読み切ってくれた人たちがたくさんいるのだ。そう考えると、河北さんの言葉の意味がよくわかる。僕たちはお礼をしなくちゃいけない。とたん、なんというか、僕の中に新しい意欲が湧き上がった。

 だが、お礼とはなんだ? どうすれば、それができるだろう。ありがとうございました。あなたたちのおかげです。これからも頑張ります。そうツイートをしたところで、なにが伝わるだろう? この気持ちのどれほどが行き届く?

「だめね、言葉では遅すぎる」

 僕の中にいる小余綾詩凪が囁いた。

 小説を書いている間、(まさしくそのモデルとなった、しゃべりだしたら止まらない某赤い林檎の人みたく)ずっと喚いていた彼女は、『小説の神様』を脱稿してから沈黙を続けていたはずだった。どちらかといえば、相変わらず僕の耳元で囁くのは千谷君の役割だったのだ。どうせ、とか、むりだ、とか、これは売れないよ、とか。

 僕はプロットを練り始めた。言葉で伝わらないから、僕たちは小説を書くのだ。
 プロットを固めていく流れはこうだった。成瀬さんの物語をベースにすることは決めたけれど、一巻を読んでくれた人たちは、千谷や小余綾の話も期待しているに違いない。それを裏切ったらだめだろう。でも、創作する上でのテーマはどうする? あれ以上に語る問題なんてあるか? いや、僕はちょうどいい題材に直面しているではないか。これにしよう。よし、二つのパートが並列で進行していくかたちをとるのだ。それから。

 それから、大事なことがあった。『小説の神様』を書いたときに不在で、けれど今回こそ、僕が新たに見つけて、描かなくてはならないもの。

 読者、という視点だ。

『小説の神様』は徹頭徹尾、創作者たちの話だった(それはつまり、夢を追いかける人たちの話でもあり、そんな人たちを励ましたい気持ちが強かったが、自分は小説を書かないのでわからない、という声も見られたのは事実だった)。けれど、小説というものをテーマにしたこの作品で、読者という存在にスポットを当てないわけにはいかない。何故なら、彼らがいなければ、僕たちの作品は完成しないからだ。

 もうね、小説なんて、オブジェクト指向におけるただのクラスですよ。インスタンス化してオブジェクトにしないと意味がないんですよ。コンストラクタに読者という様々な引数を与えて、インスタンス化してはじめて意味をなすんですよ。いろんなメソッドが実行されて、プロパティが変わっていくんですよ。え、時代はイミュータブルだって?

 ごめん、わからない人の方が圧倒的に多い説明だった。もっとわかりやすく言うのなら、それはクロースアップマジックのショーのようなものだ。クロースアップマジックは観客を巻き込んで演技を進めていく。お客さんの反応を見ながら少しずつ演技や手順を変えていき、ときにはアクシデントすら利用してショーを作る。一つとして同じショーはあり得ない。驚く人、笑ってくれる人、大袈裟なリアクションをとる人、ときにはマジックを疑う人たち、それらの反応から、様々なショーが生み出されていく。

 ごめん、やっぱり伝わらないかもしれない。でも、その伝わらないものを、少しでも伝わるように託して描くのが小説というものだろう。僕は、それが伝わるといいなと思って今回の話を描いた。正確な理解はされなくていい。むしろ、受け手によって様々な解釈と理解が生まれるのが、小説というものの持ち味なのだろう。

 読者という立場、成瀬秋乃という女の子を描くのは、想像以上に難しいことだった。それはもちろん、もう僕が純粋な読者という存在ではなくなってしまっていることに起因する。僕はもう作家になってしまって、あの頃のような気持ちで読書をすることができない。でも、かつては純粋な読者のはずだった。それを思い出しながら、あるいは想像をめぐらせながら、彼女を描いた。第一話の雛形は、一巻のときに成瀬秋乃という人物を構成するバックボーンとして思い描いていたので、すんなりと書くことができたが、そこから先は難しかった。千谷や小余綾たちの抱えているものと、重なるようで、寸前で触れないような、そんな構成を意識しながら、読書という行為に対して想いを巡らせた。

「心が動いたからって、なんなの?」

 これは作中で成瀬秋乃が発する疑問の一つで、本作のテーマとなったものだった。
 物語は人の心を動かすか? 動かすだろう、と僕は思う。多くの人も同意することだろう。しかし、では心が動くとは、どういうことなのか? 動いたから、そのあとでなにがどう変わるのか? それはただの錯覚ではないのか? 感動したからって、そのあとで、僕たちはなにか変化するのか? たとえば、明日から、他の人たちに対していつもより優しくできたりするのか?

 僕はふだん、緻密にプロットを組んで、登場人物の心を理解し、自分と同一化してコントロールしていく描き方をしている。あまり、登場人物が勝手に動く、という経験がない。けれど、今回は駄目だった。登場人物がみんな、好き勝手に思いも寄らないことを突然言い出す。小余綾は勝手なタイミングで変なことを言い出して、一巻と比べて間違ったり偏った意見を言うようになった。成瀬秋乃も、とつぜん、想像もしていなかったテーマに行き着くことを言い出したり、それに悩んだりして、とにかく収集がつかない。コントロールが利かない。はたしてこのお話は収集がつくのか? ただ投げっぱなしの話にならないか? これらを制御しようとする一方で、けれど僕は、その混沌とした感じを楽しんでいたように思う。小余綾が勝手に悩んで、成瀬が深く傷付く。
 え、その台詞、このタイミングで? それプロットになかったよね? いいよ、オーケー、付け加えるよ。はい、進行表に書き込んだ。でも、その答えはどうするわけ? 君たちはそれを見つけられるの? 僕が見つけなきゃいけないの? ちょっと勘弁してよ、そんなのわからないよ。小余綾さんにわからないものが僕にわかるわけないじゃん……。

 結局、答えを見つけ出したのは、誰なのか? 僕の中にいる登場人物たちなのか? それとも僕自身なのか? この作品を僕という人間の私小説のようだという人は多い。たぶん、間違っていないけれど、エンターテイメントとして成立するように多分にフィクションを混ぜているから(というか9割は虚構だと思う。なんだよ美少女作家って)、100%そうではない。僕の意見ではない答えも多くあるし、僕が悩まなかった部分もある。では、その答えを見つけ出したのは誰か、その悩みに悩んで傷付いたのは誰なのか? 作者とキャラクターは同一ではないが、キャラクターは作者から生まれる。たとえそこから勝手に動いて勝手に悩んだのだとしても、作者から生まれたのだから、究極的に言えばそれは作者そのものだ。でも、それはあらゆる小説がそうだろう。

 この話を虚構ではなく現実として感じる人は多いだろう。それは、たぶん、僕と登場人物を重ねてしまうことだけが原因ではないと思う。きっとその原因は、この物語に読者という存在が大きく関わっているためだ。読者とは、すなわちあなたのことであり、あなたは虚構の中にいる存在ではなく、この世界に実在する人物だからだ。

 なんだかあとがきというより、ただの解説のようになっている。小説の解説を自分でするなんて、小説家としてはよくない行為だ。けれど、この物語に関しては、それも面白い試みの一つなのではと思っている。ここで語ったことはほんの一部分でしかなくて、ぜんぶはとてもじゃないけれど話しきれない。他にもいろいろなことがあって、このお話が生まれたのだろうと想像を巡らせるきっかけになると嬉しい。

 たぶん、『小説の神様』は、そういうインタラクティブな作り方をしているお話なのだと思う。たとえば、作中で語られる春日井啓が原作を担当するコミックスにまつわる話は、僕の作品を追いかけてくれる人なら、どのお話のことなのかすぐわかることだろう。

 僕という作家があり、読者の反応があり、だからこそ生まれるものがある。あなたがいるから、生み出された物語があるのだと、僕は知ってほしい。

 一つ例をあげさせてもらいたい。
 第一稿を書き上げたのは春のことだった。その頃、僕はちょっと大きな病気をしていて、心身ともに参っていた。ようやく小説が書けるようになって、中断していたこの話を一気に最後まで書き上げた。河北さんに原稿を見せて、問題点を二人で考えて、どうまとめてブラッシュアップしていくか、話し合った。答えはすっきりと見つけ出せなかったけれど、持ち帰って宿題にしなくてはならないと思った。
 そのあと、学校の司書をされている方から、お手紙をいただいた。Twitterを見て、僕の病状を心配してくださったのだと思う。すごく嬉しい気持ちでお手紙を読ませていただいた。そこには、中学校の図書室で、僕の本を読んでくれる生徒さんたちのエピソードが小さく綴られていた。僕の本について、生徒さんとこんな話をしたとか、こんなことがあったとか、僕のこの本を借りていった子がいて、とか。たくさんの場所にあるはずのそんな様子が相沢先生に届けばいいのにと思って、とそう綴られていた。

 僕は胸がいっぱいになった。そして、その景色の一つ一つに想像を巡らせた。作家の知らないところに、物語というのはたくさんある。自分の書いた物語のことで、泣いたり笑ったりしてくれる人たちがいる。当たり前のことなのだけれど、その当たり前の景色を、僕たちは見ることができない。人間が読めていないな、と思った。読者が読めていない。僕は読者が読めていなかった。そこにどんな物語があるのだろう? 僕は手紙にあった図書室の風景に想像を巡らせた。とたん、書いていた物語に不足していた要素をいくつも思い付いた。僕は原稿の修正に取りかかり、結局のところ、それは一冊の本に収まらないほどの加筆が施され、上下巻で刊行されることとなった。

 僕はあまりにも筆無精で、お手紙の返事がなかなかできない。手書きの文字がめちゃくちゃ苦手なのだ。実はこのお手紙にも、まだお返事ができていない。なので、目に留めてもらえるかどうかは不明だけれど、まずはここでお礼を述べさせてもらいたい。ありがとうございます。あなたの手紙で生まれた物語があります。後ほど、落ち着いたら、返信させていただきます。すぐにお返事ができなくて、ごめんなさい。

 このエピソードは、新しいテーマとなって、僕の中に残り続けている。ちょうど、『小説すばる』で『雨の降る日は学校に行かない』に連なる短編小説を不定期に連載していくところなのだけれど、その短編たちにも大きな影響を及ぼしている。なにせ、中学校の図書室が舞台のお話なのだ。作家が知るよしもないエピソードであふれているに違いない。『小説の神様』とも、ある意味では対になっている。本になるのはだいぶ先になると思うけれど、覚えていたら、手に取ってみてほしい。

 結局、長々と書いたけれど、僕が言いたいのはこれだった。あなたがいるから、生まれる物語がある。それはこのお話を読んでくれた人には、とっくに伝わっていたと思うけれど、改めて、お礼を言わせてほしい。

 たとえば、あなたが物語を読んで、面白いと思った感動を誰かに伝えたくてツイートする、あるいはブログに書く、あるいは友達に話す。はしゃぐユイちゃんのように。それを見たり聞いたりした誰かが、その物語に興味を持ち、手に取って、書店へ買いに行く。そうして巡り巡った熱が、新しい物語を生み出す。それは、部数とか重版とか、そういう味気ない言葉で表現されてしまうのだけれど、そこにも一つの物語があるのだと考えると、とても凄いことだと思う。たった一言が、新しいなにかを生み出すきっかけになるのだ。

 ときには、続きを書くことが赦されない物語というものも生まれてしまう。著者も悲しいし、続きが読めない読者も、ものすごく悲しいことだろう。本が売れない時代だ。何十万部突破という美しい文字が華々しく躍る一方で、それは世の中にある物語の中のほんの数%以下なのだということを知っていてほしい。僕も、実力のない作家だ。生み出す作品を潰してしまう。『小説の神様』を書いたあとですら、作品を助けてあげることができなかった。これからも同じように、また別の作品が打ち切りになるのだろう。でも、そんな中であっても、あなたたちのおかげで、新しく生み出される炎があり、薪をくべられた命は燃え続けることができる。

 だから、あなたが一つの物語に心を奪われたり、登場人物に恋をしたりしてしまったときには、臆することなく好きだという気持ちを誰かに伝えてほしい。そうすることで、新しく燃え上がる命がきっとあるはずだ。
 それは、まさしく小余綾詩凪が言うところの歯車のようなものだ。

 僕たちに、歯車を与えてくれてありがとうございます。

 これは、そういう物語でした。



 ふともも書きたい。

 そろそろ文化祭の季節ですね。取材するにはうってつけでしょう。


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