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『ぼくの火星でくらすユートピア⑶』

《ユートピア》──追いかけても追いつけない蝶を、追いかける行為の儚さを知る

 冷たい風も限度を知らねば砂を積もらせる。

 僕と相棒は風が運んできた砂漠という景色に、呆然と立ち尽くした。しかし後退するという選択肢は、僕らには無い。ここを抜け切るしか無い。

 僕は今度こそ、しっかりとエンジンブレーキを下ろし切る。

 「逃げたい」と思い続けた人生だった。

 僕は常に逃げ道を求め、辛いことにも幸せ過ぎることにも、背を向けて生きてきた。僕の気持ちはいつだって、何も無い場所に辿り着きたいと希望していて、きっと、この世に生まれる苦痛でさえ、僕にとっては心地の良い逃げ道だったに違いない。母の腹の中は、狭すぎたし、温か過ぎたのだ。

 その思考の為か、僕の人生の大半は何も無く、無難に終了していってくれた。

 就職活動においてもそうだ。僕はそこそこの大学を出て、そこそこの資格を取り、そこそこの履歴書を持って、そこそこの志望動機を披露し、そこそこのルックスでもって会社の合格印を受け取った。

 入社式の後、長い廊下を歩いている最中、「どうして僕がこの会社に選ばれたのだろうか」なんか、1ミリたりとも考えなかった。「僕の様な人間が受かるんだから、周囲もきっと僕の様な人間たちに違いない」と括っていたからだ。しかしそれは僕の思い込みでしかなかった。

 自己紹介から始まった業務は、昼飯を食べる頃になると、「孤独」という香辛料に苦しめられるようになった。

 「どうして僕が」という疑問に支配され続けたのは次の日に同僚たちが仲良く集団出社してきた時で、1週間も経つとその味付けさえ、辛いと感じなくなってしまった。

 しかし今思えば、同僚たちは部屋の隅で小さくなっていた僕に気付いていなかったのかも知れない。僕が「ああ」なっていたのも、所詮、自然現象に過ぎなかったのだ。僕は少々欲張りすぎていたのかも知れない。

 いつでも太陽は、天空の中心で輝いている。

 「太陽の大きさを想えば、僕たちの悩みなんてどうして小さいものだろう」と説く人間が、僕の周囲には沢山いた。

 実際そういう奴らの悩みは小さいもので、端から悩みを持って生まれていないか、悩むという脳味噌自体持っていないかのどちらかなのだ。僕はそういう奴らが大嫌いだった。

 一方、悩まないという才能に欠如する僕の様な人間は、見上げなければ確認することさえできない宇宙のことなんて考えている余裕もなく、あれこれあれこれ考えてきた。恐らくこの肉体がフレアに焼き尽くされたとて、この憐れな脳味噌は、頭蓋骨の中で電気信号を飛ばし続けるだろう。

 全人類よ、宙を見よ。あの星の数こそ、僕が悩み抜いた数である。

 自分の悩みを見つめ続けてばかりいた僕は、他人を見下し、他人を拒絶して生きていた。

 そんな人間が、社会に出て、及第点を貰えるなどと、誰が思うだろうか。

 外を廻っては散歩で終わり、内に入っては茶も汲めず、最後に与えられた仕事は、見晴らしの良い席で延々と書類にホチキスの針を刺し続けるというものだった。

 誰から馬鹿にされても構わない。僕は僕の何とも無い人生を守り抜くだけだ、そう覚悟を決めていたのに。

 生と死について考えたことがあるか?

 パチン、パチン

 僕は嫌という程これら人間の大イベントについて考えた。

 パチン、パチン

 人はどうして生まれ、そしてどうして死にゆくのか。

 パチン、パチン

 どうして死にゆく運命にあるのに、こんなにも賢く生まれてきてしまうのだろうか。

 パチン、パチン

 どうせ死にゆくのだから、学びを施したり、未来に繋ぐ為の運動などしても、空しいだけではないのか。

 パチン、パチン

 脳内で巻き起こるビッグバンの応酬を、ひとつひとつ繋ぎ止めるかの様に、僕はホッチキスの針を用紙に差し込む。

 パチン、パチン

 ここで単純作業に侵され続けた僕は、宇宙の端っこを捕まえた。

 パチン、パチン

 要するに、人間には生も死も存在しないのだ。

 パチン、パチン

 僕、という意思さえも、この世には無い。つまり、僕、という妄想なのである。僕、という妄想は、生まれも死にもしない。生産し続けるだけだ。

 目の前にある物、それは本当に存在するだろうか。誰がその物体を作り出したのか、僕、以外何物でもない。目の前の物が何物かであったなら、ならどうして、他人の目に映る景色が見えないのだろうか。僕は僕の主観でしか世界を見れていない。その可笑しさを問うべきなのだ。

 全ての人や物体は、僕、という妄想の中ででっち上げられる。僕、の許可無しでは存在できず、僕、が望む時でしか名前をつけられることもない。

 僕、は無知を装って凡そにして全ての創造主であり、僕、は何物にも触れることすらできない。

 僕、は生きていると思い込んでいるだけなのだ。

 僕、は僕の主観そのものであり、目の前を通り過ぎる知らない人であり、僕、を貶める他人でもある。僕、はその気になれば誰かに成り代わって生活することができる。その方法とは。

 そこで意識は現実に戻った。

 現実とは、たかだか11ページの資料すら纏められなかった、僕という結果になる。

 その日以来僕にホチキスを貸す者は現れなくなり、とうとう会社から用済み認定された。

 月初め、人事のヒトデ野郎が呼んでいるというので僕は会議室へと向かった。ついに昇進かと、珍しくいい方向に思考を向かわせてみれば、気持ち良さそうに葉巻に火を点けるヒトデ野郎の笑顔に、一瞬にして希望は絶たれた。

「君はもっと視野を広げてみるべきだと思うんだ。ほら、君は若いし、僕は年寄り。僕の未来といえば、娘や不愛想なかみさんに看取られて逝くだけだな、ああ。しかし君の未来はそうじゃない。ほら、君、君の履歴書を見てみたんだが、君はこれでも色々な資格を持っているじゃないか。君にはうちの様な会社は勿体ない。な、そうは思わないかね」

 僕は「すみません」と小さな声で頷いた。

 砂の渇きはそのうち癒える。しかし僕の渇きは。

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