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#160 キャロルさんの奇跡講座レッスン

奇跡講座の最も初期からの学習者であり教師のひとりであるキャロル・ハウさんによる、ワークブックのレッスン講座の音声を、彼女のイキイキとした語り口にインスパイアされて翻訳を試みています💖お手元にワークブックを準備してお聞き(お読み)ください♪

※奇跡講座ワークブック編 中央アート出版社を参照しています。

キャロルさんの奇跡講座レッスン160

元の講義はこちら→ https://youtu.be/IrHq_1ZO_4M


ハーイ皆さん♪
おはよう、こんばんは!あなたのいる場所ではどちらかしら?
レッスン160です。

始める前にひとつ申し上げておきたいことがあります。このレッスンでは、物凄くたくさんの代名詞が登場します。
あなたの知性の部分が、これらの代名詞に追いつけなくて一体何の事を指しているのか混乱しそうになるかもしれないので、先に注意しておきたいの(笑)
こうした代名詞はすべて、他のレッスンで言われていることと同じものを指しています。

私たちは分離の感覚をプログラムしてしまっていますが、それは私たちの真実の姿ではないということ。
私たちはそこに意識の焦点を合わせるようになっています。それは恐れに基づいているので、当然、私たちは怖がるようになりました。そのせいで、私たち本来の、ひとつに結びついた愛あふれる全体としての私たちの存在から、意識を向ける方向がずれてしまっています。いわば私たちは、自分のいる場所が分からなくなってしまっている状態です。
これは全部、覆されなければなりません。難しいことではありません。私たちはただ、自分が何であるかを忘れてしまっているだけ。本来の姿が損なわれたことは一度もないのです。
助けを求めれば、得られます。
それがこのレッスンにおける、基本の理解となります。いいかしら?
さあ、行きましょう!

レッスン160
「私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。」


「恐れは愛の道にとって異邦人である。」
それも当然です。なぜなら恐れとは実は愛の欠如だから。この二つは対極にあって、闇とは光の欠如ということと同じです。

「恐怖と一体感を持つなら(エゴがそれ)、あなたは自分自身にとって異邦人となる。だから、自分が誰なのかわからなくなる。
あなたの中には、自分では実在していると思っているが真のあなた自身とは異なる部分があり、その部分にとっては、あなたの真の自己が異質なものであり続けている。」

これはあなたのエゴのプログラムのことですね。あなたが生まれてから、そして生まれる前に始まっています。でもそれは実際のあなたの姿ではありません。

「このような状況下で、いったい誰が正気でいられるだろう。狂人以外の誰が、自分で自分ではない何かだと信じ、自分自身を裁いたりするだろうか。」

私たちは今や自分の実相はエゴであると信じ込んでしまうようになったということです。そして自分自身を裁くようになってしまいました。レッスンの目的は私たちのエゴ・プログラミングを元の状態に戻すことです。そのプログラムにより、私たちは自分が分離している存在だと信じ、自分自身のケアと愛着に取り憑かれています。それは罪悪感と恐怖に基づいていますが、その大部分は無意識のうちに行われています。ほとんどの人たちが、人生の大半を「私とは一体何者だろう」と疑問に思い続けて過ごしているのです。まるでそれが謎であるかのように。従って、レッスンはこのように続きます。

「私たちの心の中に異邦人がいる。その存在は真理とはまったく無縁の想念から生じているので、異なった言語を話し、真理の知らない世界を眺め、真理が無意味と見なすことを理解している。」

異邦人とは、分離感に基づく自己概念、私たちが〈わが家〉を離れることができるという概念に基づく自己概念のことを言っています。私たちは幻覚を見るようになり、それによって生じたように見える恐ろしい世界の中で、どのように対処すればいいのか、わからないでいるのです。
「さらに奇妙なことには、その異邦人は自分が誰の家(自覚を持つ認識の部分)を訪れているのかも認識していないのに、その人の家が自分のものだと主張し(エゴこそが実相だと主張している)、その家の主を今ではよそ者扱いしている。」
本来の愛である姿が虚偽に見え、ここにはないものとされ、他のあらゆるものにもそれが見えなくなっています。

「しかし、あなたが次のように言うことは、実に簡単なことである。『ここは私の家である。ここが私のいるべき場所なのだから、狂人から、ここを立ち去れと言われても、私は出ていくつもりはない』と。」

この文章が伝えたいのは、「私がずっと本当だと信じ込んできた狂ったプログラムときたら!これまで、それを疑問にも思わなかったし、それに服従してきてしまった。もうこれからは、そんなことはしない。」ということです。

「このように言わないのは、なぜなのだろう。」
立ち上がってこのおかしな概念に向かって対抗しないのは、どうしてでしょう。

「理由があるとすれば、それはただ、あなたがこの異邦人に、中に入って自分の代わりになってくれるように頼み、自分自身を異邦人にしてしまったからではないだろうか。」

ここが、テキストで言うところの、「全てが一なるものである永遠の中に、ひとつの小さな狂った考えが忍び込んだ」ところです。「もし私たちが別々の自己だとしたら?」「もし、自分が〈特別〉だとしたら、何が起こる?」という考えが浮かんだのです。

「他にもっと自分の好みにあった家があると思ったのでない限り、誰もそのように必要もなく自分の家を明け渡したりはしない。」

これがいつ起こったのか私たちは知り得ませんが、私たちは〈特別性の世界〉とでも言うべき分離の実験をすることが、良いアイデアだと判断してしまったんです。この最初の〈小さな狂った考え〉がいつ生じたかではなく、いまだに現在もそれが続いているという事実が、問題なのです。

「この異邦人とは誰のことなのだろうか。わが子のために用意した家に似つかわしくないのは恐れだろうか、それともあなただろうか。」

そうですね、比較になりません。神の子とは、一なるものにおける私たちの本当の姿であり、私たちの中にある光です。

「恐れは、と同質のものとして創造された神の子だろうか。」
もちろん違います。

「恐れとは、愛が完成し、愛によって完成されるものだろうか。」
これも、もちろん、違いますね。

「愛と恐れをともに住まわせることのできる家はない。その二つは共存できない。もしあなたが実在するのなら、恐れは幻想に違いない。そしてもし恐れが実在するのなら、あなたはまったく存在しないということになる。

それならば、疑問はなんと簡単に解決されることだろう。 

恐れを抱くものとは、単に自分自身を否定して、次のように言った者のことである。『ここでは私はよそ者である。だから私は、自分自身よりももっと自分らしい者にこの家を明け渡して、私が所有していると思っていたものを全部与えてしまおう』と。」

私はエゴに、私の愛、私の思いやり、注意、崇敬を捧げ、エゴのためなら何だってやってあげようと思ったのです。

「こうして彼は今や、自分が誰なのかを知らず、やむなく放浪の旅を続ける。彼にわかることは、自分が自分自身でなく、自分の家が自分自身に対して拒まれているということだけであり、それ以外のすべてについて何の確信も持てなくなっている。」

こうして私たちは道に迷ったと感じ、希望を失い、愛されていないと思うようになりました。

「彼は今、何を探すのだろう。何を見つけられるだろう。

自分自身にとって異邦人となってしまった者は、どこを探しても、自分の家を見つけることはできない。帰宅することを自分で不可能にしたからである。」

私たちが幻想の中で自分を分離した細胞だと夢見ている限り、私たちは見失われたままです。

「彼は道に迷っている。しかし今、奇跡が彼を探し出して、彼は異邦人などではないと教えるだろう。その奇跡は訪れる。彼の家には、彼の真の自己が今も留まっているからである。

自己(真の自覚)は異邦人を家の中に招き入れたことはなく、異質な考えを自分自身と取り違えることもしなかった。そして自己は自分に属するものを認識して、それを自分自身へと呼び戻すだろう。」

つまり、私たちは、気づいていようといまいと、一つにつながり愛するように、そして完全になるようにと呼びかけられているのです。

「この異邦人とは誰なのだろう。それは、あなたの自己が呼びかけていない者のことではないだろうか。
あなたは今、自分の中にこの異邦人を認識することができずにいる。自分の正当な居場所をその異邦人に与えてしまったからである。

しかし、あなたの自己は、がわが子を確信しているのと同じように、自分に属するものについて確信を抱いている。が被造物について混乱することはありえない。神には自身に属するものについての確信がある。の智識と神の子の実相の間に異邦人が介入することはできない。が異邦人を知る事はない。はわが子について確信している。

の確信だけで充分である。わが子として知られている存在は、に置かれたところに永遠に属している。「誰が異邦人なのだろう」と聞いたあなたに、は答えている。」

そう、エゴが異邦人なのです。

「あなたはにとって異邦人ではなく、あなたの創造主もあなたにとって異邦人となってはいないと、の声が静かに、確かに、あなたを安心させるのを聞きなさい。が合一させたものは永遠にひとつであり続け、の家でくつろいでおり、神自身にとって異邦人ではない。」

あなた達は皆、お互いを知っているのです。

「私達は今日、キリストキリストに属するものを探しにこの世界に来たことに、感謝を捧げる。キリストのビジョンは異邦人を見ることなく、ただ自分に属する者たち(ワンネス)を見つめ、喜んで彼らとひとつになる。彼らはキリストを異邦人と見なしているが、それは彼らが、自分自身を認識していないからである。

しかしキリストを歓迎するとき、彼らは思い出す。そしてキリストは彼らを再び、彼らの家(私たちの本当の居場所)へと優しく連れ帰る。

キリストは誰も忘れてはいない。
あなたが思い出すべき相手を一人残らず、キリストがあなたに与えてくれる。それによって、あなたの家はそれが建てられた時と同じように、完全で完璧なものとなるだろう。

キリストはあなたを忘れてはいない。
しかしあなたは、キリストが見ている通りに全ての者を見るようになるまでは、キリストを思い出すことはないだろう。」

愛と思いやりで見るまでは。不満や非難を手放すまでは。全ての人を光の中で見たいと思うまでは。

「自分の兄弟を拒む者は、キリストを拒んでいる。そうすることで、視覚の贈り物を受け入れるのを拒否している。だがその視覚こそが、自分の真の自己をはっきりと認識し、わが家を思い出し、救済が訪れるための手段である。」

なぜなら救済とは、わが家に帰る道筋を再び見出すことにほかならないからです。

ね、まるであなたの〈明晰さ〉がバケーション中だって言ってるみたいな内容でしょう?笑!

あなたは〈わが家〉から離れたことは一度もなく、何も損なわれていない。あなたはずっと愛されている。それに深く思いを巡らせて、素晴らしい練習の日にしてください。

ではまたね♪

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