【読む刺激】『アマルティア・セン回顧録』上下(全2巻)

貧困や飢餓の撲滅に不可欠な民主主義
ノーベル賞経済学者の原点

《初出:『週刊金曜日』2023年5月26日号(1425号)》 

 インドのアマルティア・センがノーベル経済学賞を受賞した1998年、私は、バングラデシュ・グラミン銀行創設者のムハマド・ユヌス総裁(当時)を、初めて取材した。そして貧困撲滅を目指すビジョンや実践に興奮して、同銀行やファミリー企業(社会企業)を追い始めた。
 そういう感覚からすると、やはり貧困や飢餓の発生するメカニズムを分析し、経済の公正な分配を考えるセンのテーマに賛同するものの、正直、まだるこさを感じていた。
 
 その印象が大きく変わったのは、ここ10年ぐらいである。それはちょうど、センが本書の執筆に費やした期間に重なる。1930年代から60年代までの前半生を回想したもので、英国ケンブリッジ大学への留学時代が主になる下巻に対し、上巻の主舞台はシャンティニケトンだ。
 
 インド・西ベンガル州にある学園町シャンティニケトン。ラビンドラナート・タゴールによる理想の学園が置かれたこの地で、1933年、センは生まれ、学園の生徒として10代を過ごした。母方の祖父は、タゴールの右腕として学園運営に携わっていた。
 
 このシャンティニケトンを、いま、ある紛争が揺るがしている。タゴール学園の後身、国立大学ビッショ=バロティ(以下VB)が、センに対して、“不法占拠”している大学所有地を返還せよと要請しているのだ。具体的には、センが所有する家屋の敷地の一部である。

 しかしセンは、そもそも敷地全体について、彼の父親が1943年、タゴールから99年間のリースを受けたものだと主張、カルカッタ高等裁判所に救済申し立てを行なっている。
 この事態に、西ベンガル州首相がセンへの全面支援を掲げるほか、タゴール家の親族や、知識人・文化人がVBに対する抗議に集結している。
 
 ちなみにVBの学長は連邦政府首相ナレンドラ・モディである。
 また、VBの明け渡し要請が始まったのは今年(2023年)1月だ。その約1カ月前、センはフランスの主要紙『ル・モンド』によるインタビューで、「こんにちの世界で最悪の政府のひとつ」だと、インド・モディ政権を批判していた(2022年12月19日付)。

 この記事だけではない。
 ヒンドゥ至上主義を掲げるインド人民党が政権を握り、民主国家を名乗る資格を次々に放棄してきたこの10年。センは、各国のメディア取材に積極的に応じては、インド政府を痛烈に批判し、貧困や飢餓の撲滅を目指す自身の経済学に不可欠な、民主主義の価値を強調してきた。
 
  だからこそ今回の紛争は、彼の口封じをしたい当局の画策だと、支援者は疑っている。ただでさえ、シャンティニケトンで何を学んだか、だれと出逢い、どんな議論や交歓をしたかという本書の叙述全体が、ヒンドゥ至上主義者には、気に食わないことだらけのはずだ。
 そうでない者にとっては、ノーベル賞受賞時よりも格段に存在の重みと言論の鋭さを増したセンに、あらためて出会うことになるだろう。

アマルティア・セン=著 東郷えりか=訳
勁草書房 各巻定価2970円(税込)
ISBN978-4-326-55089-0
ISBN978-4-326-55090-6


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