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『ぼくの火星でくらすユートピア』

《ユートピア》——扉を開けたなら、爆発しそうな勢いで空気が入れ替わる

 目を開ければ車の中だった。外は晴れ。いつもの日和だ。

 車から降りたら、目の前にゴミ捨て場があるのはいつものことだ。大小高低関わらず、とにかく、そこにゴミ捨て場はある。

 僕は燃え滓を放り投げて車に戻った。

 「こいつ」とは長い付き合いになる。

 レンタルショップで しょぼくれていた最後のひとつだった。

 僕は店内のカウンターで、ぼんやり葉巻を吹かしていたイッカクに声を掛けた。

「すみません、こいつじゃないのってありますか。ええ、あの、僕はこの通り、オートマでないと駄目なんです」

 しかしイッカクは、口からは煙をプカプカ、目は半分閉じて優雅にカクカク船を漕いでいる。

「僕はね、ミッションの免許は諦めたんですよ。教官がいけなかったんです。ええ。そんでね、僕は止めちゃったんです。つまりね、ええっとね、何が言いたいかって言うとね、僕はね、口下手なものだから、上手く言葉が出てこなくって。いえ、お茶はいいんです。とにかく、とんでもなく上がってしまうんですよ。独り言は、ほら、素直なんですがね。こうやって人と喋るとなると、上手く言葉が浮かんでこないんだからね」

 僕はそんなイッカクに、列記とした限定免許を叩きつけたはずなんだが──

 どうしてか「こいつ」が僕の相棒になった。

 しかし「こいつ」は僕に上手く懐いてくれている。「こいつ」は僕しか知らないからだ。可哀想に。

 僕はアクセルペダルを踏み込んだ。ほら、「相棒」。いつものドライブだ。

 クラッチペダルを持ち上げると、相棒は元気よく発進した。

 コンクリートは、整備されるから人が群がるのか、群がるから整備されるのか。とにかくコンクリートのある場所には人が群がる。

 ほ、ほ、蛍こい。あっちの混凝土は苦いぞ。こっちの混凝土は甘いぞ——

 とか言った具合に、僕もこの土地にやってきたひとりだ。

 「しかし妄想の中ぐらいもっとマシな色にしてくれれば良かったのに」とも思う。僕のコンクリートは桃色をしている。

 僕が奇抜な世界の色にうんざりしている最中に、相棒は4回もエンストを繰り返した。今日は何だか調子がいいじゃないか相棒! お願いだからもう二度とエンストしてくれるなよ。

 僕はもう一度、慎重にクラッチペダルを離す作業に取り掛かる。

 元気よく相棒がバウンドし、また止まる。

「くそ」

 しかし、こんなにグズグズしていて大丈夫なのだろうか? 知らない人は思うかも知れない。

 結果を言うと、僕の後ろにも前にも道はあるが、誰もこの道にいないのだから、どんな速度でも大丈夫なのだ。

 しかし唯一面倒なのが、僕の周りにはちゃんと人がいて、僕が舌打ちをしながらエンジンを入れ直す間にも、僕をケラケラと笑っているということ。

 道も持っていないくせに、僕以上に楽しそうに暮らしているのは実に憎たらしいものだ。僕も人を笑ってみたい。

 そう苛々している間に、僕らは目的地に到着していた。

 貧相な古本屋だ。僕は車の中で目を覚ますと、まずここにやって来る。

 何故なら、そう決まっているからだ。

 僕は相棒をハンドブレーキで立ち止まらせると、道に降りた。

 店の扉を開くと、中は空っぽだった。普段は口を開くのさえ億劫な僕だが、背に腹は代えられない。仕方なく、商売をやる気がない店主を呼ぶ。

「あの。本を売りに来たのですが。あの。本をですね、売りに来たのですよ」

 僕が売りにきた本は、そんじょそこらの薄っぺらの物では無いのだ。時代を超えて、キチンと人々に評価され続けてきた物なのだ。キチンと値段をつけてもらわないと困る。僕の立場が無いじゃないか。

 キチンとした本の内容は、以下の通りだ。

『——仕事に行こうと目覚めると虫になっていた男がいた。人間の頃の彼は誇るべき人間だったが、あの様な虫に変身してしまった。今まで男が食わせていた家族は、急に自分たちでもって色々と生活を弄らなければならなくなり、いずれ自分たちに奢りだし、終いには虫になった男は、父親の一撃の林檎に沈む。』

 これが喜劇なのか悲劇なのかは僕には判断がつかないが、やりようの無い話だということは確かだ。

 だけども、僕自身にその不幸が降りかかったとしたなら、僕なんて元から何もかもが上手くいかない虫けらの様な存在だったから、まるで誰も気がつかなかっただろうと思う。寧ろ、「少しマシになったわね。ええ、人間らしくなって」なんて言われてしまうのがオチだったろうか。

 寧ろ、虫に『変身』すれば、店主も店先に出て来てくれる様になるだろうか。

 この店のコンクリートは剥げかけている。

 僕はこっそり店の中で一番高い値のつく本を手に取ると、再び相棒と走り出した。

先に。



《ユートピア》──もしも、それが、本当のことであったなら

 遮光カーテンの隙間から漏れ入る朝日。

 ネクタイを締める、シュッと鳴る音。それが僕が、この人生の中で一番嫌いな瞬間だ。二番目が電車に駆け込む時。三番目がタイムカードを切る時。

 つまり、ほとんどの人間が、大人になれば囚われることとなる、人生の義務を果たす時間。

 僕を苦しめるのは、そんな時間だった。

 それでも家に帰れば、僕のことを出迎えてくれる犬がいた。要するに、僕が飼っていた犬、ということになる。

 毎日昼間になると色々な人からなじられていた僕だったが、あいつのお陰で、家にいる時だけはお代官様になれた。

「おいポチ野郎。僕がボールを投げてやっているんだ。取ってきたらどうだ」

「おいポチ野郎。僕が飼ってきてやった餌を食べねえとはどういう了見だ」

「おいポチ野郎。今は僕のいない昼間じゃないんだから寝なくてもいいじゃないか」

「おいポチ野郎。忙しい僕がこうして呼び掛けてやってるんだから、返事くらいしてくれたっていいじゃないか」

「おいポチ野郎──」

 数年前、僕が会社にいる時間だった。あいつは、僕に、何にも言わぬまま、遠くへ行ってしまった。

 可哀想な奴だったな。あいつは僕しか知らなかったんだから。幸せだったのは僕だけだった。

 ポチが食べないまま残していったカリカリフードは、貧しい僕の胃に収まった。黄身を落として食ったら、泣くほど美味かったことは覚えている。

 あの頃の僕はもはや、この空白を満たしてくれるものならなんだって、腹に放り込んだに違いない。

 あれを思い出せば、ここの生活は大変楽だ。僕は飢えを感じないし、食うのはガソリン代だけでいい。

 いいや、ガソリンさえ、もう僕には。

 アクセルペダルとクラッチペダル、ギアチェンジとエンストを繰り返しながら走っていた僕らたったが、向かい風にとうとう行き詰まった。

 相棒には、そして僕には、風に抵抗できる力なんてまるで無かった。

 僕は扉を開く。僕が押してやらなければ。

「くそっ! いつまでもグウタラしやがって! どこまでもムカつく野郎だ」

 そうぶつけたのは、どちらに向かってなのだろうか。

「グズグズしてないで、僕が押してやってるんだ! 前に進めよ! 」

 しかし相棒はちっとも進む気が無いらしい。でも僕はそれが安心した。

 こいつはひとりで行ったりしない。

「よし、相棒。俺が押してやってるんだ。少しは動いたらどうだ」

 そう張り切れたのもはじめの内だった。

 嗚呼、僕は、どうしてこう、計画性が無いのだろうか。体力の温存だと家に籠ってばかりいたせいで、息がまるで続かない。

 お陰で相棒は未だ風に詰まったまま、むっつりとしてしまっている。

「おお、相棒よ。僕だってこんな不細工な格好は嫌なんだ。お願いだからその気になっておくれよ」

 コンクリートの剥がれた道は、僕たちには厳しすぎる。前に進むしか僕らに道が無いのに、それができないのだ。

 絶望に暮れた僕は、ガクガクと震えるしかなかった。

 もう、ここで、止まってしまおうか。

 そう考えていると、気まぐれな追い風が吹いた。風は相棒を気持ち良く前進させてくれた。

 僕も歓喜に叫びながら、相棒に乗り込む。

 なんだ。僕らはまだ見放されてはいなかったのだ。

「いやっほお」

 ぐちゃ。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。

 不快な音を轢いたのは、暫くも経たない内だった。

 僕は閉めたばかりの扉を開く。

 僕らは呆気なくタコを轢いていた。それもかなり大きな図体の奴だ。

 気流に目隠しされていて、見えていなかったのだ。

 奴は酔っぱらっていた。酔っぱらって、僕の道を布団と間違えて寝たらしかった。

 確かに、この道は、ぼんやりした道だ。しかし道は道だ。そして「僕の」道なんだ。だが奴は、一丁前に文句を言ってきやがった。

 他人の道に入って来たのは、そっちじゃないか。僕は相当に腹が立ち、奴に立ち向かおうとした。

 が、案の定、ちんけな僕はヘラヘラして、何も言い返せやしなかった。

 相棒は奴をかなり大胆に轢いてしまったらしい。重症だった。2本目の腕と8本目の腕が骨折、5本目の腕は壊死で切断だった。

 僕は切り取られた奴の足の火葬費用も払った。その上、火葬場へも付き添うこととなった。

 強い焚火で煙りに化してゆく奴の足の薫りは、何とも美味しそうであった。僕は思わずお腹を鳴らしてしまい、坊さんがいなくなった後で酷くボコボコにやられた。

 奴からやっと解放され、扉を閉めた後。僕は鉄の味を舌に絡ませながらブレーキハンドルに手を掛け、気がついた。

 タコにも主張が与えられるのに、僕の意見は点で無視であったこと。

 其の瞬間、悔しさが胃液と共にジンジンとせり上がってきた。過ぎた時間の失態が、遣る瀬無い。ジッとしていれば、自らが壊れてしまいそうで、僕は暫く脚を踏ん張っていた。手を握り締め、ああっと声を出さずにはいられなかった。

 悶え悶え、この気持ちが収まるまでの地獄の間。

 僕の頭の中では、延々と、間抜けな僕の供述が回っていた。

「あのですね。ええっと、ええ。僕はですね。相棒、ええっと、へへへ、この車のことですがね、違います。あなたを笑ったんじゃないんです。僕はその、へへ、全くですね。こう。喋り慣れていないものですからね。あの、ええっと、ええ、ええ、もう、それでいいです」

 しかし僕らは行かなければならない。

 先に。



《ユートピア》──追いかけても追いつけない蝶を、追いかける行為の儚さを知る

 冷たい風も限度を知らねば砂を積もらせる。

 僕と相棒は風が運んできた砂漠という景色に、呆然と立ち尽くした。しかし後退するという選択肢は、僕らには無い。ここを抜け切るしか無い。

 僕は今度こそ、しっかりとエンジンブレーキを下ろし切る。

 「逃げたい」と思い続けた人生だった。

 僕は常に逃げ道を求め、辛いことにも幸せ過ぎることにも、背を向けて生きてきた。僕の気持ちはいつだって、何も無い場所に辿り着きたいと希望していて、きっと、この世に生まれる苦痛でさえ、僕にとっては心地の良い逃げ道だったに違いない。母の腹の中は、狭すぎたし、温か過ぎたのだ。

 その思考の為か、僕の人生の大半は何も無く、無難に終了していってくれた。

 就職活動においてもそうだ。僕はそこそこの大学を出て、そこそこの資格を取り、そこそこの履歴書を持って、そこそこの志望動機を披露し、そこそこのルックスでもって会社の合格印を受け取った。

 入社式の後、長い廊下を歩いている最中、「どうして僕がこの会社に選ばれたのだろうか」なんか、1ミリたりとも考えなかった。「僕の様な人間が受かるんだから、周囲もきっと僕の様な人間たちに違いない」と括っていたからだ。しかしそれは僕の思い込みでしかなかった。

 自己紹介から始まった業務は、昼飯を食べる頃になると、「孤独」という香辛料に苦しめられるようになった。

 「どうして僕が」という疑問に支配され続けたのは次の日に同僚たちが仲良く集団出社してきた時で、1週間も経つとその味付けさえ、辛いと感じなくなってしまった。

 しかし今思えば、同僚たちは部屋の隅で小さくなっていた僕に気付いていなかったのかも知れない。僕が「ああ」なっていたのも、所詮、自然現象に過ぎなかったのだ。僕は少々欲張りすぎていたのかも知れない。

 いつでも太陽は、天空の中心で輝いている。

 「太陽の大きさを想えば、僕たちの悩みなんてどうして小さいものだろう」と説く人間が、僕の周囲には沢山いた。

 実際そういう奴らの悩みは小さいもので、端から悩みを持って生まれていないか、悩むという脳味噌自体持っていないかのどちらかなのだ。僕はそういう奴らが大嫌いだった。

 一方、悩まないという才能に欠如する僕の様な人間は、見上げなければ確認することさえできない宇宙のことなんて考えている余裕もなく、あれこれあれこれ考えてきた。恐らくこの肉体がフレアに焼き尽くされたとて、この憐れな脳味噌は、頭蓋骨の中で電気信号を飛ばし続けるだろう。

 全人類よ、宙を見よ。あの星の数こそ、僕が悩み抜いた数である。

 自分の悩みを見つめ続けてばかりいた僕は、他人を見下し、他人を拒絶して生きていた。

 そんな人間が、社会に出て、及第点を貰えるなどと、誰が思うだろうか。

 外を廻っては散歩で終わり、内に入っては茶も汲めず、最後に与えられた仕事は、見晴らしの良い席で延々と書類にホチキスの針を刺し続けるというものだった。

 誰から馬鹿にされても構わない。僕は僕の何とも無い人生を守り抜くだけだ、そう覚悟を決めていたのに。

 生と死について考えたことがあるか?

 パチン、パチン

 僕は嫌という程これら人間の大イベントについて考えた。

 パチン、パチン

 人はどうして生まれ、そしてどうして死にゆくのか。

 パチン、パチン

 どうして死にゆく運命にあるのに、こんなにも賢く生まれてきてしまうのだろうか。

 パチン、パチン

 どうせ死にゆくのだから、学びを施したり、未来に繋ぐ為の運動などしても、空しいだけではないのか。

 パチン、パチン

 脳内で巻き起こるビッグバンの応酬を、ひとつひとつ繋ぎ止めるかの様に、僕はホッチキスの針を用紙に差し込む。

 パチン、パチン

 ここで単純作業に侵され続けた僕は、宇宙の端っこを捕まえた。

 パチン、パチン

 要するに、人間には生も死も存在しないのだ。

 パチン、パチン

 僕、という意思さえも、この世には無い。つまり、僕、という妄想なのである。僕、という妄想は、生まれも死にもしない。生産し続けるだけだ。

 目の前にある物、それは本当に存在するだろうか。誰がその物体を作り出したのか、僕、以外何物でもない。目の前の物が何物かであったなら、ならどうして、他人の目に映る景色が見えないのだろうか。僕は僕の主観でしか世界を見れていない。その可笑しさを問うべきなのだ。

 全ての人や物体は、僕、という妄想の中ででっち上げられる。僕、の許可無しでは存在できず、僕、が望む時でしか名前をつけられることもない。

 僕、は無知を装って凡そにして全ての創造主であり、僕、は何物にも触れることすらできない。

 僕、は生きていると思い込んでいるだけなのだ。

 僕、は僕の主観そのものであり、目の前を通り過ぎる知らない人であり、僕、を貶める他人でもある。僕、はその気になれば誰かに成り代わって生活することができる。その方法とは。

 そこで意識は現実に戻った。

 現実とは、たかだか11ページの資料すら纏められなかった、僕という結果になる。

 その日以来僕にホチキスを貸す者は現れなくなり、とうとう会社から用済み認定された。

 月初め、人事のヒトデ野郎が呼んでいるというので僕は会議室へと向かった。ついに昇進かと、珍しくいい方向に思考を向かわせてみれば、気持ち良さそうに葉巻に火を点けるヒトデ野郎の笑顔に、一瞬にして希望は絶たれた。

「君はもっと視野を広げてみるべきだと思うんだ。ほら、君は若いし、僕は年寄り。僕の未来といえば、娘や不愛想なかみさんに看取られて逝くだけだな、ああ。しかし君の未来はそうじゃない。ほら、君、君の履歴書を見てみたんだが、君はこれでも色々な資格を持っているじゃないか。君にはうちの様な会社は勿体ない。な、そうは思わないかね」

 僕は「すみません」と小さな声で頷いた。

 砂の渇きはそのうち癒える。しかし僕の渇きは。

 答えはあるのだろうか。

 先に。



《ユートピア》——望めば与えられる世界

 砂を払っているものとばかり思っていた相棒のワイパーは、いつの間にか海の中を漂っていた。

 纏わりつく魚眼の景色の中で、2本の黒い縦線が揺れ動く。

ガッタン、ゴットン、ガッタン、ゴットン

「相棒よ。こんな場所でもお前は動こうとしているんだな。僕もどうにか抜け出さないと」

 僕はアクセルペダルを精一杯踏み込んだ。相棒は海底の砂を巻き上げながら、ゆるゆると動き出す。

 相棒に必要だったのは、僕の、たったこれだけの僕の、合図だったのかも知れない。

 そう、たったこれだけの僕。

 社会人としての存在意義を失ってからの僕は、自分の存在意義さえも疑っていた。誰からも必要とされない僕に、生きる必要があるのか。誰とも何にも噛み合ってない僕に、何の価値があるのか。

 虚無に問う、何も返ってはこない。

 零れた歯車は目障りになるばかり、塵として掃かれるのが落ちだ。そしてそこにあったことすら思い出されず、誰の記憶にもない。

 誰の心の中にも、僕はいない。

 だから僕はこいつを選んだ。

 何度裏返しても、どんな文脈を辿っても、僕と相棒の相互価値は等しかったからだ。僕は相棒が無ければ進めず、相棒も僕が無ければ動けない。

 目の前は舞い上がった砂埃で暗く覆われている。

「さあ、相棒よ。この息苦しさから逃げ出そう」

 何も見えないのではなく、何も見たくないから、いつでも僕の目の前は真っ暗だったんだ。

 それでも僕は、この暗闇から逃げ出したくないと思っていた。だからここから出なければならないのだ。

 僕が逃げ出そうとしない場所は、僕の怠惰に他ならないんだから。

「さあ。相棒よ。もうすぐだ。先は。もうすぐ」

 相棒は僕を乗せ、勇猛果敢に水と戦っている。

 一方僕は、フロントガラスにくっついてくる僕の記憶と戦っていた。

僕を無視したイッカク、、、僕を脅したタコ、、、僕を追放したイカ、、、

 そして僕を見限った僕。

 それでも相棒は僕を乗せて進む。僕も一緒に進まなければいけない。進まなければ、取り残されてしまうからだ。

 この深い海の中に。この暗い海の中に。

 僕はハンドルにしがみついた。

 前を見る度、僕の胸はきつく締め付けられた。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 掻きむしりたくなる苦痛、息の詰まる様な恥辱、藻掻く様な有様。

 逃げたい。

 逃げたい。

 しかしそんな道は無い。

 ここは前進しか許されない1本道。

 進まなければ、逃げることはできない。

「ここから出なければ」

 僕は悲鳴を上げながら、アクセルペダルを押し込む。

 足元で、相棒の唸り声が鳴った。

 進め。

 進め。

 進め。

 いつか僕らは浮き上がっていた。海底の砂ばかりを撒き散らしていた相棒の車輪は、今は青い水のレールを辿っている。

 ペダルを踏む。

 泡ぶくが僕らを包み込む。

 ゆらゆら、ゆらゆら

 待っていたのは、光。

 溢れる。

 光がそこにあった。

《ユートピア》──もし、もしも、もしも、この物語が本当であってくれたなら、僕が実際であってくれたなら、向き合った僕が事実であったなら

 濡れた服を乾かす暇も無く、僕らは止まった。

「ここのコンクリートは綺麗だ。なあ、相棒」

 僕は相棒を撫でた。

「相棒。お前はまだ走れるか。僕は、もう一度」

 ポケットの中から取り出すのは、マッチの箱。

「相棒。お前はまた走れるか。僕は、もう一度」

 擦れば火が付く。火なら、僕らを乾かしてくれるだろうか。

「扉は閉めたか。次に扉を開ける時。先に進む道しるべ」

 僕はマッチを落とす。火は一瞬にして燃え広がる。

「次に扉を開ける時」

 違う景色が広がっているのだろうか。

 先に。


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