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ジョージ・バランシン〈聖地〉探訪記 Part 1 思い出のサンクトペテルブルク編

 北の貴婦人とも称えられるロシアの古都サンクトペテルブルク。21世紀になった今も、冬宮殿(現・エルミタージュ美術館)から放射状に広がる街路には、帝政時代の歴史的建造物が点在している。この地で生まれ育ち、バレエを学んだ振付家ジョージ・バランシン(1904〜1983)が歩いた街並みが、彼が目にした景色がそこここに残されているのである。
 スキ・ショーラー著「バランシン・テクニック」(大修館書店)の日本語版がようやく書店に並び、肩の荷を下ろしていた2013年10月のことだった。Elizabeth Kendallの著書 ”Balanchine and the Lost Muse: Revolution and the Making of a Choreographer” のページを繰りバランシンのかつての住まいの場所を追っていると、「サンクトペテルブルクにおいでなさい」という声が聞こえた——ような気がした。天の声、あるいはバランシンの声が響いた——ような気がした。気のせいだったとしても、この声にノーと答えることはできない。バランシン生誕110年を迎えた2014年1月の深夜、わたしはサンクトペテルブルクのブルコヴァ空港に降り立った。彼の地でバランシンの〈聖地〉を巡るセンチメンタル・ジャーニーの始まりである。

Table of Contents:
1)マリインスキー劇場に詣でる
2)ワガノワ・バレエ・アカデミーは振付家バランシンの出発点だった
3)バランシンはこの高級マンションで生まれた
4)前衛振付家バランシンを抜擢したミハイロフスキー劇場
5)危ない橋を渡ってヨーロッパに向かう

マリインスキー劇場に詣でる

 厳冬期のサンクトペテルブルクの夜は長い。到着翌日、夜明け前の午前10時過ぎにバランシンの古巣であるマリインスキー劇場を目指してホテルを出発した。不思議なことに、世界に冠たるこの劇場に地下鉄の最寄駅は存在しない。知る人ぞ知るセンナヤ広場にほど近いホテルのフロント係には、バスでは渋滞に巻き込まれるかもしれないので歩いていくように勧められた。2キロ程の道のりは、地元っ子には徒歩圏であるようだ。蛇行するモイカ運河沿いに軒を並べる瀟洒な住宅や凝ったデザインの橋に見とれるうちに、方向感覚を失ってしまった。四つ角や三叉路に行き当たっては拙いロシア語で道を尋ね、相手の指差す方向に歩くことを繰り返し、薄ぼんやりと日がさし始めた11時前、彼方にマリインスキー劇場が立ち現れた。
 ふとかたわらの建物の表示を目にして、あっと驚いた。そこにあったのは、若き日のバランシンが学んだサンクトペテルブルク音楽院。マリインスキー劇場の楽屋口から音楽院まで、距離にして数百メートルほど。通学は苦にならなかったことだろう。
 バレエ学校を卒業する前年の1920年1月、バランシンは同音楽院に入学し、ピアノを学んだ。即興演奏が得意で、作曲も試みたという。
 同音楽院は、バランシンの父メリトン・バランチワーゼ *(1862〜1937)の母校でもある。独学でジョージア伝統音楽のスペシャリストになったメリトンは、母国の伝統文化の振興に心血を注ぐ篤志家デヴィッド・サラジシヴィリ(1848〜1911)から経済支援を受け、1889年から1895年にかけて同音楽院で作曲などを勉強した経験を持つ。メリトンは、息子に音楽の道に進むことを促す手紙を書き送っている。
 バランシンの音楽院入学が本人の意思によるものなのか、父親の意向を汲んだものなのか、今となっては定かではないが、いずれにしろ、楽譜の細部を描き出すかのようなバランシン振付の入念さは、生来の音楽性だけでなく、正規の音楽教育の賜物でもあるのだ。

* メリトン・バランチワーゼについては、下記を参照されたい。

 むろんマリインスキー劇場自体が、バランシンの重要な聖地である。この舞台で踊り継がれてきたコンスタンチン・セルゲイエフ版『白鳥の湖』を見た。パフォーマンス自体は踊りや演奏にミスが目立ち、肩透かしを食らった気分だった。観光客と思しき、必ずしもバレエファンではなさそうな観客が多かったせいか、日本公演の客席に漂う、一瞬一瞬を見逃すものか、という緊張感が感じられなかったのも残念なことだった。
 休憩時間には気を取り直し、寸暇を惜しんで劇場内を見歩いた。否が応でも観客の目を引きつける〈ツァーボックス〉が、2階席中央で偉容を誇る。前後して訪れたミハイロフスキー劇場の同様のボックス席は施錠され、専用のICカードがなければ入場できないシステムだったが、マリインスキー劇場では、入り口の案内係ないし警備担当者に一声かけて足を踏み入れることができた。歴代のロシア皇帝(ツァー)が楽しんだ眺めを味わってみた。舞台だけでなく、客席全体を一望できる。観客席からも、容易に〈ツァーボックス〉を仰ぎ見ることができる。皇帝は、満場の観客が自分に投げかける畏敬の念の混じった視線を晴れがましい気持ちで浴びたに違いない。マリインスキー劇場の主になった気分がした。

[偉容を誇る〈ツァーボックス〉]ツァーボックス

[〈ツァービュー〉で場内を一望する]画像14

 ロシア革命が勃発するまでは、一部のボックス席は不動産のようにオーナーが永続使用し、その他の座席の相当数は、毎回、同じ座席が割り当てられるシーズン通し切符として販売されたという。劇場という場所が、一定数の知己同士が互いの存在を意識し、衆人環視の状態でひと時を過ごす場として機能していたことになる。来場する際は、細かなドレスコードに準じて、身分相応の宝飾品類で盛装することが求められた。終演後のカーテンコールでは、出演者はまず臨席の皇帝に恭しくレヴェランスをし、次に劇場上層部のボックスに向かって礼、最後に観客の拍手に応じた。これらの慣例に表立って異を唱える者がいなかったとしても、バレエ鑑賞が息苦しさを伴うものだったことは想像に難くない。
 ツァーボックスに接するメインロビーは、思いの外、小ぶりで、他フロアからは見渡せない設計だった。帝室のメンバーなど、少数の人々だけが足を踏み入れる社交の場だったことをうかがわせる。他フロアからの動線が分かりにくいのは、警備上、必要だったのだろうか。いたる所に施されたロマノフ家の紋章〈双頭の鷲〉の装飾が、来場者に睨みを利かせていた。マリインスキー劇場全体が、ロシア皇帝という絶対君主を頂点とするロシア帝国の縮図のようだった。
 ロシアにおけるバレエが、ルイ14世のもとで隆盛した宮廷バレエ同様、ロシア皇帝の権勢と不可分の芸術であることを実感した。そして振付家ジョージ・バランシンが帝政ロシアという時代を自ら経験し、帝政というシステムの真っ只中でバレエを身につけ、そこで育まれた作品を自らの血肉にしていることを今一度、意識した次第である。

[マリインスキー劇場のメインロビー]マリ ロビー

 別途、マリインスキー劇場の舞台裏を見学する好機を得た。楽屋口と上階の稽古場をつなぐ石の階段は、中央がすり減っていた。ケモノ道ならぬ、ダンサー道である。かつてバランシンもこの階段を上下したのかと思うと、胸が高鳴った。
 実はその日の午後、バランシン振付『ルビーズ』がマリインスキー劇場に隣接する新館〈マリインスキー2〉で上演されることになっていた。劇場のホームページで上演スケジュールを発見した時点で入場券はすでに完売、現地にいながら公演を見られない事態に陥っていた。するとメインの稽古場の手前にあるサブの稽古場から、ストラヴィンスキーのピアノ奇想曲が響いてきた。短い時間ながら女性アンサンブルの乱舞を見届け、少しばかり溜飲が下がったのだった。

[新館〈マリインスキー2〉の外観とロビー]マリ2

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ワガノワ・バレエ・アカデミーは振付家バランシンの出発点だった

 バランシンの第一の母校、帝室バレエ学校、今日のワガノワ・バレエ・アカデミーでは、レッスン場に入ることは叶わなかったが、1階の博物館をじっくりと見学することができた。ワスラフ・ニジンスキー、アンナ・パヴロワ、マチルダ・クシェシンスカヤ他、歴代の卒業生の写真や衣装類が所狭しと展示されていた。

[バレエ学校時代のバランシンと同級生たち]IMG_3381 ワガノワ博物館 バシ

 バランシンが学んだ帝室バレエ学校は、振付家バランシンの出発点でもあった。ロシア革命後の1920年、バレエ学校在学中だったバランシンは学内公演や種々の小規模公演で上演する作品を手がけ、振付家デビューを飾った。なかには配役不詳の作品もあるが、バランシン本人を含むバレエ学校在校生1〜2名が出演した小品が大半を占める。マリインスキー劇場、改め、GATOB(国立アカデミック・オペラ・アンド・バレエ・シアター)入団後には同僚ダンサー達と自主開催した〈青年バレエの夕べ〉をはじめとする種々の公演で作品を発表し、気鋭の振付家として頭角を現していった。

 ワガノワ・バレエ・アカデミーに隣接するサンクトペテルブルク国立演劇音楽博物館には、〈青年バレエの夕べ〉の公演ポスターや、バランシンの顔写真を掲載した演劇週刊誌『チアトル」(1923年12月11日号)を展示するコーナーがあった。ポスター上部に記された〈экспериментальный〉は、実験的の意。前衛振付家然とした表情を浮かべたバランシンは齢19歳。ポスター下部には〈G. Balanchine Sept 1972〉と記されている。ニューヨーク・シティ・バレエが1962年に続いて2回目、10年ぶりのソビエトツァーを行なった際に本人が署名したものだろう。

[サンクトペテルブルク国立演劇音楽博物館の展示]青年夕べ ポスター 雑誌

バランシンはこの高級マンションで生まれた

 今回の〈聖地探訪〉のメインイベントは、ほかでもない、バランシンの生家を訪れることだった。そこが博物館として公開されているわけではない。それでもわたしはバランシンが歩いた街並みを歩き、彼が目にした景色を目にし、バランチワーゼ家の暮らしぶりを感じてみたかった。それゆえの〈センチメンタル・ジャーニー〉なのである。

[スヴォロフスキー通りに面した、バランシンの生家]画像21

 バランシンが1904年1月22日に誕生した頃、バランチワーゼ家の家計は相当に潤沢だった。1901年に母マリア(旧姓マリア・ニコラエヴナ・ワシリエワ、1873〜1959)が宝くじで20万ルーブルの当選金を手にする僥倖に恵まれた。平均的な工場労働者の年収500ルーブルの400年分に相当する、とんでもない大金である。メリトンとマリアは、3人の子供(1902年生まれのタマラ、1904年生まれのゲオルギ、後のジョージ・バランシン、1905年生まれのアンドレイ)とともに、サンクトペテルブルク東部に位置する新興の高級住宅街のなかでも高級物件と呼び得る賃貸マンションで暮らしていた。乳母を雇い、家庭教師を雇い、フィランド国境近くに特大のダーチャ(別荘)を購入し、ジョージア式宴会〈スプラ〉を催して大勢の客人をもてなした。メリトンの母国ジョージアからワインを輸入するビジネスを始め、屋根材を製造する工場を買収したこともある。1907年には、12もの居室がある高級マンションに引っ越した。しかし資産運用に失敗し、一家はみるみるうちに困窮した。サンクトペテルブルクを引き払い、辛うじて売却を免れたダーチャへの転居を余儀なくされた。
 軍人志望だったゲオルギが、その年の兵学校の応募が定員に達していたという理由で、帝室バレエ学校に送り込まれたのは、バランチワーゼ家の財政事情の為せる技としか思えない。義務教育のシステムがなかったロシアにあって、帝室の教育機関に入学すれば、無償で専門教育を受けられるだけでなく、衣食住が公費で賄われ、将来の職業と年金までもが保証されるのだから。
 合否は試験当日に発表された。ゲオルギが合格したことを知らされた母マリアは、そもそも踊ることが苦手で内気な8歳の息子をバレエ学校に託し、その日のうちにダーチャに引き返した。当時のバランチワーゼ家は、フィンランド国境近くのダーチャとサンクトペテルブルクを行き来する交通費にも事欠いていたようだ。
 ちなみにバランシンが設立したニューヨーク・シティ・バレエ付属〈スクール・オブ・アメリカン・バレエ〉では、通学圏外の年少者をいきなりフルタイムで入学させることはしない。志望者はまず5週間のサマースクールを受講し、プロダンサーになる素質と意欲があると判定された者だけがフルタイムの生徒として受け入れられる。学生寮の入居者は、14歳以上の生徒に限定されている。年少者は出来る限り家族の元で生活すべき、というモットーを貫いているのだ。
 ワガノワ・バレエ・アカデミーの入り口の重厚なドアを開けながら、100年前のまさしくこの場所で母親を見送った、未来のジョージ・バランシンの胸中を思いやらずにはいられなかった。

[〈劇場通り〉に面したワガノワ・バレエ・アカデミー出入り口]画像11

前衛振付家バランシンを抜擢したミハイロフスキー劇場

 滞在中、もっとも足繁く通った場所は、ミハイロフスキー劇場だった。合わせて3回、芸術監督ナチョ・ドゥアトの改訂振付による『くるみ割り人形』を見た。少女マリーが夢の中でお菓子の国を訪れ、金平糖の精に変身するプロットと平行して、くるみ割り人形が人形という不自由な身から抜け出し、王子になることを夢見るサブプロットを描き出す、洒脱な演出だった。くるみ割り人形の姿がミハイル・フォーキン振付『ペトルーシュカ』の表題役を彷彿させ、ドゥアトがロシア・バレエにオマージュを捧げているようにも見えた。
 公演の空き時間には、ドゥアト直々の指名で同劇場に採用された高野陽年氏(その後、ジョージア国立バレエに移籍、2021年より香港バレエ団所属)の案内で舞台裏やカンパニー・クラスを見学した。ワガノワ・バレエ・アカデミー、マリインスキー劇場の見学の際も助力を得た。改めて御礼申し上げる。

 バランシンとミハイロフスキー劇場には、重要な接点がある。ロシア革命後、以前にも増して意欲的な作品に取り組んでいたミハイロフスキー劇場は、気鋭の振付家として注目されていたバランシンに白羽の矢を立てた。1923年9月から12月にかけて新制作した作品の振付にバランシンを起用したのだ。ニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ『金鶏』、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『シーザーとクレオパトラ』、エルンスト・トラーの戯曲『獨逸男ヒンケマン』の3作品である。確固たる作品発表の場を持たないバランシンにとって、正規の劇場での初仕事となった。

[ミハイロフスキー劇場外観] 画像11

危ない橋を渡ってヨーロッパに向かう

 ところがミハイロフスキーでの仕事を終え、前後して青年バレエの夕べの第2回公演を敢行した後、バランシンはほとんど作品を作っていない。GATOBの保守的な上層部はバランシンの実験的な作品に眉をしかめ、解雇こそしなかったものの、ダンサー達にバランシン作品に出演しないように通達した。要するに、彼は干されてしまったのだ。
 バランシンは、ウラジミール・ドミトリエフ(1884?〜19??)という、どことなく胡散臭げな助っ人を得て、国外に活路を求めた。おそらくドミトリエフの主導で〈ソビエト・ステート・ダンサーズ〉という小グループを結成し、ソビエト芸術の粋を西側市民に紹介して彼らを教化する海外ツァーを立案した。バリトン歌手からカジノの胴元に転身し、ソビエト共産党のお偉方とコネを持つドミトリエフの尽力ないし裏工作が奏功し、グループの出国申請は認可された。1924年7月4日、バランシンは、ドミトリエフおよび、GATOBの同僚で青年バレエの常連出演者でもあったアレクサンドラ・ダニロワ(1903〜1997)、当時のバランシン夫人タマラ・ジェヴァ(1906〜1997)、ニコライ・エフィモフ(19??〜19??)とともにドイツに向かって出発した。
 このツァーには、もう一人、参加予定のメンバーがいた。リードチカこと、リディア・イワーノヴナ(1903〜1924)。バランシンのクラスメートだった彼女は、つい3週間前にボート事故のために命を落としていた。ソビエト共産党絡みの最高機密をたまたま耳にしてしまったため秘密警察により暗殺された、といった憶測が囁かれるほどに不可解な最期だった。
 バランシン達は出国許可が取り消されるかもしれない、命の危険にさらされるかもしれないと恐れおののいたが、無事にドイツにたどり着いた。しかしながらその先の予定は一切なかった。行き当たりばったりで出演依頼を受けては庭園、ビアホール、個人のパーティ、精神病院で踊った。ロンドンの老舗ミュージック・ホール、エンパイア・シアターに1ヶ月の予定で出演するも不評のため2週間で降板し、仕事が途絶えた。所持金が底をつきそうになった矢先に、バレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフから電報が届いた。翌日、彼らはオーディションを受け、ダニロワ、ジェヴァ、エフィモフはダンサーとして、バランシンはダンサー・兼・振付家として採用された。
 歴史に「もし」はない。それでも「もし」1924年夏にバランシンが出国していなかったら、彼が日の当たる場所でキャリアを歩むことは叶わなかったのではないか、と想像を逞しくしてしまう。当局に睨まれ、失脚・処刑された前衛演劇運動の旗手フセヴォロド・メイエルホリド(1874〜1940)と同じ道を辿っていたかもしれない。振付家バランシンが、ソビエト共産党が提唱するところの社会主義リアリズムに馴染んだろうとは、とうてい思えないのである。

[ワガノワ博物館に展示されたリディア・イワーノヴナ所縁の品々]画像22

 かくしてわたしは駆け足でサンクトペテルブルクでバランシンの聖地を巡り、バランシンが生きた時代を少しばかり追体験した。帝政ロシアと往時のバレエの栄華に息を呑み、その栄華がもたらす陰の気配を感じ、ロシア革命後の混沌の中から芽生えたソビエト・バレエに思いを馳せ、バランシンとバランチワーゼ家の浮沈に一喜一憂した。ジェットコースターのように激変する日々のなかで、バランシンは生き、学び、踊り、振り付けた。後年のバランシン作品には、ロシア=ソビエトの痕跡が時に明白に、時に婉曲に刻み込まれている。2014年のサンクトペテルブルグ訪問で、振付家ジョージ・バランシンの原点を肌で感じることができた。
 ロシア=ソビエトは、しかし、振付家バランシンの出発点でしかない。バレエ・リュスの若きバレエマスターとして数年間を過ごし、フリーの振付家としてヨーロッパに留まった後、1933年に渡ったアメリカを後半生の拠点とし、ロシア、ソビエト、ヨーロッパで吸収したバレエをアメリカンな芸術へと昇華させた。
 わたしの聖地巡りも、ここでは終わらない。ジョージ・バランシンの〈聖地〉探訪記第2部、ニューヨーク編を近くnote.comにしたいと思っている。お付き合いいただければ幸いである。

—- to be continued —-

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