【読む映画】『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

排他主義批判と 印パ友好への祈り

《初出:『週刊金曜日』2019年1月18日号(1216号)、境分万純名義》

 本国公開は2015年7月だったが、現在もインド歴代興行成績3位、ボリウッド(ヒンディ語映画界)歴代興行成績としては2位を占めている大ヒット作。
 ボリウッドを代表するムスリムスター「3大カーン」のひとり、サルマン・カーンが、自身のプロダクションで手がけた第1作で、パキスタンでも大好評を博した。

 ボリウッドではめずらしくないことだが、父をムスリムに、母と妻をヒンドゥ教徒にもつカビール・カーン監督は、娯楽映画の体裁を取りつつ、インドが国是とするセキュラリズム(世俗主義)の価値をうったえてきた。
 私がつねに注目している監督だが、4年前(2015年)の時点では、公開を楽しみにしつつもタイトルには違和感を覚えていた。

 原題にもある「バジュランギ」は、「バジュラング・バリ」からくる。古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』で有名な、猿の頭と尾をもつ獣人、ハヌマンのことだ。
 ハヌマンは、同叙事詩の主人公で、ヒンドゥ教主要神の1柱・ヴィシュヌ神の化身とされるラームに忠誠を誓う。

 バジュラング・バリと聞くと、1992年の事件を連想させられる。
 北インド・アヨディヤにあったモスクが “ラームの生誕地” に建てられているとして、現与党インド人民党(BJP)と密接な過激派団体が、同モスクを破壊した。その実行部隊は「バジュラング・ダル」(「ハヌマンの軍団」の意)というゴロツキやチンピラを集めたような組織だった。
 
 そのため、ハヌマン信仰者を軸に、印パ友好のドラマなど、どうやったらつくれるのかと私には疑問だったのだ。

 それだけに、本作を見たときには、監督の強い意志を感じずにはいられなかった。アヨディヤ事件以降こんにちまでの、ヒンドゥ教徒過激派はじめ、世俗主義を破壊しようとする勢力の痛烈な批判。さらに、印パ間の敵意を摘出するところまで、物語のスケールを拡大したうえで伝えたいメッセージ。

 パキスタン側カシミールの山あいの村に暮らす、6歳のムスリム少女シャヒーダーは口がきけない。その治癒を祈願するため、母親に連れられてインドのムスリム聖者廟に参拝する。その帰りのアクシデントで、迷子になってしまった。

 そこで出会うのが、ヒンドゥ教徒のパワンである。

 彼のカーストは最上級のバラモンで、育ちも、BJP の母体・民族奉仕団(RSS、M・ガンディの暗殺者ゴードセーを出した)のそれだ。そしてハヌマン信仰に厚く、日ごろの挨拶は「ジャイ・シュリ・ラーム(ラーム神ばんざい)」。
 しかしながら、底抜けに純朴なのである。信仰をもつ者や愛国者とはどうあるべきかという視点から、意識的につくりだされたキャラクターだ。

 たとえばパワンは当初、少女が色白なので、バラモンに違いないと思っている。
 バラモンにとって肉食は「穢れ」だが、少女が菜食料理を受けつけないと見ると、肉料理も出す食堂に連れていってやる。
 あるいは、異教の施設であるモスクやムスリム聖者廟が大の苦手でも、少女のためなら果敢に入っていく。

 ちなみに食堂シーンでのミュージカルナンバーは、一見、他愛ない。
 だが、2014年の BJP 政権登場前後から多発している、主としてムスリム殺傷事件の批判として見るべきなのだ。ヒンドゥ教で神聖視される牛を守ると称する「聖牛夜警団」(cow vigilante; ヒンディ語では gau rakshak)は、2018年12月には警察官の殺人まで犯し、いっそう深刻化している。

 物語の後半、舞台はパキスタンに移る。ビザもパスポートも何のツテもないまま、少女を親元に返してやろうとするパワン。しかし、非常識なまでの純真さが災いして、インドのスパイと誤解され、官憲に追われる身になってしまう。

 ハラハラするうちに、「娯楽映画というものは、本来こうでなければならない」と、実感させるクライマックスがやってくる。その場所がどこであるかも重要だ。
 少女に扮するハルシャーリー・マルホートラの愛らしさと演技力は特筆モノで、それが集大成されるとき、すがすがしい涙をさそう。

原題:Bajrangi Bhaijaan
監督・脚本:カビール・カーン
出演:サルマン・カーン、ハルシャーリー・マルホートラ、カリーナ・カプール、ナワーズッディーン・シッディーキーほか
2015年/インド/159分


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