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#109 キャロルさんの奇跡講座レッスン
奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪
キャロルさんの奇跡講座レッスン109
元の講義はこちら→ https://youtu.be/7wB0Sl7Jmo0
今回もようこそ、親愛なる皆さん♪
私たちはもう、ここまでやって来ましたね。
レッスン109
「私は神の内に安らう」
このタイトルに注目する必要がありますよ。
これは単に「オッケー、ちょっと神の所に行って休んでくるわ」みたいな、ちょっとした用事を済ませてくるといった意味ではありません(笑)
これは選択です。
これは強い欲求であり、私たちの望むものであり、そして実は、もう既に「そうなっている」ことでもあります。
初めの一文に「求める」とありますが、これは実際は「私たちの当然の権利を主張する」ということなのです。「外観によって揺らぐことのない静けさを求める。」
この後に、一連のリストが続きます。
「混迷のただ中で幸福•静寂を求める」確かに私たちはたくさんの混迷がありますね。
「自分が危険や悲しみを見ているように思えても、安全と幸福を求める。」
そして私たちには、こうした要求を体験できるような認識に私たちを運んでくれる思考があります。
「私は神の内に安らう」
「この思考が、私たちが探し求めている安息と静けさ、平安と静寂、安全と幸福を、私たちに運んでくれるだろう。」
それは、私たちを前に進めるようにし、そして内側に向かうようにしてくれます。
この考えには「私たちの中で眠っている真理を目覚めさせる力が」あります。真理は欠如しているのではなくて、私たちが今はまだ、すべての人、すべてのものの中にある真理を自覚していないのです。
ここに、すべてのもの、すべての人、そして全世界の苦しみの終わりがある。
これまでにやって来た人の、そしてこれからやってくる人にとっての苦しみが、ここで終わる。
この思考の内に私たちは再び生まれ、自らを認識する。
もしあなたがこのレッスンを年初に始めたのなら、再生の季節である春にこの回が配置されているということは、興味深いですね。(北半球にいる人にとっては!笑、この本が書かれたのは北半球なのでね!)
「神の内に安らう」
この想念が、まったくたじろぐことなく私たちを運んでゆき、嵐や騒乱を通り抜け、不幸や苦痛、損失や死をも通り過ぎ(これほど沢山のことを置いて行けるなんてとっても良いわね!)、愛の確かさへと連れてゆく。
愛の体験が私たちにもたらす確かさを一度ほんとうに経験したならば、疑いはそこで終わります。
それが癒すことのできない苦しみはありません。それか解決できない問題もありません。
そして、酷い外観のように見えるものがまったく違ったものに変容するのです。
今日は平安の日です。
私たちは神の内に安らいます。
「安らう」とはどういう意味か、思い出してみましょう。
それは、仕事や活動、動きを止めること。
あるいは心を騒がせるものや邪魔するものからの解放、自由とも言えます。それは、静謐な感情ということです。
「吹き荒ぶ憎悪の嵐に世界が引き裂かれていても」私たちは大丈夫。私たちの安らぎは乱されません。私たちの安らぎは、真理の中の安らぎだからです。
真理には実体がありますね。しかし、外観にありません。だから、それらに乱されることはないのです。
「ともに安らおうと皆に呼びかければ」とあるのは、私の心の中にある思いを皆のために分かち合うなら、皆がそれを、あるレベルで受け取るのでしたね。彼らは別の声、エゴの声を聞くのではありません。彼らが聞くのは、愛に代わって語るこの声です。
今や私たちは自己の中に深く安らいます。愛のプレゼンスの中に安らうのです。そして私たちを通して、愛が語るままにします。
それを許す時、「私たちには心配や懸念もなく、重荷や不安、苦痛、そして未来に対する恐れや過去に対する後悔もありません。」こんなにたくさん、荷物を下ろすことができるんです。
「時間を超えたところで安らい」、この意味は、私たちは今、現在の瞬間にいるということです。今ここにいるというのは、時間とは実際関係ありません。時間というのは、私たちが過去を思い出している、そして未来を予期することと関係します。そうではなく、〈今〉私たちは安らうのです。その間、時間は私たちに触れることなく過ぎていくのです。安息は、決して私たちを、いかなる形にも変えることはないからです。
さあ、目を閉じます。
そして静寂の中へと深く入っていきましょう。
この休息と安らぎの時間に「せわしい夢想」、つまり誰が誰に何をしたとか、これからどうなるのだろうといった不安、「熱病の夢」とレッスンが呼んでいるものは、すべて消え去ります。
いいですね。
心を鎮めましょう。
そして、感謝の気持ちで心の癒しを受け入れましょう。
今や私たちは愛を選んだので、もう怖い夢を見ることはありません。
1時間ごとに練習を行いますが、さて、レッスンはここで詩的な表現で伝えてくれますね。ここの部分は本当にとっても美しく描写されています。
「疲れた心はにわかに(どこからともなく、なぜか!)悦びに溢れ、翼の折れた鳥はさえずり始め、長い間枯れていた小川は再び流れ出す。」
そして「毎時間、私たちが安らい、私たちがここに来たのは愛の平安、神の平安を世界へと運ぶためだと思い出すたびに、世界(そう、私たち一人一人が住んでいる主観的世界のことです)は再び生まれ変わる。」
私たちは皆、同じその使命を持ってここにやって来たのです。
今日、私たちが5分間安らうたびに、世界は目覚めに近づきます。
「もはや倦み疲れてひとりでは進むことができないほどに消耗しきった心に、安息のみが存在する時間が近づいてくる。」
まあ、良かった!一人で進まなくて良いんです。
「そして彼らは鳥がさえずり始めるのを聞き、小川が再び流れ始めるのを見るだろう。希望が再び生まれ、力が回復し、にわかに進みやすくなる」いったいどこからこの力は湧いてくるのでしょう!
私が心を入れ替えれば、突然、人生における全てが違ってくるんです。
今日、神の内に安らい、私たちは皆に呼びかけます。私たちは自分が信頼するものに忠実になります。そのために私たちはやって来たのですから。誰ひとり忘れることなく、すべての人を、私たちの平安の中に運ぶのです。
学びましたね、もし誰かを置いていくと決めたなら、私はそこで敗者となってしまいます。私が与えるものを、私は受け取るんでしたね。
だから、「神殿の扉を開き、遠くからも近くからも、疎遠な兄弟も身近な友も、みんなをここに呼び寄せ、ともに安らうように招き入れよう」と言っているんですね。
私たちは今日、静かに、恐れることなく、神の平安の内に安らう。皆が自ら安らうためにやって来て、私たちにも安らぎを差し出してくれます。そうです、「与えることは受け取ること」ですから。
私たちは共に安らいます。「そうすることで、私たちの安息が完結するからである。」そうですね、今日の教えは非二元論の教えなんですね。
それから、こんな素敵なことが書かれていますよ。
「時間は、今日、私たちが与えるものの管理者ではない」
私たちは単に今、身近にいる人に与えるのではありません。私たちは、まだ生まれていない人たちにも与え、既にここを去って行った人たちにも与えるのです。創造されたものすべての側面に与えるのです。私たちがやって来た元の場所に遡ってさえ、与えるのです。
そして私たちが「私は神の内に安らう」と言うたびに、一なるものとして、すべてのもの、すべての人に、安息の場所を思い出させるのです。
私はこれを選択します。私は、愛の中に安らいます。私はこれを、私が受け継いだものとして受け取ります。
美しい1日にしてください。
美しいレッスンです。生まれ変わる、素晴らしい時を体験してください。
また明日お会いしましょう。
バ〜イ♪
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